揺るがない希望

■聖書:ヘブル人への手紙6:13-20     ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。(19節)

 

1.     はじめに 

 説教題を「揺るがない希望」とさせていただきました。「希望」という言葉をどのように感じられるでしょうか。何か青臭い、口にするのが恥ずかしいような言葉かもしれません。特に大きな震災を経験した国の者として考えるならば、未だ仮設住宅に住み、復興は進まず、傷が癒えない方々が多くいます。私自身震災後に被災地にボランティアに行かせていただきましたが、そこで何ができるか、何が語れるかと途方にくれました。ましてや大切な命を失い、それまで当たり前のようにあったものが流されてしまった方にとって、「希望」を軽々しく口にできない状況があり、今でも望みを持つことができない人々は少なくありません。しかし東日本大震災から5年が経った今日、私たちはもう一度、私たちに与えられているこの希望を覚えたいと思ったのであります。私たちこそ、これを信じ、語らなければならないのです。 先に光が見える、希望があるというのは改めて当たり前のことではないと思わされました。しかしこの希望をもっているということは、震災ですべて失われた中にあっても、敵たちの只中にあっても、一人だけで孤独な戦いを強いられている中にあっても、大きな現在の力になる。それをみことばに聞いて参りましょう。

 

 本日の箇所に入る前に、ヘブル人への手紙の著者は本日の箇所の前にどのようなことを語ってきたのでしょうか。時は1世紀、キリスト教への迫害が増してきている時期です。国に目をつけられ、ユダヤ教からは敵対視され、当然息苦しい毎日がありました。また本当にこのまま信じていていいのかと不安になったこともあったかもしれません。クリスチャンとして生きていく未来が見えなくなっていた。本当にここでいいのか自信がなくなってきた。そのような波風に揺れ動かされている若いキリスト教会の姿があったのです。

2. 希望を確信する背景

 本日の中心箇所は19節ですが、6章全体を読んでいきますときに、大きな転換が9節においてなされている事が分かります。大きなテーマは1節、ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか。すなわち、信仰が与えられた後、そこで終りなのではなくそこから始まる新しい生活について言われ、それは成熟を目指す新しい旅であることが教えられています。しかし、その成熟を目指す旅の中で、道をそれて迷子になってしてしまう人がいる。4-6節、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしい御言葉と、後にやがて来る世に力とを味わった上で、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。8節では、さらに「のろい」という言葉を出してまでして、一度神を知りながら、神から離れる者の悲惨さを表わしています。そのような信仰者の弱さを確認した上で、9節、厳しい口調は一変、呼びかけが始まります。愛する人たち。パウロの書簡では良く用いられているこの表現を、ヘブル書の著者はここで初めて使用します。これがこの書唯一の親しみのこもった呼びかけである、ということを踏まえるならば、とても愛のこもった、温かく、力強い呼びかけであると言えるでしょう。愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。成熟を目指す中、確かに道を離れてしまうことがあるかも知れない。つまずき、倒れ、もうだめだとおもうことがあるかもしれない。先が見えなくなるかもしれない。どうしようもなく不安になるかもしれない。けれども、あなたがたに用意されているのは「のろい」ではなく、「救い」である。それを得ることを神様は望んでおられるし、この救いに必ずつながるということを著者は確信しているというのです。

 

その根拠はどこにあるのでしょうか。10節、ただ神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。注目したいのは、愛する兄弟たちには「救い」が用意されていると確信することの根拠を、著者は神の正しさに見いだしている、という点です。ヘブル人たちはこれまで聖徒たちに仕え、今も仕えて神の御名のために愛を示しました。すなわち愛の奉仕の業です。これらは本当に大きなものであり、多くの人の助け、なぐさめ、励ましとなったことでしょう。けれども、こと「救い」に関しては、それらの良い行いではなく、それらを知っていてくださる神様が正しい方であるということ、これこそが絶対的なポイントなのです。人のわざによって人は救われるのではない。ただ神による。しかもその神は、きまぐれや不正の神ではなく、正しく、神の御名のために働く者に目を注ぎ、覚えてくださる方であるのです。ここに、著者はヘブルの人々の救いを確信するのでした。さらに続けます。11,12節そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。 神の正しさ、言い換えるならば「神の義」のゆえに救いを確信する著者は、手紙の受け取り手にも同じ確信を要求しているのでした。著者自身がその希望に生かされ、力を与えられ、喜びをもって立ちあがっているのです。だからこそ、愛するヘブルの人たちにも約束のものを相続する私たちと同じになってもらいたい。途中で脱落したままであって欲しくない。なんとかしてつなぎ止めようとするのです。この喜びを、やがての日に主と囲む食卓の味を、共に味わっていただきたい。こう願う。価値観の押しつけなどはなく、これは紛れもない著者の愛のあらわれなのです。しかも、受取人がそれらの希望を確信することが難しい状況にあるからこそ、書き送る必要があったのです。

