変わらない約束

■聖書:出エジプト記1章       ■説教者:山口 契 副牧師

■中心聖句:私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4:18

 

1. はじめに 出エジプト記を学び始めるにあたって

 今日から出エジプト記を連続してみていきたいと思います。川口牧師が使徒の働きの連続講解をしてくださっていますから、私は旧約をと考えていました。使徒の働きは教会の歴史、聖霊によって教会が増え広がっていく様子を示していますが、出エジプト記はイスラエルの民、ひいては神の民の出発と整えられていく様子を示しています。神による救いとはどのようなものなのか、さらには救われたのちどのように整えられていくか。これを、本書を読んでいく中で学んでいきたいと願っています。

 さて、出エジプトと聞いてどのような事を思われるでしょうか。一番印象的なシーンとしては、モーセが海を割って民を導き、イスラエルの民が出エジプトを果たす場面でしょうか。映画などでも取り上げられています、ダイナミックかつスペクタクルな場面であります。しかし、イスラエルの民、神の民の救いはここに始まるわけではありませんでした。本日の場面、全部で40章からなる出エジプト記ですけれども、今日はその最初の第1章、長い箇所をお読みいただきました。まだ指導者モーセも生まれていない、この出エジプトにおける夜明けのような場面であっても、実に神様の救いのわざはすでに始まっているのだということを本日は見てまいりましょう。いや、もっと正確に言えば、一つ前の書である創世記から神様の救いの計画は始められ、少しも立ち止まることなく前進し続けているのでした。    

2. 1-7節 約束から始まる救いの物語

 読んでいただいた最初の箇所、1-7節は、一見するとあまり面白くない、ただの名前の羅列のような感じがします。例えばマタイの福音書などでも、人々の名前が味気なく並んでいるだけのようなところから始まる。現代の小説の書き出しとしては非常につまらない、ページを閉じてしまうような始まりであります。けれどもこれは創世記とのつながりの中で読むべき書物である事を表している、とても大切な意味を持っています。このつながりを意識しながら読むことが、この出エジプト記の大きな意味を味わう上で必要不可欠なのであります。いわば、出エジプトという救いはどこから始まっていたのかということであります。

 

 創世記とはご存知の通り、天地創造から始まる書であります。神様は五日間であらゆるものを整えられ、そして六日目に、いよいよ創造の目的でもあった、すべての創造物の冠として人間を創造されます。地上のあらゆるものを創造された神様がそれらを眺め回した時、すべてが非常に良かったといわれる世界です。しかしよい世界に造られましたが、人は堕落し、世界は罪に汚れてしまった。聖書が教える罪とは、私たちが生まれながらにもっているものであり、「神様に背く、そむき続ける」というものでした。今日の私たちにも持っているものです。良かったといわれる世界から一転、神様から離れた罪ゆえに苦しみや悲しみが生まれ、憎しみや怒りに支配され、死と滅びへと一直線に続いていく汚れた世界に生きる汚れた人間でした。当然そこには平安はなく、揺るぎない希望なんてものはあり得ない。しかし、神様はその罪をそのままに放置する事なく、堕落し楽園からは追放されましたけれども、それと同時に回復のわざを始められた。よくお話しすることですが、聖書中罪がない時代はわずか最初の2ページだけで、この分厚い聖書の残りはすべて人が罪の中でどのように生きるか、そして、神がその罪をどのように滅ぼし、人を救ってくださるかという救いの歴史、救済史と呼ばれるものであります。それが今日まで続いている。その意味では、創世記は世界の始まりの書であると同時に、救いの始まりの書であるという事ができます。

 具体的には、神は一人の人を選び、約束を与え、祝福の源として世界を取り戻そうとされます。その一人こそがアブラハムであり、彼の子孫が、本日の箇所で味気なく書かれている彼らなのでした。簡単に言いましたけれども、アブラハムから始まる約束の実現を目指す歩み、回復の旅は決して簡単なものではありませんでした。そもそもアブラハムに与えられた最初の約束は、創世記12:1-3「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名をおおいなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。すなわち、神との関係が回復する・救われるという約束でした。けれども、この約束が与えられた当時、アブラハムは75歳の高齢、子供もいない。大いなる国民となる、なんてことは常識では考えられるはずもなかったのでありました。いわば人生も終わりに近づきつつある時、1日でいいますならば夕暮れ時でしょうか、そんな時に約束が与えられたのです。ここから人類の回復の旅は始まったのでした。それが神様の不思議な導きと、何よりも約束を忘れることのない真実なお方であるゆえに、イサクが与えられ、ヤコブが与えられ、ヤコブに十二人の息子が与えられたのでした。この辺のことは、ぜひ創世記を初めから順々に読んでいただけたらと思います。何度もこの約束から離れそうになる人間に対して、神様は変わらずにこの約束を果たそうとしてくださっている、それを人間にも知らせ、ここに固くたち希望を持つようにと励ましてくださっている。それをいろいろな箇所で見ることができます。

 

 そのようなアブラハムの子孫たち、神様の約束を担う一族は、エジプトにいました。1-5節。さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。…ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。

