私たちの代表者、トマス

❖聖書個所 ヨハネの福音書21章24節~29節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 トマスは答えてイエスに言った。「私の主、私の神」

                          ヨハネの福音書20章28節

❖説教の構成

◆(序)主の復活とトマス

①教会カレンダーによりますと、今年は本日が人の罪の身代わりとして十字架の死を受け、墓に葬られた主が、三日目に死より甦られた復活記念日、イースターです。人の根本問題であり、深く支配している罪と死に対する勝利が実現した非常に重要な記念日です。

 確かに一人ひとりの罪を贖うために、残酷な十字架刑という刑罰を受けてくださったことだけでも深い、豊かな愛を感じるのですが、もし死んだままの状態であったなら、主は世にいるすばらしい人の一人であった、また人の心の深くに届くことを語っておられたが、やはり人のことばであったということになるのです。

 

 ですから、十字架の死を受けた主が死より甦られたということは、主は真に神であり、また語られたこと、なされたことは真実であった、罪の支配よりの救いのわざが完成されたことを意味するのです。復活によって主がまことの神であった、十字架は父なる神の御心であったと証明されたわけですから、誰れがどのようなことを言おうと、主の十字架の死は自分の罪のためであったと信じる者は完全に救われ、罪も贖われているのです。そして、神のもとに迎えられ、神の子とされ、また御国の約束が与えられているのです。(ヨハネの福音書14章6節)

②このようにキリスト教信仰において本当に大切な主の復活ですが、主によって直接選ばれた12弟子の一人であるトマスは、他の弟子たちから、私たちは復活の主にお会いしたと言われても決して認めようとせず、頑に否定しました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とは、普通の否定ではありません。そんなことがあるはずがない、決して信じることができないという強い思いの表れです。

 主によって直接選ばれ、約三年半、主の近くにいて語る言葉を聞き、なされたことを見ていながら、しかも仲間たちから復活の主を見たと言われてもなぜ強く否定したのでしょうか。よくトマスは疑い深い人物だったと言われることがありますが、彼について言われている他の個所を見ると、むしろ思ったことをすぐに口に出す直情型だったように思われ、単に疑い深い性質のゆえと片付けることが出来ないと思います。この時、トマスは疑っているというよりも、他の弟子たちが言う復活などないと断定しているのです。そんな彼の強い否定の根底には次の三つの理由があると思います。そして、それらは主の復活を考えるうえにおいてとても大切だと思います。

 

◆(本論)トマスの思いと神の御心

①トマスが主から事前に復活のことを聞いていながら強く否定した第一の理由は、やはり死者の復活ということ自体信じられないという思いです。主から確かに聞いていましたが、その方自身がいなくなったのだから、やはり死んだ者が生き返るなどありえない、この地上におられた間、すばらしい行いをした方でもそんなことは起こるわけがないと考えたのです。第Ⅰコリント15章で言われている復活を否定する人たちと同じです。(12節~13節) そしてその思いは、多くの人が主の復活を聞くときもそうです。一度、死んだ者が生き返ることを中心的事柄として信じているなんてと何て愚かしいという思いです。トマスが自分がいなかった時に復活の主が現れてくださったと親しい、又信頼していた仲間たちから声を大にして言われても強く否定したのは、第一に死んだ者が生き返ることなど、絶対にありえないという思いだったのです。

 第二は、百歩譲って死者の復活が他に万が一あるにしても、自分が見た主の最後は敵の手によって捕えられ、十字架刑という重大な犯罪人を裁く死刑を受けた、惨めな敗北者として処刑された姿であった、そんな人が栄光に満ち、力に溢れた神の御子であり、神であったとは受け入れがたいという思いです。主の最後、むごたらしい十字架刑がトマスの心を重く支配していたのです。

 確かに、トマスも主が進んで死なれることは聞いていました。しかし、敵によって捕えられ、残酷で最も苦痛と辱めと恐怖を与える十字架刑に処せられるとは想像すらしていなかったのです。三年半、主として仰ぎ、愛し、従って来た方が神の御子と信ずるに最もふさわしくない死、最も惨めな死を迎えたのです。寒い、暗い、汚れた家畜小屋の中でお生まれくださったように、最後も人々が顔をそむけ、蔑むような死を受けられたのです。トマスは主が十字架刑につけられた時、こんな死を迎えられるとは、愛し、従った来たが、やはり神ではないと確信したのです。そのため、どれだけ、仲間たちから復活の主とお会いしたと強く言われても頑に拒んだのです。

 第三に、日々を共にし、見聞きした主のご生涯そのもの、人に仕えるしもべとして歩まれていた姿も復活を信じることが出来ない理由であったと思われます。人の一生について、棺の蓋を覆った時、どんな人であったのか分かると言われますが、トマスは主の死を見た時、惨めな死の姿ととも主と、共にいた時の主の姿を深く思ったのです。仕えられる姿ではなく、仕える姿であったことです。栄光、尊厳、力に満ちたお姿ではなく、へりくだり、悩む者、悲しむ者、求める者と共にあり、愛した姿です。すばらしい方であるが自分が考える神とは違うという結論です。

 

②けれども、これらトマスが主の甦りを強く否定した理由そのものが反対に主が真の神であったことの証明だったのです。トマスは人間的常識から、死んだ者が甦ることなどありえない、又あのような最後を迎えた方、また生き方をした方が神であるとは考えられない、それゆえ復活など決して信ずることができないと思ったのです。しかし、それは主から聞いていたこととは違う、全部自分の考えによるものでした。トマスには自分が考える神の姿があったのです。だからいくら説得されても受け入れることが出来なかったのです。

 しかし、神が旧約の時から備えられたのは、使徒パウロが言うように「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことがないもの。」(第一コリント2章9節)でした。トマスが否定し、ありえないと思っていた理由そのものが人の罪の贖いのために特別に用意しておられたことなのです。どういうことかと言うと、確かに、一旦死んだ者が生き返ることはありえないのですが、神が実現してくださったのは単なる生き返りではない、死に完全に勝利をした復活、栄光のからだ、朽ちない、天上のからだ、御霊のからだとしての復活だったのです。又、あの残忍なむごたらしい十字架は、人を深く支配していた罪より救うために、どうしても必要な神の御心であったのです。惨めな敗北ではなく、罪に支配されている人を救うためのこれ以上ない神の愛の表れであったのです。さらにあのしもべの姿こそ、インマヌエルの神、遠くにいる方ではない、どのような人とも共に歩み、弱さのうちに働かれる神を示したのです。

 

◆(終わりに)私の神、私の主

 

 決して信じないと拒んだトマスですが、復活のお姿にお会いしてすべて分かったのです。人間の考えで神を理解しようとしていたこと、神が与えてくださったものは人の想像をはるかに越えたものだと分かったのです。人に対する真実で深い愛を実感したのです。「私の神、私の主」ということばは、彼の心からの信仰告白です。復活の主がトマスに現れてくださったこの場面は本当に大切をことを伝えています。主の復活は父なる神が罪に支配されていた人を救うために用意されておられた慈しみと恵みに満ちたものでした。このイースターの恵みの日、私たちも心から「私の神、私の主」と告白し、そして主の民としての思いを新たにし、主を証ししようではありませんか。