神の時を生きる

■聖書:出エジプト記2:23-3:10   ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ63:9

 

1. はじめに

 出エジプト記を読み進めています。いよいよ本日は第3章に入り、あの有名な場面、モーセが神様と直接出会い、声をかけられ、使命が与えられるという場面を見てまいります。この箇所は大事な場面ですので、今回と次回、二回に分けてそれぞれの視点で見ていきたいと思っています。しかしその前に、少し前回の箇所を振り返っておきましょう。前回は2:1-22、モーセ誕生から80歳に至るまでの経緯をともに学びました。生まれたモーセを待っていたのはみんなからの歓迎や祝福ではなく、王の命令による死です。けれども両親は命令に背いて彼を守り、さらに不思議なことですが、エジプト王妃に巡り会い、掬いあげられ、エジプト王室でパロの家族として生きることとなった大どんでん返し。一晩でではありませんが、シンデレラストーリーとでも言うのでしょうか。死が運命付けられていた赤ちゃんは一点して栄華を極めるエジプトの王の家に入れられたのです。モーセはもちろん、両親を含めて誰一人予想できない展開が待っているのでした。

 しかし、そんな彼の人生は40歳の頃、一つの事件によってさらに大きく急展開します。彼は同胞を助けるためにとはいえ、エジプト人を殺してしまった。それは同胞のため、傷つく人のためという義のための怒りではあったでしょうか、彼は神を見て行動したわけではなく、12節「あたりを見回し」、すなわち他の人の目を気にしながら、自分を守りながら、自分の怒りに任せて拳をぶつけたのでした。そんなモーセは、助けたはずのイスラエル同胞からも受け入れられず、エジプトの地を逃げ出し、華々しく賑やかなエジプト王室とは一転、寂しい荒野でみすぼらしい羊飼いとなったのでした。こんなにも波乱万丈なモーセ80歳までの生涯が描かれていたのが、前回の場面です。そして注目すべきは、ここには一度も神様の名前が出てこないということ。私たち人間の目で見るならば、神は沈黙しておられる、いやそれどころか、そもそも神なんていないんじゃないかと思わせるような場面と言えるでしょう。出来事は気まぐれに転がり、偶然の連続のように思ってしまうのです。まことの神を知らず、この神がこの世界を支配し、歴史を統べ納めているということを知らなければ、そのように考えるのでしょう。置かれている状況に不変不満をつぶやき、でも結局はしょうがないとあきらめ、また流されるままに生きていく。神を知らない人の生き方、これはいつの時代も一緒であります。あてもなくふらふらとその場しのぎで日々を過ごし、結局は人生の目的も見出せないまま、あるいはきわめて自己満足のもので終わるのです。

 しかしそんな神様が見えない箇所から一転、すぐ後の三章では、神と人とが顔を合わせるのでありました。いや、神様がこの一人の人物、失敗を抱えて、同胞も故郷も失った傷つくモーセに出会ってくださった。それも、気まぐれに出会われたわけではありません。神様の時の中で、モーセ失意で過ごした荒野での40年間もなくてはならない期間であり、その必要な時が満ちて、神様はモーセに出会われたのです。本日の箇所は、いきなり三章から始まらずに、その前から選ばせていただきました。ともすると忘れられがちな箇所です。出会われた神様、あるいはエジプトからの救出を始められる神様のみ思いを、その深い愛とあわれみを、よく知ることができる大切な箇所。2:23-25から見て参りましょう。

