恐れて、恐れなかった人々

❖聖書個所 使徒の働き4章1節~22節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」      使徒の働き4章19節、20節

 

◆(序)この個所について

 

 使徒の働きを続けて見て参ります。生まれつき足萎えだった人が主を信じる信仰によって体も心もが全く変えられたことに端を発して教会に加えられる者たちが多くなり、支配層が慌て出した場面です。使徒たちを尋問し、福音宣教を禁止しようとしましたが、聖霊が与えられていた使徒たちが怯まず、あなたがたが十字架につけ、死より甦られたイエスこそが真の救い主である、また私たちは自分が見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきませんと堂々と主張しているところです。

◆(本論)支配層と使徒たち

①支配層はなぜ、困り果て、迫害するのか。

 これは歴史上、どの地域、どの時代においても繰り返されていることです。この個所においてもまず現場、具体的には神殿で、祭司たち(律法に従って奉仕する者)、宮の守衛長(神殿で混乱や騒動がないよう警護する者たちの長官)、サドカイ人(サドカイ派、霊の存在や死後のいのち、復活などを認めないイスラエルの貴族階級、祭司の家柄の者たち、ローマと共存をはかった。議会の主流派) たちが騒ぎ出し、民の指導者、長老、学者たちや大祭司、その一族たちからなる議会(71人の議員からなるサンヘドリン議会、当時ローマ帝国の属領とされていたイスラエルの最高の自治機関、裁判所、大祭司が主宰) が使徒たちをとらえ、尋問、命令をしているのです。支配体制の中枢にいる人々です。おそらく、当然すぎて自分たちが現在の社会を支配しているという意識すらもっていなかったと思われます。しかし、使徒たち、教会の活動が大きくなれば、自分たちの考えが正しいとされているこの社会の中にやがて混乱が起き、秩序が乱れ、そしてローマ帝国の介入をもたらすのではないかと恐れたのです。

 

②このようなことがどの国々、時代においても繰り返されています。日本においても、16世紀にキリスト教が伝えられた時、しばらくは認められましたが、やがて秀吉、家康の時代に激しい弾圧が加えられ、多くのいのちが奪われています。また約150年以前、江戸時代の終わりにプロテスタントも伝えられ、現代に至っていますが、自由な信仰、宣教が認められたのは1931年から45年までの15年戦争が終わった後、今日に至るまでの僅か約70年にすぎないのです。それまでは常に警戒され、時には直接弾圧され、そうでない時でも厳しく監視されたのです。確かに今は公の権力による迫害はなくなりましたが、人々の意識の中にまだその傾向は残っています。なぜ支配層は、神の愛、救いを伝えているキリスト教を警戒するのでしょうか。大抵の場合、キリスト教は平和な宗教だと分かっているのです。武力によって社会の転覆をはかる宗教ではないことを認識しているのです。しかし警戒するのです。聖書の福音が広がって行き、真の主権者である創造主、救い主が崇められ、現実の支配者の権威や権力が相対化、損なわれるように感じるからです。また神のことばによって人や社会の罪の実態が明らかにされ、指摘され、文化や伝統、中でも支配層が持つ支配の正当性、治める力が弱められるように思うからです。

 この講壇から再三話しているようにキリスト者は、ローマ13章1節~7節でパウロが言うように、立てられた本来の目的に逸脱しない限り、その時の支配者に従うべきとされ、実際その通りにするのです。けれどもこのように教会、キリスト者の側が表明してもそれらが理解されない場合にはどの国々、どの時代においても支配する側は教会、キリスト者を警戒するのです。

 

③このところでも警戒する自治の最高機関である議会の尋問、追求に対して、使徒たちは議員たちと対照的に、辺境の地の出身者であり、教育を少しも受けていない無学な普通の者で立場も

何もない、十字架の時にはユダヤ人を恐れて隠れているような者でしたが、復活の主と会い、聖霊に満たされていた今は、人には罪よりの救いが大事と分かりましたから、権力を持っている者たちを相手にしても堂々と主張しています。8節~12節(朗読) さらにその主張に対して厳しく戒められたことにもはっきり反論しています。(19節~20節 朗読)。

 使徒たちの主張を要約するなら、はじめの8節~12節のところは、癒された男について、この人が直ったのは、人に対して示された無限の愛である十字架の死を受け、甦られた主の御力によるということです。人はその方を殺害し、捨てましたが、その方こそ父なる神が与えられた救い主であり、この方以外には誰によっても決して救われない、この方こそ生きるうえにおいて最も問題である罪、本当の生きる目的や喜びを見失い、反対に不安や恐れによって支配されている状態、また裁かれなければならない具体的な罪を贖う方である、砕かれてこの方を受け入れるときに人は新しく生まれ変わると言うのです。

 そんな使徒たちの主張に対して議員たちはペテロとヨハネの背景を知り、驚きましたが、実際癒された男が二人と一緒にいるのを見て何も反論できなかったのです。しかし、このままでは混乱が広がっていくことを恐れ、いっさいイエスの名によって語ったり、教えたりしてはいけないと厳しく戒めたのです。(13節~18節)

   けれども主イエス、主の十字架の死と甦りを知り、聖霊が与えられていた使徒たちはもはや以前の彼らではありませんでした。(19節~20節)私たちは何よりも神を恐れ、神に聞き従います、私たちは自分の見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきませんとその命令を拒絶したのです。聖霊の励ましを受け、心から主を崇めていたのです。

 

◆(終わりに)なぜそうしたのか

 1933年に成立したヒットラー率いるドイツ第三帝国、ナチスは自分たちの価値観~ドイツ民族、歴史、文化の偉大性を誇り、世界各地に散在するユダヤ人を憎み、排除する考え~を強く持ち、それに同意しない教会に対して、当初宥和政策をとるように見せかけながら最後には押しつぶすことを目指し、やがてそういう政策をとるようになりました。ドイツの誇り、偉大性を現実化しようとする一人の指導者に従い、あらゆる分野を同じ価値観によって支配しようとする意図(指導者原理、均質化政策)に賛成しなかったからです。そんな国家に対して教会(牧師緊急同盟、告白教会) の立場からさまざまな危惧が示され、意思表明がなされました。中でも最も知られているのがヒットラー政権成立一年後、1934年に出された六カ条からなるバルメン宣言、正式名「ドイツ福音主義教会に関する神学宣言」です。

 

 中でも教会について言われている第三条を紹介したいと思います。次のように言います。「……教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現れたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。…」この世の神を認めない者がまず自分たちに従えと言っても主イエスこそ私の主、救い主であることを告白をしている一人ひとりの集まりである教会に属する私たちはただ主に従い、主を待ち望むというのです。けれどもキリスト者、教会は現実社会、国家と関係なく生きると言うのではありません。現実の国家は第五条に取り上げるように非常に大切です。では何を言っているのか。教会、国家それぞれ神から期待されている目的があるのです。それを超えると問題が出てくるのです。使徒たちは支配層が人の本質に関わることまでも押さえ込もうとしたことに対し、私たちは見たこと聞いたことを話さないわけにはいきませんと言うのです。そうすることが真の救いを知っている者の使命です。そのような態度をとることは教会の一人よがりでありません。実は社会の祝福のためでもあるのです。