真似る愚かさ

❖聖書箇所 使徒の働き4章32節~5章11節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとともに、非常な恐れが生じた。                        使徒の働き 5章11節

 

◆(序)この箇所について

 ここに出ているのは、全てをささげて分かち合う良き交わりを持っている姿と、それを真似ただけの者たちの姿です。未熟や慣れないゆえではなく、十分な理解をもっていながら偽り、神を愛していることを装っている姿です、それは彼らの行動が二人で相談した結果であることから知りえます。そして、それに対して、アナニヤとサッピラの二人ともの命が絶たれるという厳しい裁きがくだされたことによって、主はそういったことを最も嫌われるということを示している場面です。

 私たちは、偽った者たちが厳しく扱われているこの箇所からあらためて主が望んでおられる教会の姿を知ることができます。そして、それを考えて行くに際して、他の多くの者たちが何のために自分の持てるものすべてを分かち合っていたのか、その理由を知ることが参考になります。彼らは、神の家族として、弱さを互いに担うため、ヨハネ17章において主が残される弟子たちのために祈られたように本当に一つになり、支え合い、世にあって主のすばらしさを表すためにすべてをささげて分かちあったのです。

 

 そういった人々に対して、偽ったアナニヤとサッピラの心にあったのはかたちだけでした。この二人にとって大事なのは主や福音ではなく、自分たちの姿、自分たちが他の者たちからどのように見られるのかだったのです。よくお話すように弱さ、足りなさは主の教会においては少しも問題ではありません。問題となるのは装うことです。偽善者とはご承知のように役を演じる者のことです。主によって救いの恵みをいただき、主にあって生きるようにされた者は、マタイ23章で主から強く非難されているようにバリサイ人のようであってはならないのです。(27節~28節)

◆(本論) 主が望んでおられる教会

①厳しいことが言われているこのところから私たちはまず、教会は世の組織とは違うということを知りえます。世の組織では、アナニヤとサッピラがそうしたように、人々が注目するような結果を達成することが大事とされています。現代では、たとえば学校ですら、その内容、児童、生徒、学生の状態よりも、有名高校、有名大学に何人合格したか、一流企業に何人就職したか、或いはお店であるなら、地域や顧客との繋がりよりもどれだけの人が来てどれだけの売り上げがあったか、また会社も社会に対する貢献よりもどれだけの売り上げがあり、どれだけの利益をあげたのかが注目されるのです。社会の殆どの組織は、元々、人に生きる喜びや希望を与えるものであっても最終的には前述のようなかたちある結果を残すことが大切にされているように思います。そして時にはそのために偽ることだってあるのです。

 しかし、教会、マタイの福音書16章18節(朗読) にあるように、人生の中で主を心から告白する者たちからなるキリスト教会は、廻りがどのように変わってもその内容は変わらないのです。目に見えるようなかたち、結果が中心ではないのです。もちろん、救われる人々が大勢起こされて、そして信じる人々の数が増えていくことはすばらしいことですが、教会にとって一番大事なことかと問われるとそうでないと言わなければなりません。教会にとって何より大切なのは、これまでにも見てきましたように、一人ひとりに主への愛と真実があることであり、そしてその愛と真実のゆえにお互いを主にある兄弟姉妹として受け入れあい、支え合うことであり、さらにまだ救われていない人々への思いなのです。なぜなら教会は人の罪を贖うために十字架の死を受け、三日目に死よりよみがえられた主イエス、御子のからだであるからです。

 確かに、教会も人の集まりですから、これからの展開の中で出てくるように組織や体制も必要ですが、中心、一番大切なのは一人ひとりの主との結びつきであり、そして主を通しての信仰の友との繋がりであり、救われていない人々に対する想いなのです。

 分かりやすく言うならば、長い歴史を誇り、立派な会堂を持ち、大勢の人々が集っていたとしても、主、みことばによるものではなく、ただ気が合うとか、一緒にいて楽しいといった、人間的繋がりによるものであるなら、外見的にはどれだけすばらしく見えてもいのちある教会とは言えないのです。ましてや、主がご自身の血をもって買い取ってくださった主イエスのからだとは言えないのです。反対に会堂がなく、集まっている人々が少なくても、みことばがそのまま語られ、人々が主を心から愛し、互いを受け入れ、また救われていない、滅びゆく人々を祈りに覚えているなら真の意味で主のからだなのです。このように主の教会は、ただ人の罪を贖うために一人子さえも惜しまずに与えてくださった神を愛し、また隣人も神が与えた人として愛することが求められている存在なのです。

 少し横道にそれますが、近代産業社会において、過酷な状態に置かれていた奴隷を解放する運動や幼い子供たちを蝕んでいた児童の長時間労働を禁止する運動が教会から起こっているのは、教会がこれまで話して来たように、一人ひとりは神の目から見ると掛け替えのない存在であり、愛する存在と深く認識していたゆえです。教会は社会がどのように変わろうとも、その本質は変わらないのです。愛の神とその愛によって結ばれた人々の集まりなのです。

 

②このように教会にとって何よりも大事なのは、主に対する姿勢です。それを抜きにしてアナニヤとサッピラのように、偽って他の人を真似ても意味がないのです。ただ虚しいだけです。彼らは何も偽る必要がなかったのです。もともと、地所は自分たちのものであり、どうしようと彼らの自由であったのです。或いは指摘された時、ありのままを正直に話せばよかったのです。しかし、彼らはあたかも自分たちも主にすべてをささげているかのように振る舞ったのです。その偽りの姿勢に対して厳しい罰が下されたのです。それらしく振舞っても主を偽り続けることなど出来ないと明らかにされたのです。ヘブル人への手紙4章13節に次のようなことばがあります。「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちは、この神に対して弁明するのです。」またヤコブの手紙4章8節では「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」と言われています。二心とは、神様に半分、他のものに半分かけることだと言われています。アナニヤとサッピラは神を最後まで軽く見、厳しい裁きを受けたのです。

 

◆(終わりに)私たちはどうしたら良いのか

   このところから、私たちはあらためて主の教会の本質、最も大切にすべきことを教えられます。

それは、繰り返すように表面の姿ではなく、一人ひとりの信仰、主に対する真実です。けれどもそれを重視することは立派な、聖書のことばを用いるならばそれぞれが金の器、銀の器になるということではありません。土の器のままで良いのです。弱さ、足りなさをそのまま現したら良いのです。そしてそんな者のうちに働く主の恵みを表したら良いのです。それを認めないで背伸びしようとする時に負担がかかり、信仰生活そのものが苦しくなる、つらくなるのです。

 

 教会の歴史において重要な役割を果たしたあるクリスチャンの墓標に、単に「主のしもべ、何々」とあるそうです。生前からそう刻むように言っていたものです。そういう思いで生涯を送っていたのです。主は私たちに別の誰かになりなさいと言われていません。救われ、召されているそのままで生きていけば良いのです。それが最も主のすばらしさを伝えるのです。