賜物と誘惑

❖聖書箇所 使徒の働き5章12節~16節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

                           マタイの福音書 16章16節

◆(序)この箇所について

①教会について考えるために使徒の働きを連続して見ています。期間が空きましたが、本日のところは、教会本来の目的を考えるうえにおいて、特に注意を払うべき箇所のように思います。というのは、この箇所には、教会の目的や働きが誤解される恐れが潜んでいるように思えるからです。

 内容を見て行きます。前回箇所の出来事、アナニヤとサッピラの事件によって、みなが主を恐れ、主への信仰を堅くし、使徒たちがさらに力強いわざをするようになったという場面です。その結果、多くの人々の尊敬を集め、信ずる人々も増え、ついに、15節、16節に記されているようになったというのです。120人しかいなかった初めの頃から見ると、驚くような変化です。このように教会は成長していると思われるのに、何が問題なのでしょうか、実は、こうした状況の変化のゆえに、大切な根本を見失う危険が生まれていたのです。

 

②その理由を見て行きます。言うまでもなく、この箇所でとりあげられている癒しなどの力あるわざは神が特別に与えてくださった賜物であり、すばらしいものです。それはしるしであり、人々に御子、神がその者を深く愛していることを知らしめるサインでした。しかし、多くの人、時にはキリスト者も誤解するのです。あたかもそういった力あるわざそれ自体が最終目的、そして、それを行う人が特別の能力を持つ、特別の人のように思い、崇めるのです。

 

 力強い御わざ、賜物について誤解のないようにすることが大切です。主の愛、主のすばらしさを伝えるためのものであると理解し、又その賜物が与えられている人は、そのように受けとめる必要があるのです。ところがこの箇所では、力強いわざを通して、人々は主の栄光、すばらしさに注目するようになったというよりも、そういう特別のわざのすばらしさ、また行う人々のすばらしさを崇めるようになっているのです。そうして本来の教会の姿が見失われているような印象があるのです。

◆(本論)教会の中心を間違えてはならない

①この時、教会の内容が変わったわけではありません。中心にあったのは、どんなに圧迫されても使徒たちがその思いをまげなかった、主イエスが人の罪を贖うために十字架の死を受け、三日目に甦られ、罪と死に対する勝利を与えてくださったこと、その主の名によって生きること、この方以外に救い主はいないと伝えることでした。

 けれども、ここにおいて、使徒たちが力強いわざを行ったこと、人々がそういったことを求めていることが集中的に記されているのは、教会自身は一貫していても、廻りの人々、教会を取り巻く環境が変わって来たことを示していると言うことができます。

 福音のすばらしさのゆえに神の民たちを尊敬し、主を信ずる人々もいましたが、多くの者は、福音よりも使徒たちが行うすばらしいわざ、癒しを求めるようになって来たのです。繰り返すように、これらの力強いわざは、神の愛を示すための神の賜物でしたが、人々はその中心にある、神は一人子さえも惜しまないほどに人を愛し、罪の贖いを成し遂げている、悔い改めて、生きる方向をかえて神に立ち返りなさいという中身を置き去りにして、その周りにある力強いわざ、癒しのみを求めたのです。これは、再三、教会の本質として引用しているマタイ16章18節(朗読)からはずれるものであり、危惧すべき状態であり、使徒たちをはじめ、教会の側は、求める人々に注意すべきでしたが、それを行ったかどうかあまり明確ではありません。

 

②そして、この箇所が示している、もう一つ教会にとって本質から外れる恐れがあったことは、特別の個人、ペテロを崇拝するような現象が現れていることです。(15節) 実際に、ペテロ個人を崇めたくなるようなことがあったからであり、教会が立てられている目的を知らない人がそうするのは理由のあることですが、主ではない、誰かを個人的に崇拝することは教会を歪めることになるのです。

 確かにこの点においても、ペテロ自身がそのように要求したわけではありません。主がいた時以来、弟子たちの中心であり、主が天に帰り、教会が誕生した後も先頭に立って全体を導き、また地上の権力者の圧迫に対しても表立って堂々と立ち向かって来たという姿から、教会の内外から個人的に崇拝されるようになったことは肯けることですが、ここに危険もあるのです。

 教会の本質についての箇所である、先ほども引いたマタイ16章18節の後半の「この岩のうえにわたしの教会をたてる」という岩をペテロ個人のことであると理解するなら、特別な立場の人であるから、ここに出ているような現象になるのは不思議なことではないかも知れません。しかし、その意味は聖書全体から、ペテロ個人ではなく、彼が行った告白であると理解する立場からするなら、ここに出てくるようなペテロが行ったような力強い現象は主のすばらしさ、力を表すためにペテロに与えられた特別な賜物として理解すべきなのです。

 けれども、ここにおいて、教会側はそのことを明らかにし、個人崇拝をやめさせたとは見えないのです。これはたいしたことではない、現にペテロは主から特別の力を託され、主のために用いていたのだから、人々がペテロにすがるように振る舞うことを咎め立てすべきではないと思う人もいるかも知れませんが、主の教会にとって大きな罠となったのです。福音の中心が歪められる危険を抱えるようになったのです。

 

③これまで見て来ましたように、本日の箇所は、誕生した教会が人々の注目を集めるようになり、さらに人々がペテロを始め、教会の中心的人物を追い求めるようになったことを伝えている場面ですが、あらゆる時代のあらゆる教会が持つ危険を示しているところでもあります。説教題にしましたように、力強いわざ、癒し、またそれ行う人は神の賜物なのです。しかし、本来はそのすばらしい賜物が、まだ福音、本当の神の救いを知らない人だけでなく、主を知り、教会に属する者にとっても誘惑になるのです。恵みの賜物としてではなく、特別の能力として捉え、特別の個人を崇めるようになることです。繰り返すように、使徒たちがそのように求めたのではありません。けれども全体として、多くの人々が主の福音よりも癒しなどを求めるようになったのです。

 

◆(終わりに)これからも福音を大切に

   イエス様も多くの人々を癒されています。たとえば、御国の福音を伝え始めて間もない頃、全身ツァラートにおかされていた人が主に願っています。主はその願いを聞き入れ、彼の病気を癒されています。その時、主は彼を厳しく戒めています。(マルコ1章43節~44節) 又ある時、その地方一帯で評判の、悪い霊に憑かれている男を癒したことがありました。主はその時も、お伴をしたいと願った人に対して、神の恵みを家族に伝えるように言われています。(マルコ5章19節)これらからも分かりますように主ご自身は、癒しなどの力強いわざそのものよりも、人々に救い、神の国が広がることを重視しているのです。

 

 教会の中心を間違えてはなりません。病気の人が癒されることは本当にすばらしい喜びです。神の豊かな愛の現れであるからです。しかし、それよりもすばらしいのは、人が福音、神の恵み、愛を知り、神と共に生きるようになる、神の国の一員となることです。福音よりも神の力強いわざを中心としたり、目標とする時、教会は歪んで行きます。私たちは、神の賜物がどんなにすばらしいものでも、その賜物を中心にしてはなりません。あくまで、中心は救い、神の国の広がりです。