生涯を支える希望

❖聖書箇所 ヨシュア記14章6節~12節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。        第二コリント4章16節

 

❖説教の構成

◆(序)高齢者の心

①日本は、世界一の長寿社会になりました。女性だけでなく、男性の平均寿命も八十年を超えています。すばらしいことですが、他方において、子供、青年たち、次世代を担う人々の数が少なくなり、社会全体として、年金、看護、介護などいろいろな問題に直面するようになっています。

 私たちは、そのような社会に生きる一員として、これらの問題に対して真剣に取り組まなければなりませんが、同時に、主のめぐみを知っているキリスト者として、特に注意すべきことがあるように思います。それは、病院やお年寄りの施設などで見受けられる無表情の方々が多いことです。体はそうでもないのに、話すことも聞くこともできるのに表情が見えない人々です。この頃は、「心の面」の充実にも力を入れているところが増えて来ているようですが、それでも、多く見受けられます。たまに行って、しばらくしかいませんから、実際は違っているのかも知れませんが、そういう方々が確実に増えているように感じます。おそらく、これまでは健康な高齢の人々が少なく、お会いする機会がなかったのですが、今はそういう人々が多くなった結果、そう感じるのではないかと思います。

 

②どうして、人は高齢になると、(備えをしていないと)無表情になるのでしょうか。答えは難しくありません。年をとるということは、失うことを経験することだからです。目、耳や認知の機能、又足、腰などが弱くなり、体全体の力を失います。更に、仕事や家庭の働きから退くことによって、生きてきたそれまでの関わりを失います。そして家族や知人の死を経験し、親しい存在を失います。確かに、様々な労苦を味わって来たことによって、人生において大切なものがはっきり見えてくるという一面もありますが、一般的に言うならば、高齢になるということはいろいろな点において失うことであると言うことが出来ます。病院や施設で見かける高齢の方々の無表情の姿には、これまで大切なものを失ってきたという経験が一人ひとりの背後にあるように思います。

③このように多くのものを失うことを経験する高齢者について、聖書はどう言っているのか、本日のヨシュア記14章を通して見て参りたいと思います。まず、この箇所を読んで、聖書は特別である、現代日本の状況に合わないと思わないでいただきたいと思います。なるほど、11節などを見ると、私たちが知っている高齢者の状態とかけ離れている印象がありますが、聖書は、すべての高齢者がこうだと言っていません。青年や壮年にいろいろな人がいるように、やはり、高齢者にもいろいろな人がいると言っています。

 例えば、イスラエルにおいて重要な役割を担っていたが、もはや、神のことばや幻が殆ど示されていなかった高齢の祭司について率直にそのまま記しています。指導者でありながら、心が固くなっていた人物について、あるがままを伝えているのです。そのように、聖書は、高齢者について、本日の箇所に出てくるカレブやヨシュアのように、霊肉ともに、分かりやすく言えば、心も体も壮健な者もいると言いますし、あるいは頑なになり、自分の世界に閉じこもったり、また自分自身を見失っているような人もいると言うのです。ですから、勿論、体の問題が特に大きくない限りですが、やはり大切なのは、一人ひとりの、生きる心の姿勢だと言うのです。

 

 本日は、今も多くの主にあって生きている人に励ましと勇気を与えているカレブを通して、さまざまな厳しいことが多い老齢においても、主にある者は生きる勇気と力が与えられることをともに見て参りたいと思います。

 

◆(本論)カレブの力の源

①本日の箇所は、部族ごとの割り当てについて、ユダ族のカレブが指導者ヨシュアに願い出ているところです。自分たちに45年前、モーセの時代に約束された山地を与えてください、必ず行って占領すると語っているところです。実は、イスラエルの民は、45年前に約束の地に入ることが出来たはずでした。しかし、もう少しでその地に入ることができるという時に、送った偵察隊の、その地の町を取り囲む城壁は堅固で、住民も力強い、とても勝利できないと言った12人のうちの10人の斥候の報告を受け入れ、決定的な不信を表明したのです。残りの二人、ヨシュアとカレブは、「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、私たちにくださるだろう。…ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。… 」(民数記14章8~9節) と主張したのですが、大多数の人々の心はしなえてしまったのです。その後、民は不信のゆえに、40年以上、荒野をさまよったのです。(ヨシュア記14章7~8節は、その時のことを言っています。)

 今日の箇所は、それから45年経って、今度こそ約束の地に入るという時です。現実にはカレブも老年になり、いろいろなものを失う経験をしているのです。カレブは何も苦しまなかった、悩まなかったと考えるなら、それは明らかに誤りです。カレブのような少数派の立場の場合、より孤独を経験しているのです。特に不信を犯した者たちが、主の言われた通り死にたえ、自分とヨシュアのみが生き残ったという状況に人一倍、苦しんだと思うのです。ですから、彼が85才になっても、壮健であり、なお、力に満ちているのは、孤独や苦しみを経験しなかった、さまざまなものを失うことを経験しなかったからではないのです。

②どうしてカレブは、体も心も強くあったのでしょうか。その理由として、12節(朗読)、神の約束に目を留めていたからです。45年前のものであっても、主は真実であり、約束してくださったことは必ず実現してくださるという信仰です。そのゆえに、心の中に希望があったのです。

 よく引かれる第二コリント4章16節~18節をお読みします。(朗読) 著者パウロはここにおいて、救われた者に与えられている、世の希望とは違う、主にある希望を信じることができる生涯について語ります。私たちは、それまで持っていたいろいろなものを失っても、生きる勇気を失わない、私たちは、救いの恵みを受けた者として、困難の中にあっても、目にみることができない希望を持って生きると言うのです。幾多の困難を経験しながらそう言うのです。

 カレブも、終生、主とともに生きることを願ったのです。少数派であり、誤解され、非難されたけれども、いつも主の約束を見るように生きたのです。彼はスマートに生きていなかったのです。ここにおいては、カレブの力が目立ちますが、その中心に、主のために生きることが何よりも喜びであるということがあったのです。約束の地に入ることは、創世記以来、はっきり示されている救いの御技にとって大切なことであると認識していたからです。(創世記12章1節~3節) 結局、カレブの心の深くには、主が罪深い自分たちに目を留め、また用いようとしてくださるという思いがずっとあったのです。その思いが彼の生涯の支え、力となったのです。

 

◆(終わりに)人を真に支えるもの

 

 いろんなものを失う老年ですが、カレブという人物を通して、主が自分を必要としていることを知るなら、主にある希望があるなら、たとい、年をとっても勇気と力が与えられることをみました。ナチスがユダヤ人虐殺のためにつくった収容所の一つ、アウシュビッツに入れられながら、奇跡的に助かったビクトール・フランクルという人物がいます。精神医学者であり、有名な「夜と霧」の著者でもあります。この人が、人にとって一番大切なのは、生きる意味を知ること、それを知るなら、人はどんな絶望的な状況の中でも生きることができると言っています。私たちにとって、真の力、支えは、主が与えてくださっている希望であり、主が与えてくださる平安です。それは、高齢になり、いろいろなものを失っても決して奪われません。カレブのように、主からの希望を持って歩もうではありませんか。この希望を持つ者はどんな中でも強く生きることができるのです。