安らぎへの招き

■聖書:マタイの福音書11:28-30       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(11:28

 

1. はじめに

 初めて教会に来た日のことを覚えているでしょうか?どのようにして神様と出会ったのでしょうか。家族や友人に誘われたかもしれません。お家に入っていたチラシによって知った人もいますし、あるいは学校の課題で来た方もいらっしゃるでしょう。いろんな道があっていいと思いますし、それぞれにふさわしい方法だったのだと思います。けれども本日の箇所では、私たちが選んできたのではなく、まずイエス様の招きがあったことを教えています。本日の箇所でイエス様が招いておられる人は一体どんな人だったのでしょうか。28節をもう一度お読みします。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス様が招いておられるのは、「疲れた人、重荷を負っている人」でした。もう少し直訳ぎみに訳すと、「今疲れている人、これまで重荷を負い続けて、今日ここにいたった人」となります。長い道のりをやっとの思いでやってきて疲れて切ってボロボロになった人、しかも一人でそれを背負い続けてきた人に対して、イエス様は声をかけ、休ませてあげると言っておられるのです。本日の箇所はこのままの言葉を聞くだけでも大きな慰めであり、これは自分のことを言っているのだと気づく方も多くおられますから、余計な解釈はしなくてもいいかもしれません。ただ、この言葉の意味をもう少し掘り下げて探るならば、招いてくださるイエス様の愛がどれほど広く深く、またその招きの声がどれほど優しい響きなのかということに気づかされます。もう何度もお聞きになっていることかもしれませんが、今朝、もう一度このイエス様の優しいみ声に耳をすませて参りましょう。    

2. イエス様に招かれている人

 「疲れた人、重荷を負っている人」とは誰でしょうか。ここから少し考えていきたいと思います。文字通り、社会の中、様々な人間関係の中で疲れを覚え、いろいろな苦しみをかかえている人たちを表しているということが、まず考えられます。イエス様が足を運ばれたのは、いつでも社会にあって弱い立場の人たちでした。病に苦しみ、人々に見放され、希望を持てないままに生きている人、理不尽な言い分で嫌われ、人々の輪の中に出ることを避けざるを得なかった人々。そんな一人一人の元をイエス様は訪れたのです。今日でも様々な理由で苦しみ疲れている方がいます。一つの例にすぎませんが、先日の連合婦人会では、コンプレックスとそこからの解放が語られました。コンプレックスで苦しむ人は少なくありません。競争社会と呼ばれる昨今ですが、目的が他者に勝つことになっていくと、そこに比較が生まれ、劣等感や優越感が生まれてくる。そうした中で自分自身の価値を見出せず、あるいは他者を見下し裁いてしまうのでした。これは一部の人だけのことでしょうか。わたしの中にもそのような汚い感情、捨てたいと思っていても捨てられない性質があります。そのことに気づいて嫌になることがあるし、何より人からの評価を気にしながら生きることに疲れてしまうことがあります。そんな人々の中には、苦しいだけ疲れるだけの、出口の見えない生涯を、自ら終えることで休みを得ようとする、いやそうせざるを得ないところまで追い込まれている方々もいるのです。そんな様々な疲れを感じ自分の居場所を探している人に対して、イエス様はわたしのところに来なさいと招いてくださるのでした。

 もう少し聖書の背景を踏まえますと、ここでの重荷と訳されている言葉は、別の箇所では律法学者たちが押し付ける律法主義的な要求を表す言葉として登場しています(使徒15:10)。本来の意味からは外れてしまった宗教的な重荷を負っている人々に語りかけられているのだと考えることができるのです。注意すべきことはすでにイエス様を信じて救われた群れ、教会の中でもこのようなくびきを負わせ、重荷を押し付けてしまう危険があるということです。割礼自体は悪いものではありません。律法もまた神様が旧約時代に、神を愛し人を愛するために与えられたものです。けれども、与えられた人間は罪深く、救われてもなお罪を持っているために、他者に対して押し付け、重荷を負わせ疲れさせてしまうことがあるのです。私たち自身、深く問いただしたいと思います。一方で、教会の様々なことで疲れを感じている方はいないでしょうか。

