使徒たちの変化

❖聖書箇所 使徒の働き5章17節~32節      ❖説教者 川口 昌英 牧師  

❖中心聖句 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。  ガラテヤ人への手紙6章14節

 

❖説教の構成

◆(序)この箇所について

 

 教会の影響がエルサレムの人々の間に大きくなっているのを妬み、警戒したサドカイ人【パリサイ人と並ぶ当時のイスラエル宗教の一大勢力。エルサレム神殿の祭司家系に連なる裕福な上流階級。信仰的には肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を認めない。支配層であり、ローマ帝国との関係を重視した。要約すると、宗教的なことより、むしろ世俗的なことに関心を持った人々】によって、投獄された使徒たちが、御使いに救いだされ、宮の広場で人々に福音を伝えたところ、再度尋問され、しかし、少しもひるまず、今まで以上に堂々と反論したことが記されている場面です。

◆(本論)潮目が変わった場面

 この箇所から、私は教会についての状況が変わったこと、潮目が変わったことを感じます。これまでは、使徒たちについて、福音を知り、聖霊の恵みを受けた者として、力を持つこの世の支配層に対して教会を守るという受け身的な印象があったのですが、ここにおいては、恐れることなく、積極的に福音を人々に伝えていくという力強い姿勢を感じるのです。

 それは、同じように議会によって尋問された時の4章19~20節(朗読)と比べて、5章29節の言葉がより確信に満ちていることから分かります。4章の場合も、確かに力強い表明ですが、彼ら自身の思いが中心にあるように見えるのに対し、5章の場合は、さらに進んで人の普遍的真理を宣言しているように感じます。

 その理由としてエルサレムの中で信者の数が多くなり、教会の影響が強くなったことをあげることができますが、それだけでなく、聖霊に励まされ、導かれている使徒たちの側の変化、成長を指摘することができます。彼らは経験を通していろいろな面で成長しているのです。

①彼らの変化の背景を見て行きますが、一つは、御使いにより、獄から救い出され、そうして「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをことごとく語りなさい。」(20節)と言われたことによって、福音を語ることの重要性をあらためて感じたからです。これは使徒たちにとって大きな出来事でした。御使いが直接、自分たちを助けてくださり、また宮の中で、いのちのことばを人々にことごとく語りなさいと言われるほど、この福音を語ることは大切な使命であると改めて深く感じたのです。

 宮の中とは、律法中心の教えに基づいて神を礼拝する人々のところへ行って福音を語りなさいという意味です。本日の箇所に出ているサドカイ人のように、神の真理よりも社会的勢力としての立場を重視している者たち、あるいはパリサイ人のように、律法を厳格に守ることによって神の義を得ようとしている者たち、いずれも旧約以来の選民としての意識を強く持っているが、御心に対して頑なで、救いの恵み、福音を知らない人々のことです。すでに福音を知り、救いの恵みを受けている者たちにとっては反対者、敵対する者たちです。そんな人々にキリストの福音を伝えるように、御使いは獄から出したというのです。その御使いが言っていることの意味を知ったとき、使徒たちは、この福音は救いを与える唯一の道、全ての人に対して絶対的力を持つもの、御使いが言うように、人を霊的な死より救いだす、「いのちのことば」であること、生きることの根本であることを深く悟ったのです。(ローマ1章16節~17節参照)、

 

②使徒たちがより確信を持つようになった二番目は、支配層の実態が見えて来たことです。以前は、古くからの伝統に立ち、正しい権威を持っていると思い、恐れていましたが、その実態、旧約時代からの神の真理よりも、いかにしたら自分たちの立場を守ることができるかに終始して

いる姿が見えて来たのです。確かに人々を強制的に従わせる権力を持っていますから相変わらず大きな存在であることは変わらないのですが、その中身は、神にある真理や永遠を大切にすることよりも、この世をより良く生きていこうとしている人々であることが分かったのです。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という諺がありますが、使徒たちは、イスラエル社会を支配しているサドカイ人たちの言っていることは、イスラエルを真に治めている父なる神の前には、真理からかけ離れた間違ったことであると分かったのです。

 少し前の時代、東欧のある国に自由化の波が押し寄せた時、それを阻止しようとした側が戦車隊を出動させたことがありました。その時のことについて、ある高名な評論家が「言葉と戦車」という文の中で、町中に溢れた戦車は人を従わせる圧倒的力を持ち、自由を求める人々の声を抑え込むように見えたが、しかし、人の心までも変えることは出来なかった、本当に力を持ち、社会を変える力を持っていたったのは言葉、真理だったと言っています。

 この箇所において、使徒たちは、4章に続いて、拘束され、投獄されています。けれども使徒たちは、以前にはただ恐れの対象であり、又今も捕らえ、罰する力を持ち、社会的には大きな存在であるが、その者たちは、永遠の前には何の力を持っていないことをはっきり見ていました。彼らは、人間的勢いによってそう思ったのではなく、非常に落ち着いて相手の実態を見たのです。

 

③三つ目は、十字架を通しての神の愛の理解の深まりです。彼らはこう言っています。30節~32節。あなたがたが十字架につけて殺したあのイエスは、神が人の罪を贖うために、旧約時代から約束されておられたメシヤであった、神はそのイエスを甦らせた、それは、まず神の民、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるためであった、そして、イエスは、すべての御わざを成し遂げて、今、神の右の座にあげられている、私たちはそのことの証人であり、聖霊もそのことの証人であると言っています。これらの言葉の中心にあるのは、罪に支配されている人間に対する神の圧倒的なめぐみと愛です。使徒たちは、自分たちは神の民とされながら、互いを非難し、裁き合い、主の使命に応えてこなかったが、神は惜しみなく深い愛を与えてくださったというのです。そして、その主の真実と愛に対する思いがますます深くなっているのです。もちろん、聖霊の導きによるのですが、こうして使徒たち自身も霊的に成長し、福音の恵みを深く知り、さらに、召されている使命の重要性を意識するようになり、だんだんと力強くなっているのです。

 

◆(終わりに) 十字架を誇る者に

 

 ここでの使徒たちと同じような思いについて、ガラテヤ書6章14節でパウロは、主を信じる者について、「この十字架によって、世界は私に対して、十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」と言います。ここで言う世界とは、罪が支配している世という意味であり、もはや私はそういう罪に満ちた世に対して死んだ、世を覆っている罪による生き方をしないという意味です。自分と世は、これまでは罪、自分中心の生き方、自分が認められること、評価されること、受け入れられることで繋がっていたが、今や、世と私は十字架によって繋がるようになったというのです。言い換えれば、十字架を通して、世のすべて、自分、他の人々、起きている事柄を見るようになったというのです。主の十字架によって人生を変えられた者として、十字架という視点を通して世界を見る、十字架という架け橋によって世界と繋がるというのです。主の十字架を知ったことはそれほど私の人生にとって大きな出来事であったというのです。私たちにとってもあてはまるのではないでしょうか。私たちは、社会を、世間を非常に恐れています。しかし、それらは、私たちの人生に対して、圧迫を与えますが、責任は少しも持ちません。そんな責任を少しも持たないものに支配されてはなりません。私たちの人生に責任を持ってくださるのは、生ける神のみです。「人に従うより、神に従うべきです。」(29節)この方を仰いで生きていきましょう。