有限、だが豊かな生涯

❖聖書個所: 詩篇90篇1節~17節         ❖説教者:川口 昌英 牧師

■中心聖句:それゆえ、私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。  詩篇90:12

 

◆(序)詩篇の特徴

①詩篇は、ヨブ記、箴言、雅歌、伝道者の書と共に聖文書(知恵文学)と言われています。これらは、主のすばらしさ、又主において生きることの大切さを伝える、人の側の思索や経験から生み出された文書群です。

 その中で詩篇は、主の前に生きた詩人たちの捧げものです。全部で150篇あり、うたわれている内容も、讃美、悔い改め、願い、歴史回顧、嘆き、敵に対する呪い等など、実に多岐に渡っています。

 その表現形式には、周辺のオリエントの詩のスタイルがところどころに用いられています。(例、「並行法」や、「漸進的強調方法」など。) しかし、詩篇は、その内容において、そのオリエントの詩と全く違います。全ての詩が神に向けられていることにおいて、その内容は際立っています。その時代、その地方の詩と似た表現方法が用いられていますから、特別のものではないと言う学者もいますが、詩篇は、その内容からして、極めて独自性を持っています。そのことを理解しながら、本日の箇所、90篇を見て行きます。

②詩篇90篇の内容

 無限の神の前の、人間の有限をうたっている詩です。表題にモーセが作者と記されていることについて議論がありますが、神の無限と人の有限を強調していることにおいて、「地上の誰にもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12章3節)モーセの姿に重ねられているように思われます。それでは、内容を見て行きます。

・(1~2節) まず、主が創造主であり、神であることを心から告白します。

・(3~9節)続いて、主の前にはそれぞれの生涯は本当に短く、全てを治めたもう主の怒りによってすぐに消え去ると言います。 

・(10~12節)人の生涯は70年、健やかであっても80年、しかも労苦と災いに満ちていて、多くの人は主の裁き、怒りを知らない生涯を送っているが、人々のそんな生き方に流されず、自分の日を正しく数えて、主を恐れて生きることが大切であると言います。                                                   

 ・(13~15節) 人の一生はそのようなものであるから、(主を恐れる者に対して) 恵みがあるように願っています。  

 ・(16節~17節)最後に、(主を恐れる者の)生涯を確かなものとしてくださるように願い求めています。   

 

   一見、人生のはかなさが浮かびあがる印象があり、東洋的な無常観を感じるかも知れませんが、上述のごとく、聖書の詩篇は根本的に違います。第一にそれは、創造主の偉大さ、慈愛の深さをたたえています。又、人は神によって造られ、生かされている存在、その生涯は短いが、神と共にあるときに、豊かな力を受け、確かなものとなると言います。そして、生きることの中心は神を恐れること、「自分の日を正しく数え、知恵の心を持つ」ことが大切と言うのです。もう少し詳しく見て行きます。

◆(本論)詩人が伝えようとしているもの

①自分の日を正しく数えること 

 詩人が強調しているのは、一人ひとりの命は、神によって与えられたものであり(詩篇139篇)、必ず死を迎える存在であり、そして生きていた時の姿について裁きがあることを知って、一日いちにちを大切にして生きることです。しかし、ただ限りがあることを知るのではなく、創造主であり、救い主であり、又裁き主でもある神にあって、神のもとで、神から与えられた目的を大切にして生きること、そこに豊かさがあると言います。

②次に、知恵の心を持つこと

 聖書で知恵とは、単に考えが深いとか広いという意味ではなく、神にあって生きること、主を恐れる、神を第一とし、神と共に生きることを言います。知恵ある者とは、実際にそのような生き方をしている者のことです。(箴言1章7節、9章10節)   

 イスラエル史に重要な役割を果たしたモーセがそうでした。(ヘブル11章24節~27節) 人の評価ではなく、いつまでも残るもののために生涯を送った人物です。彼は始め、主の召命によって生きることを恐れ、固く拒みましたが、主の確かな導きを信じて困難な道を歩んだのです。それゆえ、その生涯は、難しい局面に何度も立たせられましたが、しかし、全体的には神と共に歩み、神に用いられた、非常に豊かな生涯だったのです。

③具体的に、知恵の心を持って生きるということ

 それは、神に信頼する生涯です。神を知らない人は、神を信ずることは自分自身をなくし、依存することだと思っています。しかし、信頼と依存は違います。信頼は、自分が主体性を持ち、責任を持ちますが、依存の場合、主体性も責任もありません。

 ちなみにパウロは依存的でしたか、或は、目を日本に転じても、国の多くの者が戦争にまっしぐらに進んでいた時に、その非を論じた矢内原忠雄は依存的な人物だったでしょうか、また幾多の困難を経験した、有名なクリスチャン作家、三浦綾子さんは依存的な人だったでしょうか。決して違います。これらの人たちは、いつも神の前に静まり、どれだけ立ち向かう人が多くいても与えられた確信に立って生涯を送ったのです。

 真理よりも現実の利益を求める考えが強く、又多数の人々の考えに流されやすい日本の中で、自分を見失わないで、しかもただの頑張りではなく、真の希望と平安を持って生きることができるのは、神の恵みを受け、そして生かされているキリスト者です。

 神にあって生きる者について、宗教改革者ルターは、クリスチャンは、誰にも支配されない王のような姿を持ち、又全ての人に従うしもべのような姿を持つと言いました。神を信じて生きることは、漫然と、何も決断しないで、自由を失っているような生き方をすることではありません。むしろ、人を支配していた罪から解放されて、最も深いところにおいて自由になり、神の愛に満たされ、導かれて、神を知らない人々に流されず、自立して生きることなのです。

 

◆(終わりに)心の目を開いている者に

 

 この頃、死生学という分野が注目されています。全く門外漢ですが、それに関連する書物を少し読んだ感想を言いますと、死を、昔からあるその国の文化、習俗の中で受容することが大切であると言っているようです。分かりますが、けれどもそれでは、生と死に対する不安を解消することができないのです。人生の芯に対して何も示していないからです。90篇を通して詩人は、生きるうえにおいて、人は造られ、生かされ、愛されている存在、人生は無限ではなく、限りあることを知って神にあって生きることが大切と言います、そして、そのように生きるときに、真の豊かさがあると伝えています。人生にとって大切なのは、命を与え、愛しておられる方がいることを知り、その方と共に歩むことなのです。