 さらにこの「重荷」という意味を広げて考えますと、救いのための懸命に努力し真面目に修行を重ねていくことに疲れた人に向けて招かれているのではないかと思います。今日の多くの人々は救い、とまで言わなくても、何か現状を打破する方法を求めています。しかし闇雲に探し求めても、やはり疲れ果ててしまいます。結局は現実を受け入れ、苦しみながらも、納得できなくても、進むしかない。私たちの教会でも、ある兄弟は真理を探し求めていたと言いますが、漠然とでもそれを求めている方は少なくないように思うのです。しかし自力では本当の安らぎには行き着かず、心と体をすり減らしながら、日々を過ごさざるを得ないのです。どこに行けば救いがあるのか、どこに行けば自分が自分らしく生きられるのか、重荷に苦しまない本当の自由が与えられるのか。それを探し求める旅は長く遠く、重荷を負い続けるようなものであるのでした。

 

 さて、これまでは自分が疲れていると感じている人、重荷を負っていることに気づいている人々に対して語られたイエス様の呼びかけを聞きました。しかし、ここで覚えたいことは、イエス様の呼びかけは一部の人だけに向けられていたのか、言い換えれば、イエス様の安らぎが必要な人は、求めている人だけだったのか、ということです。一カ所大事な箇所を開きたいと思います。本日はイエス様の招きの声を聞いていますが、イエス様の眼差しは誰に、どのように向けられていたのか。これを描いた場面です。同じくマタイの福音書、9:35- それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。「かわいそうに思われた」とは聖書の中で大切な言葉で、「内臓がひきちぎれるほどの痛みを伴う同情」を表しています。イエス様はそのように群衆を見ておられたのでした。イエス様の周りに集まっていた群衆は、35節にもありますように、確かに病に苦しむ人や、様々なわずらいを抱えていた人々でした。けれどもそれだけでなく、イエスがどんな人かを見定めようとしていた人や、当時権威を持っていた律法学者やパリサイ人もいたと考えられます。つまり、みんながみんな疲れを覚え重荷を抱えていた、と自覚して、求めてやってきていた訳ではなかったのです。それどころか、自分は大丈夫、重荷なんてないし人生楽しんでいる、最近話題のイエスという人物が近くに来たから一丁見てやるか、という人もいた訳です。でも、イエス様の目には、羊飼いのない羊のように映った。好き勝手にあっちこっちへ行き、無防備で常に危険にさらされている一匹のかよわい羊のように映っていたのでした。しかもその羊は元気いっぱい自由奔放に飛び跳ねているのではなく、弱り果てて倒れている。弱り果てて倒れていたとしても、近くに羊飼いがいてくれるなら安心です。手当てをしてもらい、傷つけようとする獣から守ってくれますし、食事が与えられ、水が与えられる。しかし、群衆たちはその羊飼いを知らず、一人っきりで野に倒れ、死んでゆく羊のように弱い存在である。イエス様の目にはどんな人もこのように映っていたのでした。私たちがその疲れ、重荷に気づいていようといまいと、イエス様の目にはすべての人が羊飼いの元に帰らなければならない羊のような存在であり、すべての人がイエス様の元に来なければならない「疲れた人、重荷を負っている人」であるのでした。羊飼いの元にいない羊とは、神様の元から離れた人間を表しています。神様から離れるということは、神様に造られたにもかかわらず本来いるべき神様のそばにいない状態であり、聖書はそれを罪と教えます。この罪があるから、本来いるべき場所にいないから、私たちは疲れて、重荷を負い、人生の中でたくさんの苦しみや痛みに嘆き、弱り果てて倒れてしまっている。いやそんな自分自身の危機的状態にも気づかないまま、死へと向かっているのです。そんな私たちに対して、イエス様は本当の休み場へ招いてくださるのでした。「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 

3. イエス様の休ませ方

 続く2節は、それがどのような休ませ方なのかを教えているのでした。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」先ほどの28節と合わせて、暗唱されている方が多い箇所ではないでしょうか。多くの慰めにあふれたイエス様のお言葉です。先ほどのイエス様の眼差しと合わせて考えるならば、すべての人への招きの言葉であると言えるでしょう。