 いやこれは、今日私たちに委ねられている伝道の働きも同様であると言って過言ではないでしょう。この方を知らず、その救いを知らなければ知らないなりに、楽な生き方、その人にとって自由と思える人生を送ることが出来るかもしれません。しかし、それがみせかけのものであること、一時の喜びであることを知っている私たちは、いや、震災を始め様々な経験から教えられた私たちは、たとえ嫌がられようと、たとえ拒絶されようと、語り続けるのではないでしょうか。波が来て一瞬で奪い去られてしまうような希望ではなく、いつまでも残り続ける希望です。闇が深くなる中でこそ輝きを増す、命の光です。だからこそ、これが真実であると知っているからこそ、ここに本当の喜びがあると確信しているからこそ、語らずにはいられないのです。

 

それでは、著者が確信をもち続けるようにと切望する「私たちの希望」とは何か。それについての確信をもつということと合わせて見てみましょう。

 

 1317節では、著者自身が希望を確信する根拠をさらに詳しく述べています。先ほどは、神が正しい方である、真実な方であるということを根拠に、良いこと、救いにつながることがあなたがたに用意されていると確信していましたが、ここでもやはり彼の確信の根拠は神にあることが分かるのであります。13-17神はアブラハムに約束されるとき、御自分よりすぐれた者をさして誓うことがありえないため、御自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、御計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。神は正しい方であり、その方が、誓われている、約束されているということが著者の確信を生んでいるのです。

 

 アブラハムという人物を考えるならば、まさに、忍耐の末に、約束の実現を見た人であると言えるでしょう。高齢でありながらも、神様に行けと言われて彼の旅は始まりました。創世記の12:1-3主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」この神様からの言葉を聞いて、彼は、行く先もわからぬままに旅を始めました。世の常識で考えるならば、なんと馬鹿げたことをと思ってしまいます。この時75歳、これまで大切にしてきた財産や人間関係を投げ打って見知らぬ地へ行く。聖書はこの時のアブラハムの決断を細かくは教えてくれません。ただ4節には「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあるだけです。これ以前に親しい関係や何か特別な経験をしたわけでもありません。ある日、主の言葉を聞き、それが主の言葉であると知ったゆえに、彼は信頼して旅を始めたのでした。もちろん彼も人間ですので、何度もこの約束を疑うことになります。大いなる国民にすると言われたけど、すでに75歳、もちろん妻も年老いている。まだ子はいない。しかし疑うたびに神様はこの約束を思い出させてくださるのでした。そして忍耐に忍耐を重ねた末に、彼はひとり子イサクを授かるのです。これまで耳に聞き、思い描くだけだった約束の実現をその目で見た。彼らの喜びは爆発し、神様を賛美し続けたことでしょう。しかしその与えられたイサクでしたが、神様は、その子を全焼のいけにえとして捧げるようにと命じます。子が与えられたのは100歳でした。75歳で、神の言葉に従って故郷を出て始めた旅の25年。まさに忍耐に忍耐を重ねてようやく与えられた子供、実現された約束です。けれども、それを再び奪い取ろうとされる神様。旅を始めたときもそう出会ったように、愛する子イサクを捧げる時にもアブラハムの心情は描かれていません。229節ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはそのところに祭壇を築いた。そうしてたたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀をとって自分の子をほふろうとした。主よどうしてですかと叫びたくなるような中、御心がわからない状況です。でも神に従うことを彼は第一にしたのです。その第一にすべきことを第一にしているアブラハムの姿を見た神様は、み使いを通して語られます。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」そして、再び約束されるのでした。「わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」これまで何度もくじけそうになるアブラハムを支えてきた約束です。しかしこれまでと違うのは、「わたしは自分にかけて誓う」と言われていることです。100歳という老齢のアブラハム夫妻に子を与えられたお方、命を与えられるお方の言葉は、それだけで真実であります。けれども、さらに誓いをもってそれが確実になされると約束してくださった。ヘブル書の言葉を借りるなら保証してくださったのです。だから私たちはこの約束が何千年の時を超えて、必ず実現すると確信を持ち、そこに希望を見ることができるのです。イサクが与えられて終わりではありません。そこからさらに祝福は広げられていくのでした。アブラハムと結ばれた約束は、彼の信仰の子孫である私たちにまで届いている。あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。イエス様が教会について押している箇所をおもいだします。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」私たちの最大の敵である死でさえも打ち破る力、滅びからの救いが与えられるのです。これこそが、私たちに与えられた希望なのであります。

 

3. 私たちのために与えられた希望の確証、保証

 神はその約束の成就が確実であることを保証してくださいました。希望が与えられたのです。しかしふと考えてみますと、神様の言葉は必ず成る。これが事実なのだから、それをあえて人に教える必要はないのではないかと思います。確信を与える理由なんてない。わざわざ人の例にならって誓われたということの意味はどこにあるのでしょうか。神はどうしてそこまでして確信をもたせようとされるのか。ヘブル書に戻り、6章の18節、それは、変える事の出来ない二つの事柄によって、―神は、これらの事柄のゆえに、偽ることができません―前に置かれている望みを捕らえるためにのがれてきた私たちが、力強い励ましを受けるためです。変える事の出来ない二つの事柄とは、神様の約束と誓いです。確かな約束を人に与え、さらに誓いをもって保証してくださる神様。この約束と誓いの変えることの出来ない二つの事柄は、私たちが希望をもちつづけることへの力強い励ましを受けるためになされたのでした。なぜ保証を与え、この約束が確実に成就ことを示されたのか。それは、私たちが約束を目指し、地上での歩みを力強く進めていくためなのです。はい強者についての教えが先ほどありましたけれども、私たちにはこの約束を信じられなくさせる、希望を見えなくさせる、救いを遠ざける誘惑がたくさんあります。けれども、これが確かなものであることを伝え、希望を失うことなく、歩み続けよと言われる。

