聖霊と共なる生活

❖聖書個所 第二テモテ1章7節      ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。               第一テモテ1章7節

 

❖説教の構成

◆(序)聖霊の働き

   さまざまな記念日を定めています教会暦によりますと、今年は、本日が主の約束通り聖霊が与えられた聖霊降臨日(ペンテ・コステ)です。この時の出来事については、今行っています使徒の働きの連続説教2章で見たばかりですが、今の私たちにとっても聖霊は非常に大切な存在ですから、聖霊が降られた記念日である本日あらためてみことばから教えられたいと願っています。

 さて、聖霊を理解するうえにおいて、最も大切なのは、聖霊は、父なる神、御子なるキリストと同じ神であるということです。一部の異端が言うように、聖霊は、神の力や息ではなく、神ご自身です。ある神学者は、父なる神、御子なるキリスト、聖霊の三位一体の神について、(想像を超えた親しい) 交わりの神と言っています。聖霊は、父なる神や御子なるキリストと同じ本質を持ち、同じ目的のために働く方です。重視されて来なかった聖霊の存在や働きを意義づけようとして、聖霊を強調して、御心の啓示である聖書から逸脱させることがありますが、却ってそれは聖霊を人間の都合の良いように扱い、本来の聖霊ご自身をゆがめ、誤解させる考えです。

 続いて聖霊を理解するうえにおいて大切なのは、それぞれの信仰生活の場において働く神ということです。三位一体の神のうち、聖霊の特徴はその点にあります。基本的には、一人ひとりに働く方ですが、時にもっと広く、教会全体、多くの人のうちに同時に働くこともありますが(使徒の働き2章、4章など)、ともかく聖霊は、それぞれの信仰生活を送っているところで働くのです。

 

 聖霊は信仰生活においてどのように働くのでしょうか。聖書は次のように言います。聖霊は、まず人々に真理を悟らせます。人生において何が最も大切であるか、どのように生きるべきかに気づかせます。(ヨハネ16章7節~13節) また日々、信者の心深くに語りかけることによって、みことばの意味を悟らせ、慰め、励まし、力づけ、また誘惑から守るのです。そして、その真理を知った者に、神の御心に従って生きるように促します。このように、聖霊は、一人ひとりの生涯において働くことによって、最終的に人が主イエスの栄光を表すように変えるのです。(ヨハネ16章14節)

◆(本論)聖霊に導かれた信仰生活

①では、聖霊に導かれるとき、人生はどのようになるのでしょうか。それを示すふさわしいみことばがあります。本日の聖書箇所、使徒パウロが愛する弟子に書いた「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」(Ⅱテモテ1章7節)というみことばです。聖霊について語っているところですが、同時に聖霊に支えられ、共に歩む人生の姿をも示しているのです。

 第一にそれはおくびょうの霊ではないと言います。卑下をし、自分の殻に閉じこもってしまい、投げやりになる生き方ではないと言います。最初、ユダヤ人たちを恐れていた使徒たちも聖霊に満たされると堂々とただこのお方のみが救い主であると宣言するようになっています。(4章12節)   

 第二にそれは力の霊です。しかし、人を支配したり、奪い取るという意味の力ではありません。そうではなく、どんな試練、誘惑の中でも倒されない、惑わされない、主にある者として立ち続けることができる力です。キリスト者が主にあって歩もうとするとき、さまざまなものが襲ってきます。全く予測していなかったものもあります。しかし、慰め主なる聖霊がどんなときにもともにいてくださいますからその中でも立ち続けることができるのです。(Ⅱコリント1章4節)

   第三にそれは愛の霊です。人の表面だけや一部だけを見て判断しない、主が見るようにその人を見るようになるのです。人の愛はその根底に理由、条件があります。一言でいうならば自分中心の愛なのです。けれども聖霊に導かれるとき、人の根底にあるものや全体を見ようとする相手中心の愛になるのです。隠された悲しみや苦しみを受けとめるようになるのです。

 第四にそれは慎みの霊です。信仰生活が長くなり、何らかの評価を受けるようになったとしても、自分自身は、粗末なまた弱い土の器である思いを失わない姿です。(Ⅱコリント4章6節~7節) 承知のように、初代教会の中で並ぶ者がいない大きな働きをなしたパウロは、信仰生活が長くなるに従って恵みとともに自分自身の罪深さを知るようになり、晩年には自分は罪人のかしらだと言うようになっています。教会の中だけでなく、教会を敵視する側からも最重要人物と思われていましたが、パウロ自身は終生、自分は土の器であるとの意識を持ち続けたのです。

 

②聖霊に導かれる生涯について見ましたが、もっと具体的に、聖霊により信仰生活を送るとはどのようなことでしょうか。その例として、Ⅰコリント8章でパウロが語っている例、偶像にささげられ、市場に卸され、販売されている肉についての扱いの箇所をあげることができます。というのは、コリントの町に生きるクリスチャンにとって、偶像にささげられた肉の問題は現実の切実な問題だったのです。偶像の神殿にささげられた肉が一般の市場に卸され、販売されていたのです。偶像と関わりを持ちたくないと思っていても、必然的にコリント市民の生活に入り込んでいたのです。 それゆえに、この問題について、信者の間に議論が巻き起こりました。ある人は、どれだけ影響力がある偶像でも本来は神ではなく、恐れる必要など少しもないのだから、市場で売られている肉が偶像にささげられたものであるか、いちいち調べなくて良い、何も気にしないで食べて構わないと主張しました。けれどもある人々は、いくら真の神ではないと言っても、この間まで支配されていた者は影響されやすいから、それが偶像の神殿から市場に流されたものかどうか、丹念に調べなければならない、そしてそうであるなら絶対に食べてはいけないと主張しました。教会の意見が二分したのです。その紛糾している事態に対して、問われたパウロは、知識だけでなく、愛を基準として考える必要があると答えているのです。(8章13節) 私は、ここに出ているような姿が聖霊によって信仰生活を送ることだと思います。いくら、知恵、知識、預言などの聖霊の賜物が豊かに与えられていても、その賜物によって押し切らず、愛をもって行動することが聖霊に導かれて生きることだと言うのです。

 

◆(終わりに)日々の歩みにおいて

 まとめますと、みことばに言う御霊の人とは、真に砕かれている人です。真理に立ち、厳しいことを言うけれども人を否定せず、受け入れる人です。キリストの香りがする人です。御霊によって生きるとは、その人の信仰が特別高い次元になることではありません。普通の人には分からない、特別の領域に入ることではありません。そのように言う人がいますが、惑わされてはなりません。本当に御霊の賜物が与えられている人は、そんなまやかしではなく、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などの御霊の実(ガラテヤ5章22節、23節)を大切にしています。そして、みことばがはっきり示しているように、他の人を受け入れ、その人が生き生きと、神にあって生きる道を備えようとするのです。

 

 私たちの教会の一人ひとりが、本日見て来ましたように聖霊によって信仰生活を送るならば私たちの教会は変わるでしょう。まず自分自身がどんな時にも、ともにおられる聖霊によって慰められ、力づけられ、真理に立って生きるからです。そして、他の人に対しても先にあげた聖霊の実をもって接するからです。けれども、現実になぜ私たちは弱いのでしょうか。結局、自分の力によって歩もうとしているからです。そうではなく、聖霊によって信仰生活を送ることです。聖霊は私たちを助けてくださる方です。みことばを求め、祈る時を持ちましょう。そうする時にいつとかどのようにしてとか分からないのですが、聖霊が生きていく力、愛、慎みを与えてくださいます。