主の備えられた道

■聖書:出エジプト記2:1-22     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。(箴言19:21

 

1. はじめに

 出エジプト記を連続して読んでいますが、ところで聖書において出エジプト記というのはどのような位置にあるのでしょうか。イスラエルの民の救出劇、それはイエス様が私たちを罪から救い出してくださる雛形になっていると説明されます。しかし、説教で読んでいくときには、「礼拝者へと整えられていく物語」であるという視点を特に大切にしていきたいと思っています。何度も話していることですが、私たちは救われて終わりではなく、この地上での生活は続いていきます。それは出エジプトを果たす民達も同じです。新しい地での生活のとき、律法が与えられ神の民として、そして神を礼拝する民として整えられていく。その一点に向かって神の歴史は動き、神様の備えられた道は伸びていくのであります。本日の第二章は、まだそんなことなんて少しも見えていない、いまだに重い雲が覆っているような箇所ではありますけれども、私たちはこの一点を心の片隅に留めながら、御言葉に聞いていきたいと願っております。    

2. モーセの生涯

 本日の箇所、長い場面を読んでいただきましたが、三つの場面が描かれています。一つ目は1-10節「モーセの誕生」、二つ目は11-15節「モーセの失敗」、三つ目は16-22節「モーセの訓練」です。新約聖書、使徒の働きの7章には、ステパノという最初の殉教者の説教があります。その中で、本日の箇所で語られていますモーセの生涯が描かれていますから、そこも同時に開き見ていけたらと思っています。まず、これはモーセの生涯を描いている箇所だとお名はしましたけれども、ステパノの説教では、モーセがエジプト人を殺したのは40歳になった頃、そのあと逃れたミデヤンの地では40年が経ったと言われています。ですから、本日の、出エジプト記第2章は、モーセが生まれてから80歳になるまでの出来事を語っているということになります。モーセが死んだのが120歳だったと別の箇所にはありますから(申33:7)、だいたい人生の三分の二ほどの期間でしょうか。40年が一つの年代の区切りだと捉える人々もいますが、とにかく、神の人と呼ばれるモーセの土台を作った日々がこの一つの章にぎゅっと凝縮しているのです。そんな一人の人の生涯を辿る。そんな場面に私たちは今朝立たされているわけであります。

 この箇所はもう何度も開かれたことがあるかもしれませんが、今日は特に一つの視点に立って見ていきたいと思っています。先ほど朗読された箇所をお聞きになって、お気づきになったでしょうか。実は本日の箇所には、神様の名前が出てきません。神が〜をされた、などとは書かれていないで、あたかも神様不在で歴史が進んでいるような描かれた方をしているのであります。これについては後ほど触れますけれども、そんな神が見えない歴史の中で、人はどのように歩んでいくのか。これを探っていきたいと思っています。このような歴史の背景は、ある意味で私たちの今の生き方にも通じているのではないでしょうか。少なくとも、そのように感じられることはあります。日々の生活を過ごす中で、生涯の中で、神様がここにおられることを見失い、神様が歴史を支配されているということを忘れてしまうことがある。多くの人は、神様が歴史を、私の人生を支配しておられるなんて考えてもいない。そんな今日の状況です。けれども、私たちが気づかず、多くの人が知りもしないそんな中にも確かに主はおられ、私たちの道を作り、守り、導いてくださっているということを、本日の箇所を読む時に覚えたいのです。多くの方々は自分たちがどこに進んでいけばいいのか、今置かれている場所でどのように生きればいいのか。多くの悩みの中にあります。神様を信じていても、ふと神様の存在を忘れて自分一人で歩いているような気になることがある。壁にぶつかり、右に左に人生が揺り動かされているように感じ、なんでこんなことが、何で自分にと呟きたくなることもあります。そんな時に、人の目には見えず、私たちの進む道にはおられないと思ってしまうような神様の姿を、その御手を、信仰の目をもって見ていきたい。そのように願っています。今日の箇所でも、モーセもまた、目には見えない、しかし確かに歴史を導いておられる神様の手によって取り扱われ、整えられていきます。みことばに聞いて参りましょう。

 