ヨセフはすでにエジプトにいた。これもさらりと描かれていますが、創世記をお読みになった方ならご存知のとおり、この背後には壮絶な歴史がありました。先ほども申し上げましたように、神様は変わらずに約束のゆえにアブラハムの子供達、約束の子孫を導いてくださいますが、神に背く罪を持っている私たち人間は、神を忘れ、神の約束を簡単に忘れて自分勝手に振舞うのです。ヤコブの子であるヨセフと11人の兄弟もそうでした。悲惨な兄弟喧嘩とでもいいましょうか、調子に乗っているヨセフに対して9人の兄が怒り、エジプトに売ってしまったのです。人身売買が身内によってなされる。今日でも残る痛ましい出来事ですが、それはやはり時代が悪いから、社会が悪いからとかではなく、私たち皆が持っている罪のためであります。しかし、その中にも神の不思議な取り計らいがありました。ヤコブ家族が住むパレスチナ一帯を大飢饉がおそい、貯えのあったエジプトまで食料を買い取りに行き、その際に兄弟の再会を果たすのでした。神様が共にいてくださったので、ヨセフはその国の政治に携わる地位にまでなっていた。再会を果たしたヨセフは、自分を売った兄弟たちに対して、しかも助けを求めに来たわけですから圧倒的に立場の弱い兄たちに対して、罵ったりかつての日のことを恨みに思ったりはしませんでした。兄弟との再会の場面をお読みします。大切な箇所ですので、開いてみましょう。創世記45:3-8。彼が寛大な態度で兄弟を迎えたのはなぜでしょうか。終わりよければ、みたいな感じで、何はともあれ今は良い立場だから、余裕があるから、自分を売った兄弟が反省しているのを見たから、このように言っているのでしょうか。そうではありません。5節「神は命を救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださった」、7節「神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました」、8節「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」。すべてのことは神がされたのだ。確かに表面的には兄弟の過ち、人の罪ゆえの痛みでした。けれども、ヨセフはそれが神の働きであると知ったので、到底許すことなんてできないような彼らを受け入れることができたのです。

 さらに続く46章では、彼らの父であるヤコブは幻の中で語られます。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。」「大いなる国民」これはまさしく、旅の始まり、アブラハムに与えられたあの約束に他なりません。この約束に力づけられて、ヤコブは住んでいた地を離れエジプトへと進んだのでした。アブラハムが約束を受け、75歳であるにもかかわらず、見知らぬ地へ旅出たように、神と神の約束に信頼して旅を始める。それに続くのが、今日から見てまいります出エジプトであります。このつながり、神様の約束と、それに基づく計画であることを覚えて読まなければなりませんので、少し長い時間をかけてこのようにお話しさせていただきました。

 

 神の約束はどのように実現するのか。それを教えているのです。だからこそ、私たちは出エジプトを読み進める際には、かつて与えられた約束と、その約束を握りしめ実現を待ち望んで歩んだ信仰の父祖たちの書、創世記を覚えながら、そのつながりの中で読まなければならないのです。神様の約束はアブラハムの子孫をエジプトの地へと運び入れました。ヨセフは死に、その時代の人々は皆死にましたが、けれども、7節イスラエル人は多産だったので、おびただしく増え、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。のでありました。アブラハムが聞き、ヤコブが聞いた「大いなる国民とする」という約束。それはこのように果たされていくのでした。けれども、勘違いしてはいけないのは、ここでの「大いなる国民とする」というのは、単に数が多くなり、一つの民族を形成する、程度では終わらないということです。飢饉から助け、一家を守り民族を形成させるだけにとどまらず、さらに大きな救いを与えてくださるのでした。それはエジプトからの脱出、しかもただ逃げ出すのではなく、神様の不思議な力によって、「その御翼に乗せて」(出エジ19章)助け出してくださるという救いでした。

 

3. 8-22節 前進し続ける神の計画    

 さて、神様の祝福のゆえに、アブラハム・サラという老夫婦から、「その地は彼らで満ちた」と言われるほどの民族が誕生しました。しかしそれゆえに、彼らは新たな苦難を強いられたのでした。8-14節をお読みします。印象的なのは、12節「しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた」なぜ彼らは圧政に屈せずにいられたのでしょうか。エジプトの異民族に強いた強制労働は過酷で、それはあの巨大建造物ピラミッドやスフィンクスを見ても想像にかたくないところであります。生かさず殺さずをモットーに一労働力としてこき使うことで、反抗する力を抑える反面、自分たちは強くなるというのが当時の一般的な考え方でした。しかしそのような常識を超え、イスラエルの人々は強くなっていった。彼らが神様を信じ続けていたから増え広がったとは言えないでしょう。別の箇所を開きますと、出エジプトの後、エジプトの偶像から離れよとなんども言われていますから、彼らはまことの神様ではないエジプトの神々を信じていたのでしょう。その土地の習俗、文化、宗教にどっぷり浸かっていて、神の民にふさわしい生き方はしていなかった。彼らの心は変わってしまったのです。見るところは神様とその約束ではなく、その土地の神々と強大な力を持つエジプトの王室に向けられていた。それでも断ち滅ぼされなかったのは、ただ神様の憐れみ、そして変わらない約束を守り続けてくださる、変わらないお方のゆえであります。