 しかしここで気づくことは、私たちが思い描く休ませ方をイエス様はしてくれないということです。あなたがたを休ませてあげます、と言われて喜びながらイエス様の元へ行くと、用意されていたのは快適な空間、疲れを癒すマッサージ、重荷を降ろして一休みできるような休憩所などではなく、イエス様のくびきを負うこと、イエス様から学ぶことでした。ちょっと話が違うじゃないですか!と言いたくなる箇所かもしれません。くびきというのは、二頭の牛や馬に装着して勝手なところへ行かないように動きを制御し、すきやくわといった畑を耕す道具をくっつけて用いられる、いわば畑仕事のための道具です。明らかに仕事のための道具でした。ですから、普通でしたら休むときにはむしろそのくびきを外すことで休ませるものです。負いやすく、荷は軽いと言われているけれども、くびきはくびき、荷物は荷物です。なぜこれが、休むことになるのでしょうか。どうしてたましいに安らぎが来るのでしょうか。

 

 それは、私たちが今まで一人きりで運んでいた重荷を、イエス様が一緒になって担ってくださるということであります。生きるためにしていた苦労、両肩にのしかかっていた疲れを、もう一人で抱えなくて良いと言ってくださる。先ほどもお話ししましたが、普通の休憩でしたら、くびきを降ろして一休みさせ、しばらく休んで力を蓄えたらもう一度くびきを負い、再び重荷を負って働きに出ます。ある意味で私たちの人生もこの繰り返しであると言えるでしょう。仕事や日々の事柄、人間関係に疲れた時、一旦そこから離れて休憩を取ることはできます。けれども、またそこに戻らなければなりませんし、そうした時に多くの人は苦しみを覚えます。休み明けの月曜日や、長期休暇後に自殺者が多いというのは統計上でも明らかになっています。それが本当の安らぎといえるでしょうか。一時的な休み、しばらくの気分転換に過ぎないのです。でもイエス様がここで招いてくださっているのは、負ってきた重荷を取り去るのではなく、負ってきた重荷をこれからは共に運び、苦しみを分かち合おうとする休ませ方なのです。あなたはもう一人ではない、一人で重い問題を、生きる苦しみを、たくさんの悲しみを負う必要はない。わたしがいるから、わたしが一緒にそれを運んであげるからとイエス様は優しく声をかけてくださるのでした。イエス様がともにくびきを負ってくださる。私たちがこの地上で生きている限り、さまざまな重荷から逃れることはできないのではないかと思います。真空状態を生きているのではないのだから、いろいろなストレスや悩み、問題が絶えず存在し襲い掛かってきます。でも、そんな時に、このイエス様の優しい呼びかけを何度でも思い起こしたいのです。私だけでは抱えきれない重い荷物を様々な痛みや悲しみを、弱さを、一緒に担ってくださるお方がおられるのです。そして招いてくださっている。だから私たちは歩みを続けることができる。ここに本当の喜びがあるのです。

 

 くびきは二頭の牛や馬をつなぐと言いました。その多くの場合、ちょっと変な言い方ですが、先輩の牛と若い牛をペアにしたそうです。そうすることで若い牛は先輩牛の姿に習い、その先輩に導かれて進むことができるようになる。イエス様が「わたしから学びなさい」と言われているのには、そのような意味があったと思うのです。ともに重荷を負ってくださるイエス様に学ぶ。では、イエス様が負っておられたものはなんだったでしょうか。それは、十字架に他なりません。十字架とは死刑の道具です。しかもイエス様は、自分の罪ゆえの自分の十字架を背負っていたわけではありません。私が負うべき、私の十字架を背負ってくださっているのです。私たちの罪を贖うため、私たちの身代わりとなって負ってくださった重く苦しい十字架です。本当だったら私たちが背負い、私たちが受けなければならなかった苦しみ、死を、イエス様が代わりに背負い、代わりに受けてくださった。そんなお方が隣にいてくださり、私と一緒に歩いてくれる、共に生きることができ、これから経験するたくさんの疲れや痛みを負ってくださるのです。ここでイエス様が「わたしは心優しく、へりくだっているから」と言われていたことは、イザヤ書53章のみことばを思い出します。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。私たちはみな、ひつじのようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、種は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。私たちがイエス様のくびきを負う前に、イエス様は私たちの身代わりとなって私たちの病、痛みを負い、苦しみを背負ってくださいました。私たちがそのお方の元に行くとは、このイエス様が身代わりになってくださったことを信じ、感謝して受け入れるということであります。私たちが自分から救いを求めていくのではなく、イエス様がまず招いてくださっているのであります。その呼びかけに応えこの優しいお方の元へと歩みだそうではありませんか。