1-10節「モーセの誕生」

 最初はモーセ誕生の場面です。その背後にあったのはたくさんの祝福、多くの人の笑顔ではありませんでした。少なくとも、見えるところでは真っ黒な雲が覆っているような不安定な混沌とした状況があります。何か先は見えないけれども、良くなっていくというような見方はできない。そんな鬱々とした状況。この辺は今の時代にも通ずるものかもしれません。これからどうなっていくかわからない言いようもない不安があり、いの子供達がどのような世界を生きていくのかわからない。ただモーセの場合はもっと直接的な「死」が目前にありました。1章の最後には、王の残虐な命令があったからです。22節「また、パロは自分の全ての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」」けれども、モーセの両親はその王の命令には答えず、その子を生かすのでした。この危険性は当然わかっていたはず。イスラエル民族はエジプトの奴隷ですから、そんな身分でエジプト王の命令に背けばただではすみません。しかし両親は、この小さな命を守ろうとしたのでした。昔教会学校でこの箇所をメッセージしたことがありますが、ある子どもが「かわいかったから投げ込まれなかったの?よかったね」と冗談ぽく言ったのを覚えています。女は、男の子のかわいいのを見て、隠しておいた。自分の子どもを棄てる親がいる昨今では冗談ではなくなってしまいますが、ここでの「かわいいのを見て」、というのは姿格好が可愛かったということではないようです。先ほどのステパノの説教では「神の目にかなったかわいらしい子」であると言われていますので、単に見た目のかわいさではなく、そこに神様のご計画があり、そして信仰者であった両親たちにもそれがわかったのでしょう。しかしいよいよ赤ちゃんも三ヶ月になって泣き声も当然大きくなり隠しきれなくなります。両親は一縷の望みをかけて、王の命令は投げ込むというものでしたけれどもそれには最後まで抵抗して、「かご」を作って入れるのでした。このかごですけれども、聖書ではもう一箇所、ノアが神様に命じられてつくった「箱舟」と同じ言葉で使われていました。大雨大洪水の中でノアの一家と動物たちを救い、世界を滅し尽くさない象徴でもあった救いの手段。意図してかはわかりませんが、結果としてまさしくそのような意味をこの小さなかごは持っていたのです。さらに人の目には不思議なことが続けざまに起こります。水浴びをしているエジプト王パロの娘、すなわちエジプトの王女がそのかごを見つける、その子を見てあわれに思う、さらには見守っていたモーセの姉の提案を受け入れる。常識では考えられないことが、次々に起こっているのです。パロは子供を投げこめと命じた張本人ですから、その娘に見つかるということは決して良いことではないでしょう。見守っていたモーセの姉も、よりによって王妃かよとヒヤヒヤしていたのではなかったでしょうか。にもかかわらず、それらはトントン拍子にうまく進んでいくのです。人間の考えで見ていきますと、偶然の連続、ラッキーなどと思えてしまいますし、もしくはそんなことはあり得ない、作り話だと切り捨ててしまうかもしれません。神なき歴史を生きている人は、それがたまたまうまくいったと言うのです。

 兎にも角にも、この時期に乳母として育てることを命じられた母や実の家族は、ヘブル人として、まことの神なるお方を礼拝する生き方を実践し、モーセの人格形成に大きく関わったことでしょう。さらに宮廷に入り、王女の息子となってからは、「あらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」とステパノは語りますから、心も体も立派に成長していったのでありました。

 

11-15節「モーセの失敗」

 しかしそんな中、物事が順調に転がり、折れ線グラフなら右肩上がり、上り調子の時に転機が訪れます。モーセが大人になり、40歳になっていた、ある日の出来事です。11-12節、こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出ていき、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞である一人のヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。辺りを見回し、他に誰もいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。この奴隷であるヘブル人が、主人であるエジプト人に虐げられていたという出来事は、このとき初めてあったわけではなく、日常的なものだったのでしょう。しかし王女の息子モーセはそれを目撃してしまった。そうしたとき、彼は自分を棚に上げて見過ごすことはできませんでした。モーセはこのとき、兄弟であるイスラエル人を顧みる心を起こしたのだと、ステパノは語ります。ヘブル人、イスラエル人であるということは実の母から学んでいましたから、当然のように彼は立ち上がり、虐待されていた人をかばうのでした。自分の役割というのを悟ったのでしょうか。なぜ自分がヘブル人でありながら、生まれながらに死刑宣告されていたような男の子でありながら、生きながらえ、そればかりかエジプト王室にいるのかということを考える時に、彼は単にツイテいたからとか、運が良かったからとは考えていなかったのでしょう。旧約聖書、これも後ほど触れますが、ある人物のことばを借りるならば「もしかするとこのときのためかもしれない」と立ち上がったのかもしれません。

 

 けれども、彼の同胞を愛し顧みる心は正しかったのですが、最後のところで彼は間違えてしまったのです。彼は神の使命を背負ったものとして、堂々と振舞い、神の前に胸を張って行動できたのではありませんでした。12節、辺りを見回し、他に誰もいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。辺りを見回したモーセは、何を見ていたのか。何を気にしていたのでしょうか。ある意味では彼は自らの感情をコントロールできずに、その怒りをそのまま力任せに暴力でぶつけたのですが、彼がこのときに気にしていたのは、自分をそこに置かれた神様ではなく、明らかに人の目でした。そして自分自身の安全であった。神様を見て、神様の喜ばれる道を選ぶのではなく、辺りを見て、人の目を気にしながら自分の思うままに振舞ってしまった。動機は良かったかもしれませんが、彼はそこで神に頼ることをせずに行動してしまった。まだ時ではなかったのです。この事件は、後々まで彼の心に残る大きな傷を与えました。13-14節、次の日、また外に出てみると、なんと二人のヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪い方に「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことを知れたのだと思った。ヘブル人同胞のために、彼らを守るために行動したのに、ヘブル人はそれを受け入れなかったのです。モーセを拒絶したのでした。それはモーセが自分の思いのままに振舞い、神様の時ではなかったからです。モーセがそれを神様を見て行動したのではなく、人を見て行動したために、このような失敗を犯してしまったのでした。失意の中、彼はエジプトを後にして逃げ出します。そして三つ目の場面、ミデヤンの地での40年間を経験するのでした。