 

 何かを信じる、しかも確信をもってそれを求め続けると言う事は時に周りからの圧力をうけることになります。いや外からだけでなく、自分の内の疑いの声もどんどん大きくなっていくでしょう。一つの事に生きるとき、そこには困難があり忍耐が求められるのです。あるいは目に見えるところがどんどん奪われて行き、自分の進みたいと願っている先が次々に塞がれて行く時、私たちはどうしていいかわからずに立ち尽くしてしまいます。先が見えなくなる。著者はそのような困難、信仰の試みの只中にある「愛する人々」へ、何かの新しい処世術を教えるのではありません。キリスト者の原点である「救い」と、これから先に保証されている「希望」を語るのでした。そして、それらを与えてくださる永久に変わらない御方に目を向けさせることで、現在の苦難を「確信」をもって生きるようにと、励ましているのです。いや、ここで力強い励ましと言われていますが、この励ましと訳されている言葉は「慰め、助け」を意味するパラクレートスです。イエス様が最後の晩餐で語られた言葉、私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。この助け主は、誰よりもそばにいて私たちを決して一人にはさせないお方です。孤独にはさせない。神様の固い約束はそのように私たちを慰め、励まし、今を生きる力を与えるのでした。交読文で詠み交わしました詩篇23編を思い浮かべます。そのような安心が、ここにはある。そのために、神様は保証を与えてくださったのです。

 

19節 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。錨というのは迫害下にある教会のシンボルマークとされていたようです。これまで見てきたように、約束と誓いに基づく「望み」は、むなしいものではなく、《安全で確かな錨》のようなものであり、決して揺るがされることのないものである。錨というものはみなさんご存じだと思いますが、嵐の中でも船を固定させるものであり、これがなければ船は波にもまれ、それが何処だかもわからないところまで流され、やがて船は壊れてしまいます。しかし錨がある船は確かに波風に弄ばれることはあったとしても、決して離れることなく、ふらふらと漂流することなく、ナンパすることなく、留まり続けることができるのです。宗教改革者のカルヴァンはこのように言っています。全くこの世を旅していくとき私たちは固い大地の上にいるのではなく、海の真中で、それも波高く荒れ狂う海の真中で揺れ動いているのである。悪魔は絶え間なく無数の雷雨や嵐を起こし、それによって私たちの船は、もし錨をずっと深く、そこにつながなければ、いきなりひっくり返り、沈没させられてしまう。…私たちの希望を、目に見えぬ方である神につながなければならない。

 

神の確かさがあるからこそ、私たちはそこに望みを置くことができる。その望みは、私たちをどんな暴風雨の中にあっても、しっかりと信仰へとどめていてくださるのであります。目の前にどんな困難があり、超え行くことができないような状況にあっても神様は変わらず、約束を成就してくださる。私たちはこの豊かに示された確信に錨をおろすのです。だから絶望はありません。目前に広がる海原がどんなに途方もなく、荒れ狂っていたとしても、錨をおろし、神様への望みをいつでももっていられるのです。

 

 さらに、この望みは幕の内側に入るのです。幕屋の区切りは、神と罪ある人とを分ける絶対的な隔てでした。限られた大祭司しか、しかも一年に一度しか入る事の出来ない神聖な場所。しかし望みは荒れ狂うあらしの中でも私たちに確信を与え、さらにその幕の内側に入ることを、神とのいよいよ親しい交わりをゆるすのでした。それは20節、イエスはわたしたちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。ということのゆえです。さきがけとして、私たちの前を行き進んでくださったイエスキリストがおられ、私たちは、私たち自身は弱くあったとしても、そのお方を信じる信仰によって、キリストとひとつにされ、キリストが私のうちに生きてくださることによって、大胆に神のもとへと近づき、身を委ねることが出来るのです。先駆けというからには次に続くものがあるからこそ、先駆けと言われるのです。私たちはこの神のみ元へ、イエス様によって開かれた道を進むことが求められています。希望の錨を下ろし、見えるものにではなく見えないものにこそ目を止めつつ、新しい歩みを始めて参りましょう。同時に、多くのものを奪い去られ、夢や希望をもつことが困難な方々が多くいることを覚えます。この方々が神様を知り、大きな励まし、慰めを与えられ、たとえ波風が荒れ狂おうと変わることなくあり続け、私たちの歩みを確かなものにしてくださる希望が与えられるよう、祈り続け、伝え続けて参りましょう。