主を誇りとした人々

❖聖書箇所 使徒の働き5章33節~42節             ❖説教題 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。        使徒の働き5章41節

 

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 何度も警告、圧迫を受けながら、節を曲げない使徒たちに対して、最高の権力を持っていた、大祭司や議会のメンバーが怒り狂い(心をのこぎりで引き切られるような怒りの思いに満ちて)、使徒たちを殺そうとしたが、議会に加わっていたパリサイ人で、卓越した指導者として多くの人々から信頼されていたガマリエルが、(救われる以前のパウロの先生でもあったが)、歴史を振り返る時、どれだけ勢いがあるように見えても、人から出たものはやがて滅んでいる、それゆえ、あの者たちから手を引いていなさい、もし、あの者たちの計画や行動が人から出ているなら、確実に滅ぶ、しかし、神から出ているなら、私たちには彼らを滅ぼすことができない、それどころか、神に敵対する者になると発言したことを受けて、議員たちが態度を変えた箇所です。

 

 知恵に満ちたガマリエルの言葉により、議員たちは、殺害することをやめ、鞭で打ち、イエスの名によって語ってはならないと脅し、釈放したのです。けれども、釈放された使徒たちは、そんな脅しに屈服せず、むしろ、御名のためにはずかしめを受けるに値するものとされたこと、主イエスのために、福音宣教のために、迫害、圧迫を受けるようになったことを喜び、恐れないで、宮、神殿や家々で、イエスがキリストである、多くの人々が知っている、十字架で死んだあのイエスが全ての人の救い主であると宣べ伝え続けたのです。

◆(本論)この箇所が伝えようとしていること

①初代教会の進展において、重要な意味を持ったこの局面において、私たちは、キリスト者として重要な二つのことを知ります。一つは、迫害した側にいたガマリエルの言葉ですが、人から出たものは滅びる、しかし、神から出たものは、決して滅びないということです。ガマリエル自身は、使徒たちと反対の立場に立つ者でしたが、深い知恵の持ち主でした。主は、その知恵ある者を通して、真理を明らかにされたのです。二つ目は、殺されはしなかったが、鞭で打たれ、脅された使徒たちが、御名のために、はずかしめを受けるに値する者とされたことを喜んだことです。

 

②始めの、どれだけ勢いに溢れていても、人から出たものは滅ぶ、反対に、主から出ているものを滅ぼすことができないということについて。よく話しますように、戦前日本のキリスト教は、大勢が、天皇制に基づく強固な全体主義に沿うようなものになっていました。中でも、もっともらしい、日本のキリスト教は、桜花的キリスト教であるという考えが示されました。「桜花は今年散るが、また来年咲く。……桜花日本基督教は、桜花となって力を尽くして神の国に事え、力を尽くして帝の国に事える。我らは、殉教の為に血を流す。だが同時に殉国の為にも血を流す。日本人の耳で神の言を聞く桜花日本基督教は、桜花の如く美しく、桜花の如く悲しく、桜花のごとく勇ましい。……日本にしかない皇室を、日本にしかない桜花基督教を、一宇八紘、地上、凡ての人に見せたい。」(藤原藤男) しかし、いくら人々の気持ちを汲み取り、人々の心に届くものであっても、それらは人から出たものでした。日本的基督教は、敗戦とともにすぐに影を潜めました。

 反対に、聖書の伝える主イエスこそ、真の、唯一の救い主である、この方以外に救いはないと固く信じた者たちは、絶えず監視され、実際に厳しい迫害を受けました。日本国内にも僅かですが、そういう人々はおりましたが、良く知られていますのは、当時の日本統治下の朝鮮、韓国のクリスチャンたちです。中でも1938年、朝鮮長老教会大会において、日本政府の依頼を受けた、当時の日本教会を代表し、後の日本基督教団初代議長となった富田満から神社参拝を強く促されましたが、拒み、獄中で拷問死した朱基徹(チュ・ギチュル)牧師たちです。この時、約50人が迫害死したと言われています。訪問した西大門刑務所跡に抵抗した人々が収容され、拷問を受けた状況を示す場所、また死刑場が残されています。情勢を見るならば巨大な権力の前に無に等しい存在です。しかし、この人々の信仰は主から出ていた信仰でした。力で押さえ込むことはできましたが、滅ぼすことなどできませんでした。この人々の姿勢は戦後の韓国キリスト教の礎になって、同国における福音宣教の種となったのです。まさにガマリエルの言う通りになったのです。

 

③続いて、この箇所から教えられるのは、使徒たちが、御名のためにはずかしめを受けるに値することを喜んだということです。これは注目すべきことです。というのは、現代の信仰者である私たちの喜びが自分や周りの者たちが恵まれ、祝福されることに傾きやすいことを思う時、もう一度、本来のキリスト者の姿を知らされるからです。

 なぜ、使徒たちは、御名、(主イエスの全体)のためにはずかしめを受けるに値する者とされたこと、彼らは、イエスの教えを伝える危険な存在である、彼らを放っておくことができない、痛めつけて、こらしめなければならないと認められたことを喜んだのでしょうか。直接、主によって選ばれていた者たちだったからでしょうか。救いの奥義を伝える使命感に溢れていたからでしょうか。言うまでもなく、いづれもあったでしょうが、何よりも大きな理由は、彼らが主を本当に愛していたからだと思います。そして、この主を愛するということが問題なのです。

 以前に、ある説教の中で、あなたがたは、イエス様を箒(ほうき)か掃除機のように扱っていることはありませんかと問われたことがありました。汚いもの、いやなものが溜まってくると取り出し、綺麗にし、用が済んだならば片づける、普段は隅っこにおいて関係なく生きているのではないか、また主イエスを自分や周りの者が良い学校に入るための後押し、いい仕事につくための世話人、すばらしい家庭を築くための忠実なしもべ、社会で成功するための有力な後援者など、自分が良くなるための従者にしていることはないかと迫られました。それは、主を愛する姿ではありません。それは、主を愛するように見えて自分を愛しているだけです。主を愛するとは普段は隅に追いやったり、自分の従者にすることではなく、心の王座に迎えることであり、主の御跡の後に従うことです。砕かれた悔いた姿です。

 

◆(終わりに)生き方の中心に何があるのか

 使徒たちは、本当に主を愛する者でした。自分の人生を変え、新しい喜びと希望を与えてくださった方として、心から信頼し、すべてを委ねていたのです。一人ひとりを愛し、十字架の死まで受けてくださった主、そして甦られて新しい希望を与えてくださった主を仰いで生きていたのです。使徒たちは、「無学な普通の人々」でしたが、その信仰の中心、軸がぶれなかったのです。

 与えられた「もう一人の助け主」である聖霊に導かれて、イエスについて、特に十字架、復活について、その意味することを深く知り、主を真に愛するようになったのです。そのゆえに、危ない目にあわされても、脅されても屈しなかったのです。彼らは、十字架の直前、主が言われた「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選びだしたのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15章19節) ということばを身に染みて感じていたのです。

 

 人生の真理は多数派か少数派かによって決まるのではありません。本当に根本的不安、生きる意味、犯した罪の問題、死の問題に対して解決があるかどうかです。これらに対して、答えを与えているのは主のみです。私たちも、使徒たちのようにこの真理に歩もうではないでしょうか。