2. 神が見えない歴史の中で、確かに人を覚えてくださる神様

 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 この箇所は、この後の有名なモーセとの出会いの背景にあったものが何であるのか。言い換えれば、歴史の見えない神様のみ思いの部分を表している箇所です。歴史の背後に隠れられている、沈黙しておられると私たちが勝手に思っていた神様ですが、イスラエルの嘆きを聞き、その目に留められていたのだということが書かれています。しかしここでふと思います。神様は、それまでにも長い年月があったけれども民の嘆きを聞いていなかったのか、契約を思い起こされたとありますが、ではそれまではうっかり忘れておられたのか。そうではないのです。「思い起こす」これは記憶を呼び戻すことを意味するのではなく、「覚えている事柄に積極的な注意を向けること」と説明されます。つまり、これまでにも覚えてもいたものが、時いたっていよいよ前に進み出す、目に見える形で前進し始めた、ということです。具体的な動きがなかったからといって、神様はひと時も忘れはしなかったし、その民の声を聞かれていなかったわけではないのです。「契約を思い起こす」。この契約は、続く箇所にもありますようにアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約です。それはアブラハムの旅の初めに与えられた契約がまず考えられるでしょう。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者としよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」しかしさらに、より具体的な約束を神様は与えておられました。創世記15:13-14あなたはこのことをよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちの者でない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出てくるようになる」まさしくこの約束が神様の心にはあり、その実現の時がいよいよきたということなのです。

 さらに言いますと、この「思い起こす」という言葉は、ヘブル語ではザーカルですが、本日私たちがともに守ります聖餐式の際に繰り返し語られる言葉と同じ意味をもっています。それは、私たちがパンを取り、杯を取る時にイエス様が言われた言葉、「わたしを覚えてこれを行いなさい」という言葉です。以前この箇所からお話しした時、これは「こころに刻む」という意味があるとお話ししました。こころに刻むというのは、その時だけのことではありません。もう少し言えば、「こころに刻まれた」ことを「いつも覚えている」ということが求められている。何度もなんどもその刻み付けられた言葉をさすり思い出す。すり減ったりしないように、いつもこれを覚え、これをこころの中心に置いて生きるということです。イエス様はイエス様の十字架をそのように「こころに刻み、これを覚えて」聖餐式を守るようにと言われました。しかしそれはいきなり私たちに押し付けたのではなく、まず神様ご自身が「神の民をこころに刻み、いつも覚えていてくださる」ということがあるのです。長い沈黙と思えるような荒野の時代にあっても、苦しみうめく奴隷の状態であっても、孤独で失意の中にあっても、決して忘れられないお方。それが神様です。その契約、アブラハムと結ばれた約束を覚えておられ、出エジプトで明らかにされました。しかしそれで終わることなく、その契約のさらに先に十字架が置かれ、それは今日の私たちのこころに刻み付けられている。この恵みを改めて覚えたいと思うのです。私たちの周りは日々めまぐるしく変わります。人間関係、社会情勢、時に私たちの思いも様々なことで変わっていく。そんな中でも、神様のこころに刻み付けられた神の民への愛・あわれみは変わることなく、私たち自身は変わっても決して変わることのない私たちの心に刻み付けられたイエス様の十字架をいつでも覚えていたい、そのように願います。

 そのような神様の大きな愛はさらに一つの言葉で表され、人の目に映る神不在、沈黙の時代は終わります。それは25節の終わり、「神はみこころを留められた」という言葉です。これは単に気に留めておく、などといったものではありません。英語ではrespect unto them.となっているでしょうか。尊敬・尊重という他にも大事にする、注意を払うという意味を表す言葉が使われています。ヘブル語では単に「イスラエルを知った」とあります。知るというのは、もうご存知の方も多いと思いますが、単に知識として知る以上の意味を持っています。それは愛によって結び合わされ、一体であると教えられている夫婦が「互いを知る」と表現されているように、人格的な知り方、一心同体の知り方とでもいえるものです。喜びも悲しみも共有する。ともに喜びともに涙する姿です。何が言いたいかと言いますと、ここで神様がイスラエルを知られたということは、彼らの苦しみ、嘆き、悲しみ、失意の全てを共有してくださった、一緒に背負ってくださったという意味があるのです。それは、7節「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに身、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」というモーセ派遣の言葉にも表されている通りです。「わたしは彼らの痛みを知っている」それをご自身の痛みとして負ってくださっている、共感してくださっている。その最たる形が、イエス様であります。本日の中心聖句はイザヤ書63章です。これを読むだけでも、神様が私たちと苦しみを共にしてくださること、どれほど私たちを愛し、共に生きようとしてくださっているのかということに気付かされますが、同じイザヤ書の中には、イエス様の姿を描いた53章があります。その3節には「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」とある。脚注には別役として「痛みを知る人」とあります。まさに、私たちの直面する苦しみ、痛みを知ってくださるお方、孤独を知り、悲しみを知ってくださるお方。そんなお方が、まさに死に向かうほどに私たちを愛してくださり、その死によって贖い、背負い、抱きしめて一緒に歩んでくださるのです。長くなりましたけれども、私たちはともすると、この辺をなおざりにして、3章の驚きの光景にすぐ目を進めてしまいますが、その背後には神様が聞かれ、思い起こされ、目を留め、御心を留められたということがあるのだということを忘れずにいたいと思いました。

