人生をはかる方

聖書個所 ダニエル書5章13節~28節          ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ、悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。第二コリント5章10節

 

◆(序)この個所の背景

①讃美伝道礼拝の週です。非日常的に感じる箇所ですが、人が生きるうえにおいて大事なことが言われているところだと思います。

 さて、南王国、ユダの崩壊とともに遠くバビロンまで捕え移された者たちは、必ずしも皆が苦役を強いられたのではありません。中にはダニエル書の前半に記されているように、その優秀さを認められて、バビロンの王(ネブカデネザル)に仕えた者たちもいたほどです。ダニエルもそうした者の一人として、王の側近に取り立てられ、非常に重要な立場についたのです。

 一方、ダニエルは、そのように国の重要な立場として王に仕えながら、バビロンにいた同胞に神のことばを語る預言者としても召されました。すばらしい知恵の持ち主として若い時からバビロンの王やその後バビロンを征服したペルシャの王に仕え、用いられると同時に、同胞に対して、長年、神にある生き方を伝える預言者としての役割を果たした人物でした。

②本日の聖書の個所は、そのダニエルがバビロンの高官の立場から退いた後に起こったことでした。ユダを征服したネブカデネザル王の息子、ベルシャツァル王が自分の権力を誇るために千人の貴人たち、国の枢要を担う者たちを集め、戦利品であるイスラエルの神殿から奪ってきた器をわざわざ持ってこさせ、大酒に酔い、歓楽にふけり、そして銀、金、青銅、鉄、木、石で造られた神々を賛美したのです。(1節~12節)

 

 このベルシャツァル王は、父ネブカデネザルが驚きのうちにまことの神について語ったことを聞いているのです。(ダニエル書3章28節~29節)  或いは高ぶったときに厳しく神から取り扱われたことを知っているのです。(4章29節~) それらを十分に知っていながら、神の怒りを招くようなことばかり行ったのです。大酒、異性との乱れた歓楽を求め、宇宙、天地、その中にあるもの全てを造り、又一人ひとりをも生かしておられる真の神を知ろうとせず、偶像の神々を祀り、自分の栄華、力を誇っていたのです。けれども、私は、この王がしていることは、特別なこととは思いません。勿論、規模は違いますが、この世の多くの人々の心の中にあることではないかと思います。

◆(本論)神は人を秤られる

①そんな興奮と熱気、酔った人々の嬌声が満ちていた大宴会場に異変が起こりました。突然、人間の手の指が現れ、壁に何か書いたのです。それを見た王の顔から、それまでの、力を誇り、おごりに満ちていた表情が一瞬にして消え、怯え、腰の関節がゆるみ、ひざががたがた震えたと聖書は記しています。(5節、6節) 得体の知れない恐怖心に覆われたのです。王は、恐怖の中で、その壁に書かれたものを解読しようと思い、バビロン中の知者たちを呼び寄せましたが、その者たちは説き明かすことが出来ませんでした。そのため、王はますます怯えたのです。

 その宴会場での出来事や王がひどく怯えていることが伝えられたとき、王母が来て、恐れている王にダニエルのことを告げたのです。(10節~12節) 王母は、この大宴会に出席していませんでした。この箇所について語ったある説教者は、王母が、この宴会に出席していなかったことを軽視してはならないと言っています。真に人や国を救う事が出来るのは、権力を誇り、おごり高ぶり、勝手し放題にしている者ではないのです。むしろ、流されないで、そんな者たちから離れている、第一とすべきことを第一としている者たちです。王母は、亡くなった夫ネブカデネザル王のそばにいて、まことの神を恐れることを深く学んでいたと思われます。王母が他にも知者がいた中で、ダニエルの名を真っ先にあげたのは、真に信頼できるダニエルの背景、土台にあったものこそ、王としての治世、そして王の人生に大切なものと考えていたからと思われます。

②そんな王母の助言によってダニエルが連れて来られました。13節以下です。問題の、壁に書かれた文字の意味を尋ねられたダニエルは、まず、王に対して容赦なく、少しも割り引くことなく、王の行動、姿勢の誤りを指摘しました。(17節~23節) そして、王のそのような生き方のゆえに、壁にこれらの字が書かれたのです、その読み方は「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」、その意味は(26節~28節)、あなたの王としての治世の時は終わった、あなたは神のはかりではかられ、不足している、あなたの王国は分割されるという意味であると告げたのです。最高権力者であっても、恐れず、ただ主のみを恐れる生き方をしていましたダニエルらしく、少しも割り引くことなくそのままを告げたのです。

 

③ここで言われていることは確かに特別の出来事です。権力を誇り、又あらん限りの贅沢を尽くした、国の要人千人による大宴会、更に、突然現れた人間の手によって書かれた壁の字など、普通の生活のなかでは決してないことです。

 確かに、こんな極端な現象はないのですが、この中心に示されていることは、どの時代であっても、どんな立場であっても全ての人にあてはまるのです。人の生涯に対し、それを問われる方がいるということです。創造主、まことの神が一人ひとりを神の基準によってはかりにかけられるというのです。主は、聖書全体がはっきり伝えていることを、この時、奢り、力を誇る者に公然と伝え、人が造った銀、金、青銅、鉄、木、石の神々ではなく、真の神を恐れよ、神の秤にかなうように生きる必要があると伝えたのです。聖書のことばに「たとい、全世界を手に入れてもまことのいのちを損じたらそれが何の得になりましょう。」と言われている通りであることをこの特別の出来事を通して示されたのです。主は、全ての人を、その人が世においてどれだけすばらしい立場、力を持つ人であっても、又どれだけすばらしい経験を持つ人であっても同じように神ご自身の秤りにかけられるというのです。

 

◆(終わりに) 狭い門から入る者

 私たちが生きている日本社会では空気を読むということが大事とされています。集団の中心にいる人や多数の人々の考えを知り、合わせるという意味です。そうすることがものごとがスムーズに進むというのです。しかし、問題は私たちの社会の多くの人がまことの神を恐れていないということです。そうした時、みことばに触れている私たちは、どうしたら良いのでしょうか。

 次のことを知っておくことが大切です。いくらこの世の考えが強くても誰も私たちの人生に責任を持つ者はいないということです。この世は自分の考えに従わさせようとしますが、一人ひとりの人生、本当の生きる喜びとか永遠の希望を持つことに対しては責任を持ちません。私たちの人生の一番大切なことに対して、この世は無責任なのです。ですから、生き方を考えることに対して、この世を恐れてはならないのです。自分ひとりで本当の生きる意味について考えなければならないのです。

 その時に参考となるのが真摯に生きた先人たちです。来週学びますが、金沢にゆかりが深い人として高山右近のことを思います。まことの神を信ずる信仰に生きるために大名の地位、立場を捨て、前田利家のあずかりとなり、24年間、能登、加賀で生活し、伝道し、最後には信仰のために日本から追われて国まで捨てた人物です。狭い道を歩み、狭い門から入った人物です。けれども、今も人々に厳しい時代でも信仰を貫き通したことを伝え、励ましを与えている人です。

 

 聖書は、例外なく、すべての人の生涯が神のはかりにはかられると言います。(第二コリント5章10節)主の目に不足しているといわれた王のようにではなく、神に生きる者としての姿勢を失うことがなかったダニエルのように、主を喜び、従う生き方を求めて行きましょう。そこに決して奪われることがない真の幸いがあるのです。