主イエスを心に刻む

■聖書:コリント人への手紙第一 11:23-29     ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(26節)

 

1. はじめに

 初代教会が大切にしていたものの中に、パン裂き、すなわち今日の聖餐式があります。歴史の教会でもこれを守り続け、目に見える神の言葉として重視していました。本日の箇所をお読みいただきお気づきになったかと思いますが、本日はこのイエス様が定められ、初代教会が守り、歴史の教会が引き継いできました聖餐式について学び、その意味を改めて覚えるときになればと思っています。私たちはがパンを食べ、杯をいただくとき、何が求められているのか。聖餐式が形だけのものにならずに、そこに込められた愛を知るために、みことばに聞いて参りましょう。

2. 聖餐式の本質① イエスを刻む聖餐式

 本日の箇所、1コリント11:23の前半部分をお読みします。私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。金沢中央教会では毎月第1週目に行っている聖餐式ですが、本日の箇所を読みますと改めて2000年ほど前のエルサレム、イエス様が弟子たちとともに囲まれた最後の晩餐の席での出来事が、今日にまで伝えられてきたのだということを思い出します。「わたしは主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです」これは受けたことをそのまま手渡すという表現です。パウロは当時12弟子ではありませんでしたから、弟子たちを通して教会に伝えられていた聖餐式の様子をパウロも歴史の一人として、しかし主からのものであると確信を持って受け取り、それを伝えているということでしょう。もちろん形は変わり、その時代その時代、また教会によっても少しずつ変わってきてはいますが、源泉としては同じものがこのように守られ、今日の金沢、この日この時に至るのでありました。

 パウロは自身が受け取ったものをコリントの教会に伝えて言います。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」聖餐式の中でも読み上げられますこの箇所ですが、改めてこのように読んでみますと、パンとぶどう酒をいただく際に共通してお話しされているイエス様のことばに気づきます。「わたしを覚えて、これを行いなさい」わたしを覚えて、別の翻訳では「わたしを記念して」とあります。これは本日の説教における一つのキーワードでありますが、皆さんは聖餐式の時、どのようにこのことばをお聞きになっているでしょうか。ギリシャ語本文ではアナムネーシス、「心に刻まれたものを想起する、思い起こす」と訳される言葉です。主イエスを心に刻み、思い起こす。ただ単に覚える、記念するという「メモリー、メモリアル」とは少しニュアンスの異なる、Remembranceという語が英語では使われています。この言葉の特徴を表す印象的な箇所として、例えばマルコ14:72「するとすぐに、鶏が、二度目に泣いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのお言葉を思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」ただふと思い出す、昔のこととして思い出すだけでなく、彼はその思い出した時、大きな痛みを覚え泣き出したのでした。自らの罪深さを思い、泣かずにはいられなかった。記憶がよみがえるだけでなく、自分の中で何かが変わらざるを得ないような、「思い出し方」とでも言えるでしょうか。この「わたしを覚えて、わたしを記念して」と言われる時、ただ昔の出来事として思い出す、それを記念するだけでなく、そのことが今の私の、私たちの心を揺さぶり、時に悔い改めに導き、時に感謝の歌を歌い出すほどの影響を持つ、現実の力を持つものなのです。そのような「覚え方、記念の仕方」が求められている言葉なのです。

 さらに例をあげれば、このRemembranceは、戦没者の追悼式などで使われる言葉だそうです。今から31年前の198558日、当時の西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーによる『荒野の40年』という演説では、この言葉がキーワードになっていました。194558日は第二次大戦のヨーロッパにおける終結、ドイツが降伏した日でありました。その日からの40年を、聖書において出エジプトを果たしたイスラエルが荒野をさまよった40年と重ねこの演説をしたのでした。「58日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、とりわけ誠実さ(「真実を求めること」)が必要とされます。」ドイツの国が負っている戦争の責任を「心に刻む」と言っているのですが、これもまた、自分の外の事柄として覚えるのではなく、自分の内側に、自分の一部となるように思い浮かべることだと言っているのです。また演説の後半では、「われわれは人間として心からの和解を求めております。まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はない、という一事を理解せねばならぬのです。」として、現実の問題の解決のために、この「心に刻む」ことの重要さを強調しているのです。それは単に過去の過ちを忘れないなどといったことではなく、その罪を痛みを追って負い続け、和解をめざして歩み続けるという決意表明なのです。

 