 繰り返しになりますが、この世の休みは、負っていた荷物を一時おろし、あるいは見ないようにするだけのまやかしに過ぎません。いや確かにそれが必要なこともあります。様々なものによって気を紛らわせることがあります。趣味であったり、旅行に行ったり、ひたすら寝たり。それらがいけないというわけではありません。けれども、それが根本的な解決ではないということを知っていただきたいのです。結局は一休みから再び元の場所へと戻らなければならず、一人で重い荷物を再びよいしょと背負わなければなりません。その繰り返しです。そうではなく本当の解決は、本当の安らぎは、イエス様と一緒に生きているところにあるのです。このお方が一緒に負ってくださる。それを知り受け入れることこそが、私たちの重荷を本当の意味で軽くし、私たちの疲れを癒し、私たちが進むべき道を進むことができるただ一つの解決である。イエス様は、羊飼いを見失い弱り果てて倒れている羊の元に来てくださり、もう大丈夫、わたしがいるよと声をかけてくださったのでした。本日の箇所を読んでいて気づいたことがあります。それは、この短い箇所でイエス様は何度も「わたし」という言葉を使っていることです。ご自身を指差して、ご自身を見るようにと促していると考えることができるでしょう。見るべきものはここであると教えてくださっている。イエス様は、弱り果てて倒れる羊の羊飼いであります。主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、皆のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。このお方に、本当の慰めと、本当の安らぎがあるのです。だからイエス様は繰り返し「わたし」という言葉を伝えて、ここにのみ安らぎがあることを強調しておられるのでした。

 

 「休ませる」ということばは、竪琴の弦を緩めるという元々の意味があるようです。私たちが生きる時、様々な緊張関係の中を生きています。ストレス社会という言葉がありますが、先にも触れましたような間違った競争が強いられる中で、絶えず緊張を強いられ、ストレスで心をすり減らしている方が多くいます。そんな中で、イエス様と共に生きる私たちは様々な緊張から解放され、初めて深く息をすることができるようになります。どんな困難があっても、どんな問題を抱えていても、どんな過酷な状況でも、イエス様が隣に立って、それを一緒に担ってくださる。この幸いを今朝、もう一度覚えましょう。

 

4. おわりに この安らぎを喜んで生きる

 残念ながら、この本当の安らぎのことを多くの人は知りません。イエス様の招きの声は、この地上での見せかけだけの休み場、耳に入ってくる誘惑の雑音によって聞こえづらいのです。だからこそ、このお方とともにある安らぎを知っている私たちが、この招きの声を携えて、安らぎを必要としている方々、疲れ果てつつある多くの方々へと遣わされているのではないでしょうか。来週29日は、いよいよ祈って参りました聖書講演会です。中村先生をお招きしてのこの集会、イエス様の招きの声を多くの方々に届けるチャンスであります。それは直接ことばで伝えることだけではないと思うんです。それぞれに賜物があり、大胆に語れる人もいれば、何十年も一人の人の救いのために祈り続ける人がいます。傷つき倒れる人の傍に寄り添うことで神様の愛の香りを伝える人もいるでしょう。それと同じように、私たち自身がどんな困難な中にあってもイエス様と共に生きることの安らぎと喜びに満たされているなら、それは今の時代にあって力強い証になるでしょう。イエス様と共に生きていけることの喜びを歌いつつ、新しい一週の歩みを始めて参りましょう。