勇気が与えられた人々

❖聖書個所 使徒の働き4章23節~31節       ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。      使徒の働き4章31節

 

◆(序)この個所について

 議会での尋問、圧迫に対して恐れなかったばかりでなく、主イエスこそ神が約束されていた真の救い主であると宣言した使徒たちの報告を聞いてみなが力と勇気を得ている場面です。一同感激し、心を一つにして主を讃美し、自分たちにもみことば、福音を大胆に語らせ、主イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてくださいと祈ったのです。すると、その場所が震い動き、みなが聖霊に満たされ、大胆に神のことばを語りだしたという場面です。

 聖霊がくだり、誕生した教会が急激に成長していることを警戒した支配層の人々は、(自治の最高機関である)議会にペテロとヨハネを喚問し、教会の活動を抑え込もうとしましたが、否定しようがない事実と確信に溢れた使徒たちの姿勢の前になすすべがなかったのです。

 

 本日は使徒たちの議会での様子を聞いた者たちが主に対して自分たちの思いを語っているこのところから彼らが力強くなり、大胆さを持つようになった理由について共に教えられたいと願っています。

◆(本論)報告を聞いた者たちが力強くなり、大胆さを持つようになった理由

①この時使徒たちの報告を聞き、みなが心を一つにして、神に向かい、声をあげ、神をほめたたえ、力に溢れるようになったのは、第一に彼らのことばから分かるように、罪を贖うためになされた神のみわざ、無限の愛のすばらしさをあらためて覚えたからです。(24節~28節) 

   預言されていたキリストが来られたのに、人は罪深さのゆえに救い主を殺害した、しかしそれは、そんな究極の罪を犯す人を赦す神の愛の現れであった、神は人の知恵では想像できないような無限の愛によって、これまでの律法中心の信仰によっては決して与えられなかった罪の贖いを実現してくださったことを、聞いている者たちもはっきり分かったのです。聖霊に導かれて神の奥義が分かったのです。(コロサイ1章26節~27節) 言うまでもなく、分かったから信じていたのですが、あらためて本当にそのことのすばらしさがいよいよはっきりしたのです。私たちもそのようなことを経験するのではないでしょうか。

 近代以降、人間の理性や経験に反するようなことがらを認めない合理主義に基づいて、聖書についてもそれに反すること、中でも死よりの復活についてあり得ない、聖書の記事は初代教会の使徒たちがつくりだしたと主張する聖書学者たちが多くいます。近代教育は人間の理性や経験が根底にありますからその教えは多くの人々に受け入れられていますが、しかし、よく考えるならば、その考えは反対におかしいことに気づきます。彼らの言うように、復活が事実でなかったなら、使徒たちやともにいた者たちは自分たちがつくった偽りのために命を捨てたことになるのです。歴史上の多くの殉教者たちもそうです。実際の出来事ではない、単なる願望のために希望をもって死んだことになるのです。もし復活が事実でなかったなら、使徒たちはどうして聖書に残されているように復活を何度も強調し、現実に死に対して希望を持つことができたのでしょうか。この場面において使徒たちの報告を聞いた者たちが大胆になったのは、使徒たちから聞いたことが事実、本当であるとあらためて確信し、心からの喜びに満たされたからです。

 

②彼らが大胆になったもう一つの理由について見て行きます。教会の中で特別の職制についている者だけでなく、すべての救われた者が福音を伝えることや教えることなど神の働きを行うように召され、務めが与えられているという考えです。(後世、16世紀前半、マルチン・ルターが宗教改革の声をあげた主張の一つ、万人祭司論につながるものです。)

この時、一同は29節~30節にあるように、特別の恵みを知った者として、 自分たちにも大胆に語らせてくださり、イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてくださいと心から祈ったのです。使徒たちだけでなく、自分たちも召されて遣わされているという意識です。

 聖書全体を見ると、この召命と遣わされているという意識は非常に重要です。その意識を持っている者たちは神の民として生きたのに対し、この意識を持たない者はやがて主の道から離れています。少し変わった事例ですが、旧約聖書の中にこんな話があります。第二列王記7章、北王国イスラエルの首都であるサマリヤが当時の大国、アラムによって攻撃された時です。食料が非常に乏しくなっていました。中でも苦しい生活を強いられていましたツァラートにおかされていた者たちが3、4節にあるようにアラムの軍のところに思い切って行ったところ、アラム軍が逃げてしまって多くの物、食料があるのを見つけたのです。そんな中で彼らは9、10節(朗読)にあるように話し合い、行動したのです。特殊な事例ですが、私は9節のことばに福音を知った者も注目すべきと思うのです。又、新約聖書の中でヤコブの手紙において、「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4章17節)と言われています。

 私たちは福音放送はあるし、書籍はたくさん売られているし、特に現代はインターネットによってすぐに情報が得られますから自分が伝えなくても誰でも主の福音に接することができると思いがちですが、本当にそうでしょうか。例えば高齢の人や病気療養中の人、ハンディを持っている人、小さなこどもたちはそういうこと、自分から福音に近づくということが可能でしょうか。あるいは元気な成人であり、それらによって自ら福音を知る機会があっても誰か導いてくれる人がいなければ迷わされないで福音の中心を知ることができるでしょうか。不可能なんです。まさにローマ書10章13節~14節(朗読)、また使徒8章31節以下(朗読)に言われている通りです。

 どれだけ世界各地で用いられているすばらしい伝道者がいても人が主の救いを知るうえにおいて身近にいるクリスチャンにまさる存在はないのです。自分ではどれだけ足りない存在と分かっていてもそばにいるクリスチャンが主を信じてから救いを得て、人生が変えられて歩んでいる姿こそ説得力があるのです。

 この時、彼らは使徒たちの報告を聞いて力と勇気が与えられ、もう一度、自分たち救われている者の恵みを深く思い、心から、この福音を証しさせてくださいと願ったのです。そんな姿勢と思いに対して、誕生してからずっと教会に御目を注がれていた主が、ご自身の御心にかなっていることを明らかにする現象として、一同が聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだしたのです。敢えて彼らが聖霊に満たされたと記すことによって、教会の中心であり、原動力である聖霊は主を心から愛する誰にでも注がれること、また人は真理を深く知るならば生き方も大胆に変わるいうことを明らかにしているのです。

 

◆(終わりに) 主に用いられやすい教会

 このところが伝えていることはとても重要だと思います。キリスト者の勇気、大胆さの理由が明らかにされているからです。真理、福音の奥義を個人的に深く知ることと聖霊に満たされる、聖霊の導きだと言うのです。

 

 教会にとって大切なのは、歴史でもなく、規模でもありません。一人ひとりがこの真理によって生かされているか、そして聖霊を身近に感じているかです。春になると牧会の働きについた頃のことを思いだします。神学校の恩師から主に用いられやすい牧師になりなさいと言われました。それから36年経ちましたが、ますますその言葉の重みを感じています。それは教会も同じだと感じています。主の福音の奥義に生きる、また聖霊の喜ばれるような教会、主に用いられやすい教会かどうかです。初代教会の人々は常にそのことを求めていたのです。それゆえに、主も彼らをご自身の器として用いたもうたのです。その姿勢にいつの時代にも変わらない教会の力があるのです。