 

 しかし一方、それまでのような強制労働でもその力を抑えることができなかったエジプトの王としては深刻な問題です。次の、さらに残虐な手に打って出ます。15-16節、またエジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。その一人の名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」今から二千年前、ベツレヘムでのメシヤの誕生を聞きつけ、恐れ怯えて幼子を皆殺しにしたヘロデ王を思い出される方もいるのではないでしょうか。クリスマスは喜びの日ですが、神に背く人間の大きな罪が明らかになった日でもありました。自らの地位、立場を守るために、幼い命を犠牲にする。自己中心ここに極まれりと叫びたくなるほどの悪行は、やはり神を離れる罪のゆえであります。そんな時代の混沌の中、いわば罪の闇が深くなっていく中で、イエス様は光としてお生まれになったのです。この出エジプトでも、このような残虐な行為にも関わらず神様は光を見せてくださいます。17節しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じた通りにはせず、男の子を生かしておいた。シフラとは美しさ、プアとは輝きを意味する名前のようです。聖書の中で、このわずか数節しか登場しない人々でした。歴史の中では小さな存在にすぎないでしょう。この世界中の人々が読んでいる聖書に名前が載っていることさえ不思議な二人です。でも、神様の目は明らかに彼女たちに注がれている。この小さな器を用いて、神様はのちの大きな救いを果たしてくださるのです。王を恐れるのではなく、神を恐れた信仰者の姿です。聖書の中で女性がなんども重大な役割を果たしているところを見ますが、まさにここも、彼女たちでしかできないことをした、いや、神様がそのように彼女たちを用いてくださったと言えるのです。それは続くやりとりを見てもわかる通りです。18節から、そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして男の子を生かしておいたのか。」助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に生んでしまうのです。」神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。この助産婦たちのことばはある意味で本当だったのでしょう。けれども、それだけとはどうも考えられない。とすると彼女たちは王に嘘をついたのだと思われます。嘘をつくのは、悪いことです。杓子定規に裁かれるのならば、彼女たちは有罪判決を受けるでしょう。けれども、神様は嘘を許しておられるのではなく、彼女たちの心、神を畏れる姿をご覧になり、よくしてくださった。祝福してくださったのです。シフラとプアはこの世の権力者ではなく神を恐れ、この地の支配者ではなく、全世界を支配しておられるお方に従ったのであります。彼女たちがどこを見ていたのかは明らかです。見えるものにではなく見えないものにこそ目を止める。本日の中心聖句にもさせていただきましたが、そのように生きたのであります。そこには大きな喜びが用意されている。これは、私たちの生きかたにも大きな示しを与えるものです。

 

4. まとめ

 なぜ、この何千年も前の出来事が聖書に残り、今なお多くの人に読まれているのでしょうか。私たちはなぜこの書を読むのでしょうか。それは単に読み物として、ハラハラドキドキしながら読み進めていき、めでたしめでたしで終わるストーリーを楽しみたいからでは当然ありません。この、イスラエルの民によくしてくださった神、その約束を決して破ることなく果たされる神、あらゆる人間の想像を超えて、その後計画を果たしてくださる神を知るためであり、このお方が、今日も変わることなく生きておられ私たちに働いてくださることを知るためであります。そしてこのお方を見上げて生きるように止めされている。夕暮れの中、闇が増してくるとき、先が見通せない中にあっても私たちを守り、御翼の影に隠し、運んでくださるんだということに力を得て、遣わされているところでの信仰の歩みを続けていく。それまで約束されていたことが色づき身を身を結び、私たちがそれを見て喜び、味わうのであります。そのような神の約束に生きる民でありたいと願います。

 

本日の箇所から二つのことを確認して終わりにしたいと思います。一つは、神様の約束は決して破られることなく、その約束の実現までの神様の計画は、決して滞ることがないということです。悪の力はそれを見えないようにさせます。ヨセフの死後、イスラエルの人々は主の憐れみによってふえひろがりましたけれども、彼らの心は偶像で満たされていました。またエジプトの王は策略を持って神の計画に逆らい、押しとどめようと画策します。けれども、それは虚しいものであるということを本日の箇所から学びました。神の約束は変わることなく、神の計画は前進し続けるのです。

 そして二点目は、その約束を見上げ、ご計画の中を生きていくということです。約束の実現がいつなのか、どのように果たされるのか、私たちにはわからなくなることがあります。そして悪の誘惑によって見るべきところを見ることができなくなってしまう。私たちはこの力に打ち勝たなければなりません。ヨセフが見ていたのは、憎むべき兄弟やその罪ではなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神様であり、その御計画でした。シフラとプアが第一にしたのは王の命令ではなく、まことの神でありました。そこに喜びがあるのです。憎しみや怒り、恐怖や不安ではなく、喜びにあふれた力強い歩みがある。

 

新しい年度が始まり、新しい一年が始まっています。それぞれ置かれた地にあって、見えるところにではなく、見えないところ、一時的なものではなく、永遠に続くところに目を留めて、希望を持って、歩んでまいりましょう。お祈りします。