十字架に向かう主

❖聖書個所 ルカの福音書23章33節~34節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 その時、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」      ルカの福音書 23章34節a

 

❖説教の構成

◆(序)十字架とは

 教会の記念日を定めています教会暦によると、今年は本日が受難週の始まり、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入られた棕櫚(しゅろ)の聖日であり、金曜日が十字架におかかりになった受難日です。そして次の日曜日が十字架の死より甦られた復活記念日です。

 

 度々言っていますが、アクセサリーにしている人が珍しくないことから分かるように、現在では十字架は美しいものと考えられています。しかし、ご承知のように、元々は死刑の方法の中でもとりわけ残酷な死刑のかたちでした。十字に組み合わされた木を背として犯罪人の手足に直接、太い釘を打ち込んで磔にし、長時間に渡って苦痛や屈辱を与え、最後には首をあげることができず窒息死させる、重大な犯罪人を死刑にする方法です。現代でも死刑制度を残している国が世界のなかで多くありますが、あまりにも残酷という理由から十字架刑を残している国はありません。決して今日、世界や日本の各地において見られる壮麗な教会堂や大学のキャンパスにおいて高く掲げられているような美しいもの、多くの人がおしゃれとして首からかけているような格好良いものではないのです。誰もが目を背けるほど残忍で恐怖に満ちた死刑のかたちであったのです。しかし、聖書は、主自らがこの十字架刑に進んで行かれ、そしてその刑を受けられたと記します。十字架刑を受けられることは神でありながら人となられた主の深い御心であったのです。本日は、人の罪を贖うために十字架刑をすすんで受けてくださった主の姿について教えられたいと願っています。

◆(本論) 十字架に向う主

①ヨハネは十字架に向かう主の姿について、弟子たちとの夕食の場面から記しています。「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた」(ヨハネ13章1節) とありますように、主は救い主としての目的を成就する時が来たことを受けとめられたのです。

 地上での最後の時を迎えられた中で、「世のいる自分の者たちを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」主は極みまで愛を注がれたのです。

 弟子たちの足を洗うことによって、与える、仕える姿を示されたのです。(13章3節~16節) 迎えた客の足を洗うことは、しもべの役割でした。ところが主である方が最後の時に、腰に手ぬぐいをまとわれ、膝を折り、身をかがめ、弟子たち、この中には主を裏切る決心をしていたユダもいましたが、彼らの足をたらいで洗い、手ぬぐいで拭かれたのです。途中、ペテロが驚き、やめてくださるように言い、諭された時、手も頭も洗ってくださいと願ったという場面もありましたが、主は最後の一人まで弟子たちの埃まみれの足を洗い、拭かれたのです。そして、ご自分がしたことの意味を話されています。(13章12節~15節) 人を救うために、人々に仕えるために、また神にある生き方を示すために世に来られたことを明らかにしています。

 

②その後、主は、裏切り、出て行ったユダを除く残った弟子たちに最後の教えをしています。14章から16章までです。このなかで、主はご自分が去った後のことについて、大切なことをいくつも言われています。

 まず14章、信ずる者のために、死後、天に迎えてともにおらせる場所を備えること、またご自分は人が神のもとに行く唯一の道であり、また父なる神と一体であること、更に主が去った後、もうひとりの助け主である三位一体の第三位格である御霊が与えられることなどです。そして15章、ご自身がいなくなった後でも主の愛の中にとどまり、そして主があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさいと伝え、またあなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが

あなたがたを選んだと言い、さらに16章、再びご自分はいなくなるが、もうひとりの助け主であり、すばらしい働きをする御霊が与えられる約束について詳細に話しています。

 

③これらの長い教えの後、今度は父なる神に祈りをささげています。(17章) 大祭司の祈りと言われているものです。神の御技を行う時が来たこと、信ずる者たちを神の御名の中に保つように、彼らが神の民として守られるように、神にあって一つとなり、この世において主の栄光を現すことが出来るようにと切々と願い、祈っているのです。特に信ずる者たちが一つとなり、世にあって守られるように五回も繰り返しておられます。

 

④その祈りの後、主は弟子たちと共に過越の食事をした家を出て、エルサレム郊外のオリーブ山、ゲッセマネの園に行き、父なる神に「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにして下さい。」と苦しみもだえる、汗が血のしずくのように落ちる祈りをささげておられます。(ルカ22章42節、44節) 

 そこへユダに率いられた兵士と祭司長、バリサイ人から送られた役人たちがともしびと武器とを持って主を捕えるために現れたのです。阻止しようとした弟子たちとの小競り合いがありましたが、主ご自身が剣を納めよ、父なる神はこのような状態からわたしを救いだしてくださるが、そうしたら、こうならなければならないと書いてある聖書がどうして実現するでしょうと言われ、ご自分の身柄を捕らえる者たちに委ねられています。

   その後、状況は急展開しています。捕えた者たちは夜が明けるのを待たず、裁判のために議会の責任者である大祭司の家に連れて行き、夜が明けるとすぐに議会を招集し、取り調べ、裁判をしています。イスラエルにとっては大切な過越の祭りの時であり、その日、金曜日の夕方から特別の大いなる安息日が始まる前に全て終わらせ、汚れないようにしたいという思いの表れでしたが、異例づくめ、異常な状態です。そして、議員であるイスラエルの指導者たち全員は、懸命に「イエスを死刑にするために協議し」(マタイ27章1節)、「私たちには、だれを死刑にすることも許されていません。」(ヨハネ18章31節)とローマ総督ピラトに速やかに引き渡し、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」(ルカ23章2節)と強く訴えているのです。何としてもこの日のうちに主を死刑にしたいという思いの現れです。そして心が定まっていなかったピラトに圧力をかけ、死刑、十字架刑の判決をくだすように追い込み、そして目論見通りにしたのです。

 

◆(終わりに) 十字架に対する主の御思い

 このような一連の場面から見えて来るのは、ご自分の最後の時が来たことを知られたうえでの主の御心、行動です。弟子たちを極みまで愛し、足を洗われ、ご自分が去った後のことまで細やかに示され、そして、自ら捕らえられ、本日の個所にあるようにご自分を十字架刑につけた者たちのために父なる神に祈っていてくださる姿です。

 

 主は、十字架刑を三位一体の神の御心として、避けることができない、必要なこととして受けとめられたのです。すべての人が神によって創造された者でありながら、その神に背いている罪人、生きる目的、意味を失い、罪の実を結び、死に対しても不安や恐れを持っているからです。それらは人が神に背いている、自ら招いたことであり、そのまま捨てられてもやむを得ないのですが、父なる神、御子なるキリスト、聖霊はそうされなかったのです。すべての人をかけがえのない存在とし、至高の愛を与えてくださったのです。始めに話したように、十字架は美しいものではありません。残忍でむごたらしい、特別に苦痛を与える死刑の方法です。しかし、この残忍な死刑を主は罪によって支配され、本来のいのちを失っていた人を救うために進んで受けてくださったのです。それが主の御心でした。本日の聖書箇所をもう一度お読みします。受難日を迎えるこの週、御心をもう一度受け取めて、十字架の恵みを思い、主の御愛に心から感謝しながら過ごしましょう。