 少し時間を割いてお話ししてまいりましたが、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われたイエス様の勧めは、ただ単にこの日を覚えている、このことを記念として祝うということだけではなく、このことに根ざした歩みを新たに始めるということに意味があるのです。ペテロがイエスの御言葉を思い出し、その罪に気づかされて大号泣しました。ヴァイツゼッカーがこの心の刻むことなしに現実問題の解決はあり得ないと演説したように、私たちもまたこのイエスを心に刻むことによって、新しいいのちの歩みが始まっていかなければならない。すなわち、イエスを心に刻み、真実に向き合い、この時から新しい歩みをその都度始めるということが、聖餐式の大切な目的であると言えるのです。

 

① からだであるパン

 それでは、イエス様が「わたしを覚えて守り行え」と言われた二つの事柄について見ていきましょう。1点目は、パン裂きでありました。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」渡される夜というのは、裏切り者ユダの手によってイエスを憎んでいたユダヤの人々の手に渡される夜、あるいは死に引き渡される夜であると考えられています。何れにしても明らかに、最後の晩餐の席、イエス様が跪いて弟子たちの足を洗い、その愛を残るところなく・最後まで示されたあの食卓を指し示しています。弟子たちはこれからどうなるのか本当にはわかっていない中、すべてのことをご存知のイエス様の愛が示された。とするならば、その食卓で示されたこの聖餐式もまた、イエス様の愛の表れであると言えるでしょう。その席で裂かれ、弟子たちに配られたパンは、わたしのからだであると言われています。イエス様がご自身をいのちのパンであるという箇所を開いてみましょう。ヨハネ6:48- ここを読む時、特に最後にお読みしました51節の後半、「世のいのちのための、わたしの肉」というイエス様のお言葉は、本日の箇所での「あなたがたのための」という言葉と結びついてきます。そしてこれは、同じくヨハネの福音書3:16神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」を思い出させます。神のひとり子であるイエス様が与えられたのは、神様が世を愛されたから、私たちのためであります。注意したいことは、私たちが、私たちの方から求めたから与えられたわけではありません。あくまでも神様が私たちを愛してくださり、神様の元から離れ罪を犯し続ける私たちを取り戻すために、このひとり子を与えてくださったのです。まことのいのちを与えるお方を、お与えくださった。

 このようなことを考えるならば、聖餐式はただ差し出される恵みを、感謝を持って受け取る式であることに気付かされます。私たちは「あなたがたのための」と言われるイエス様を、ただ感謝をもって、受け止めるものでありたいと思います。神様もまた、何かの努力であるとか、徳を高めるとか、清くなければならないとかではなく、私たちが求める前から私たちのために差し出されたいのちのパン、イエス・キリストに対して、ただ手を伸ばし、ただ信じ受け取ることを求めておられるのです。

 

② イエスの血による新しい契約

 さらに、イエス様は言われます。夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」覚え、行いなさいと言われる二点目は、イエス様の血である杯を飲むことでした。これは新しい契約であると言われていますが、では古い契約とはなんでしょうか。本日は詳しくお話しする時間がありませんが、出エジプトの際に与えられた律法に基づく契約がありました。律法を守り行うということが神様と人との間の約束として結ばれたのです。契約が結ばれるとは、当事者同士の間にある関係が生まれることであると言います。ですから、古い契約とは律法によって結ばれた関係であると言えるでしょう。しかしその結果はというと、律法が形だけになっていってしまった、神様が本当に願っていたこと、律法が与えられたことの意図はないがしろにされ、これに基づく神様との関係も歪んだものとなってしまったのでした。イスラエルの人々は、神様が求めていることを忘れ、神様がどこまでも愛のみ手を伸ばしてくださる方を忘れてしまったのでした。契約は形だけ、関係は形だけのものとなってしまったのであります。

 そんな人間との関係を回復させるために新しい契約が結ばれ、新しい関係が築き上げられたのでした。イエス様の血による新しい契約とは、愛に基づく契約、愛に結ばれた関係です。イエス様は私たち罪人を友と呼び、その友のために十字架の道を進まれ、友の代わりにいのちを捨てるという愛を示してくださり、私たちにいのちを与え、私たち失われた一人一人を取り戻してくださったのです。彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたと言われている通りです。イエス様ご自身もマタイの福音書では、「これは、私の契約の地です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と言われていました。私たちはイエス様の十字架の血によって清められ、雪よりも白くされているのです。

 

 わたしを覚えて、これを行いなさいと言われていた二つのことを見てきました。言い換えるならば、この聖餐式を守り、裂かれたパンをいただき新しい契約のしるしである杯を飲む時に、私たちはこのイエスを心に刻み、思い出し、そしてそれにふさわしい歩みを始めるのです。いのちが与えられ、罪が洗いきよめられ、新しい関係を歩み始める。その始まりを何度も確認し、心に刻み、歩みだすという式が聖餐式の起きない身なのでありました。