 

 それは神様の時に生きる、生かされている者として歩む時、時を定めておられるお方がどのような存在であるのかがきわめて重要だからです。もし気まぐれな神様だったら、私たちはこの神に信頼なんてできませんし、いつもドキドキしていなければなりません。約束を忘れてしまうような神様なら、本当に期待してゆだねることなんかできないのです。しかし、聖書の神様は違います。これまで見てきましたように、いつも私たちの声を聞き、いつまでもその心に刻まれた私たちの愛を覚えていてくださるお方なのです。だからこそ、安心してこのお方が私たちに用意してくださっている時を待つことができるのです。

 

3. 神様との出会い、人の反応、ふさわしいあり方

 さて、そのようにして神様の計画は変わることなく前進し続けます。そしていよいよモーセに出会われるのでした。3:1-3 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった、よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

 なぜこのタイミングで、と思うことがあります。これは私たちの生涯を振り返っても多くあることでしょう。まさにモーセもそうでした。彼は明らかに神様のみわざの中で水の中、死の淵から救出され、エジプト王宮で多くの学問を学びながら生活をしていました。単にイスラエルの民族解放運動の指導者であるだけならば、その時に立ち上がったほうが大きな影響力を持っていますし、もっとスマートに事は進んだことでしょう。けれども、それが神様の時ではなかったということはこれまでお話しした通りです。モーセ自身も未熟であり、イスラエルの民も整えられていなかった。神様の時ではなかったのです。彼は同胞に見捨てられ、家族や故郷から遠く離れたミデヤンの地、荒野での40年間を過ごさなければならなかった。それはモーセにとっては喜びとは程遠いものだったのでしょう。文字通りの都落ち、エジプト王室とは正反対と言ってもいいくらいの質素な生活であり、寂しい環境です。しかし、そこを通らなければならなかった。エジプトから逃げ出した彼は、レウエルという祭司の息子となります。レウエルという名前が「神は友なり」であることも、前回お話ししました。そして、静まりの中で神を礼拝して生きること、辺りを見回すのではなく神を、ただ神だけを信頼し、第一とする信仰を学んだのだと思うのです。

 

 そんな中で神様は不思議な光景を見せ、ご自身を現されるのでした。4-6節、主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。名前を呼ばれたモーセの、最初の反応に注目したいと思います。「はい。ここにおります。」これは信仰者の大切な姿であります。言い換えると、こうできないのが罪人の姿であると言えるでしょう。エデンの園での人はまさにそのように罪深い存在でした。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか」彼は答えた。私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」そもそもの人は、神を隠れる罪深い存在なのです。そんな私たちが神さまに出会う事ができたのは、「ここにおります」と進み出る事ができるのは、神様が会おうと近づいてきてくださるからに他なりません。私たちの心の戸を叩き続けておられると言い換える事もできるでしょうか。モーセはかつて神を見ずに、辺りを見回しました。自分自身が裁きの主体、神になっていたのかもしれません。しかしここでようやくその声に耳を傾け、「ここにおります」という事ができたのです。いや、この短い一言、神を認め神のまえに立つ自分を知るするためには、荒野での40年間が必要であったという事でしょう。モーセのここにありますという言葉は、モーセが神の前に立った事を表す大切な告白であるのでした。そのようなモーセに対して神様は、「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」と言われました。神のまえにふさわしいあり方を示していると考えらます。神様は人が近づく事を拒んでおられるのでしょうか?そうではありません。もしそうであるならば、名前を呼ぶはずなんてありませんし、先ほどお話ししましたように、痛みや苦しみを共に負おうとするはずはありません。