 

16-22節「モーセの訓練」

 確かにモーセはエジプトの宮殿で様々な学問を学びました。当時の超一流の教育を受け、ことばにもわざにも力があり、さらにイスラエル人同胞を顧みる心も起こった。けれども彼はまだ不十分だったし、民たちもそれを受け入れる準備ができていなかった。神様の計画の時はまだ来ていなかったのです。モーセはそれを知ろうとしなかったし聞こうともしませんでした。そんな彼は、さらに整えられなければならなかったのです。16-22節を詳しく見ることはしませんが、彼が出会うことになり、「思い切っていっしょに住むようにした」レウエルという人物を覚えたいと思います。彼は、のちにモーセの妻となるチッポラの父であり、神と人とを取り次ぐ祭司でありました。このレウエルという名前は「神は友なり」という意味があるそうです。大きな失敗をし、同胞の人々に拒絶され、さらにエジプトからも敵視されていたモーセは傷ついていました。そんな彼は「神は友なり」と呼ばれる人と出会い、その交わりの中で回復し、さらに大きな働きのために整えられていくのでした。

 

3. 神が見えない歴史の中で

 さて、以上モーセの生涯の三つの場面を見てきましたけれども、いかに彼が山あり谷ありの波瀾万丈の人生であったかということに、改めて驚かされます。良い時も悪い時もありました。そしてすでに度々お話ししてきましたが、この箇所には、神という名前が一回も登場しない、神様の姿を見出せない歴史のような描かれ方をしています。神なんていない、偶然の連続で世界は成り立ち、歴史は作られていくと考えられている、私たちの社会とも共通しているのです。そんな時、私たちはある物事が起こった時に一喜一憂し、その意味を考えることなどせずに、創造の主であり、歴史を支配しておられる神を忘れた生き方をしているのではないでしょうか。そして自分一人で苦しみ、ぼやき、がんばっていないでしょうか。

 

 本日の、神なき歴史のように描かれている箇所を読んでいて、エステル記を思い出しました。エステル記というのは旧約聖書の一つの書であり、一人のヘブル人女性エステルの、やはり波瀾万丈な人生を描いたものであります。捕囚の民でありながら王妃となり、さらに自らの命を顧みずにイスラエル人を救うために王に進言したのでありました。この書でも、たくさんの不思議はありましたが、やはり「神」は姿を隠しておられる。少なくともその直接的な働き、歴史への介入を直接的な表現で見ることはできません。しかしそんな中でも、神様が見えない歴史の書であっても、信仰の目で見る時に、そのすべてに神様の手のわざがあることに気づかされるのです。王室にいたエステルは、イスラエル民族が悪者の策略で滅ぼされそうになる時、はじめは黙って見ていようとしていました。しかしそんな彼女に対して一つの言葉が語られます。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」 偶然の連続としか歴史を捉えていない人々、神なき歴史の中を生きている人々は、なぜ自分がここにいるのか、神様のご計画はどこにあるのかを知ろうともしません。当然、自分がなすべきこともわからずに、どこに進んでいけばいいのかわからずに生きている。しかし、まことの神を知っているものは違います。私たちがこの国で、この地で、それぞれの職場や家庭、それぞれの人間関係の中に置かれているのは、今生かされているのは神様によっているのだから、神様の目的がある。それを知っています。あるかないかわからないものを捜し求めるのはとても疲れることです。道半ばで諦めてしまうこともありでしょう。

しかし私たちは、私たちには私たちが生きる目的が確実にあるのだと信じ、それが何であるのかを安心して何なのかを探り求める生き方ができるのであります。早く知りたいと思うこともありますし、ずいぶん遠回りしてしまったと思うことがあるかもしれませんが、本日のモーセを思うならば80年かけて、良いことも悪いことも通して神様はモーセを整えられたということがわかります。遅すぎることはないのです。

 

 私たちは、神様との交わりの中、祈りの中で自分は何をなすべきかを教えられて整えられていきます。エステルはこのとき、断食と祈りを持ってなすべきこと、進むべき道を主にゆだね、「たとい法令にそむいても私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と進むべき道を定めました。モーセのように辺りを見回し、人の顔色を伺い、自分自身の保身を探りながら、ではありません。ただ神様だけを見て、歩むべき道を定めていく。神様はその時に、大きな祝福を注いでくださるのでした。