 

3. 聖餐式の本質② イエスの死を告げ知らせる聖餐式

 これを誠実に守り行う時、自然と私たちの聖餐式は宣教の大きな役割を担うことになります。26節「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」イエス様の死を告げ知らせる、これは主の死を説教し続けるという意味であります。説教題は「主の死」、説教者はこの死にあずかる私たち一人一人、そしてこの説教を聞かなければならない聴衆は、この死の意味、この死が意味する大きな喜びを知らない方々、まだ神様を知らないお一人お一人であります。イエスを覚えて、その肉であり血である聖餐にあずかる時、主の死が私のいのちとなっていること、私と神様の新しい関係を作ってくださったことを覚える時、私たちは皆、世を愛された神様に遣わされた、世への説教者となるのです。イエスの死は、どのような意味を持っているでしょうか?私たちはそれを、喜びをもって証しできるでしょうか。

 

4. 聖餐式の本質③ 主の食卓を囲む交わり  

 さて、聖餐についてこれまで見てきましたけれども、聖餐式で読まれる式文はこれだけでなく、続く27-29節までも含まれます。お読みします。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。聖餐式を守る際の注意事項がここで述べられています。ふさわしくないままで、みからだをわきまえないで、飲み食いするものへの警告です。「わたしを覚えて守り行え」と言われているのに、自分勝手にそれをしないことへの警告と言えるでしょう。と同時に、これは当時のコリント教会が直面していた問題にも大きく関わることでした。少しさかのぼって、11章の17-21節をお読みします。  つまり、コリント教会の中には不和があり、交わりが壊れ、それぞれ我先にと自分勝手に振舞っていたのでした。それゆえに聖餐の意味をもう一度パウロは伝えなければならなかった。

言い換えるならば、コリント教会の交わりが壊れている中にあって、パウロは聖餐の意味、イエスを覚えることを再度教えることこそが、彼らが抱えていた問題の解決につながるものだと確信していたのだと思うのです。すなわち、聖餐は確かに一人一人がイエスの死を覚え、その死によって生かされていることを覚える時であります。けれどもそれだけでなく、それを共に食するという共同の食事であるということを思い出させるのであります。一人一人イエスの死を覚え、神との関係を思い出すということは神様と私、縦の関係であると言えます。対して、裂かれたパンを共に属し、注がれた杯を共にいただく兄弟姉妹が与えられているということは、横の関係であると言えるでしょう。この縦横の交わりが表されているのが、この聖餐式なのであります。これはすでに、パウロによって語られていたことです。1コリント10:16-17「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」私たちはキリストのいのちにあずかり、ひとつのからだである。この私たちのために与えられたイエスの体を思わず、イエスのいのちが与えられた私たちのからだ全体のことを思わないならば、それは聖餐式にふさわしくないのだと言われているのです。自分は罪人だからふさわしくない、のではないのです。そんな自分はふさわしくないと知っている罪人こそ、生きることに苦しみを覚え、助けを真に求め、キリストを信じ受け入れている者こそ、この食卓に招かれているのです。

 

5. まとめ

 最後になりますけれども、聖餐式は、イエスを覚え、その死を告げ知らせるために制定されたものであります。イエスを覚えるとは、そのいのちの恵みをいただき、その血によって私たちの罪が洗い流されていることを喜び感謝するとき、それを心に刻んで新しい歩みを始めるスタートであります。それは何のために定められたのでしょうか。世の支配者たちは自身の権力を誇示するために、自らを記念し覚えるように強要しました。しかしイエス様が私を覚えてと言われるとき、それはご自身のためではなくあくまで私たちのため、弱く忘れやすい私たちが、いつもこのイエス様の恵みを、イエス様ご自身を心に刻み続けるために与えられたものであるのです。目には見えないけれども力ある神のことばだけでなく、目に見える形での神のことばを与えてくださった。私たちのため、この聖餐式は恵みによってあたえられた。ふさわしくないものを寄り分けるためではなく、すべてのものが真実の恵みを覚え、ただ感謝に満たされ喜びに溢れるために。

 そして、その喜びに満たされてそれぞれが共に食卓を囲み、さらに一つであることを喜ぶときでもあります。聖餐式は英語ではユーカリスト、ギリシャ語では「感謝する」という意味であります。このことばの中には「恵み(カリス)」が隠されています。注がれている驚くばかりの恵みをただ受け取る、それは感謝の時です。自ら罪と向きあい、感謝を持って私たちに注がれているたくさんの恵みを受け取らせていただき、そして、新しい歩みを始めてまいりましょう。