 

 罪深い人間は神様に救われた、と言っても未だ罪人であります。赦された罪人にすぎません。罪を犯さなくなるわけではないしたくさんの失敗をする、弱さもある。救われてもなお、整えられ続けなければならない存在であるのです。だからこそ、ここで神様は足の靴を脱ぎなさいと言われました。すなわち、神のまえでしもべとなりなさいというのです。これは自分の考えで立ち上がり、自分の怒りに任せて行動してしまったモーセに対しては、格別の意味を持っていたでしょう。私たちが神なき歴史を生きているのではなく、神の前に、神の時を生きている、生かされているということを思い出させるのでした。それは礼拝の姿に他なりません。神様を前にした時、神と共に生きる時、人はひれ伏し礼拝の人生を歩み始める。自分の汚れを知っている者、神の聖いことを知っている者の当然の反応があるのでした。そして主であるお方は、しもべに語りかけるのです。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」神様はこのように自己紹介をされているのです。モーセはこれをどのように聞いたのかを考えていました。助けようとした同胞に受け入れられず、おそれてエジプトを出てきたのです。人との関係に傷つき、トラウマを負っていたかもしれません。その後、もう大丈夫だよと迎えに来てくれる人もいません。故郷は完全に後にして誰も知り合いがいない中、新しい生活を、かつての自分を知らない人々と始めて早40年が経ちました。このまま人生は終わっていくのだろうと考えていた頃、そんな中で、あなたの父の神、イスラエルの神であると言われるのです。主は覚えておられた。こんな小さな者にも目を留めておられた。寂しい荒野の中で見つけ出してくださった。イスラエル同胞には見捨てられたが、イスラエルの神は忘れることなく、こんな自分と出会ってくださった。そのような神に打たれ、モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠したのでしょう。かつてのアダムとエバが神のみ顔を避けて隠れたのとは訳が違います。まことの神を恐れて、ひれ伏したのでした。もちろん、モーセの中には依然としてかつての事件が、同胞に受け入れられなかったということが大きな傷となり、恐怖となって尻込みさせます。神様に従うことができない姿が描かれています。それは次回見ていきましょう。神はモーセに出会われた。そして、先ほど2章の終わりに書かれています神様の御心を表す器として、神を恐れ、礼拝する者、モーセを召し出すのでした。

 

4. 神様は世界にどう関わられるか

 7-10主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

 7節は先ほどお話しした通り、神様の深い憐れみと愛を伝えています。肝心なのは、先ほどとは違い、今度は神様ご自身がこれを直接お話しになっているということです。言わなくてもわかるだろ、とはせずに、言葉を持って愛を示してくださる神様なのです。その愛がこの聖書には散りばめられている。神様からのラブレターというのも、うなずけます。そして「知っている」では終わらずに、神様はご自身がどうされるのかをも明らかにされました。これもまた次回詳しく見たいと思いますが、今日は最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。それはこれまでにもお話ししてきたことですが、私たちは神の時を生かされているということです。9,10節をお読みしますが、ここには「今」という言葉が繰り返し使われ強調されています。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」それまでにも、イスラエル人の叫びはありました。エジプトの虐げはこれまでにもあった。けれども、神様のタイミングは「今」。荒野という孤独と失意の中で整えられた「今」なのです。

 

5. まとめ

「今」という時は、神様にしかわかりません。私たちはそれを必死で求めますが、わからない。神様の前に出て、礼拝し、このお方だけを唯一の主と信じて従い続ける中で、神様は出会い、「今」という時を教えてくださるのでしょう。昨日も今日も変わることなく生きておられるお方が、変わることのない計画の中で教えてくださる。私たちはその声を待ちつつ、主を恐れ主だけを礼拝する歩みを続けていきたいと願います。無意味な時の連続ではなく、神様の時をいる者として、どんな時にも喜びつつ歩んで参りましょう。