良き出会い

聖書個所 ヨハネの福音書4章1節~26節    ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

                                ヨハネの福音書4章26節

◆(序)この個所を取りあげる理由

①みことばが示すメシア

 

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。』と私が言ったのは、この方のことです。」私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みのうえにさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章14節~18節)

 

②本日、伝道礼拝において、良く知られているサマリヤの婦人の記事を取りあげるのは、上記個所ではっきりと表現されているメシア、油そそがれた者、救い主の姿が具体的に示されているからです。この場面の終わりに次のような会話がなされています。

 「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」(25節、26節) 

 

 このところから、救い主「人となって、私たちの間に住まわれたことばなる方」「父のみもとから来られたひとり子としての栄光を持つ方」、又「満ち満ちた豊かさの中から恵みのうえにさらに恵みを与えた方」、「恵みとまことを実現された方」は、どのような方であったのか、ひとりの婦人との出会いから教えられたいと願っているのです。

 

◆(本論) メシアの姿

①まず注目すべきは、主が「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とご自分がメシヤであることを告げたのは、宮殿や広大な屋敷に住む貴人たちや律法を学んでいる学者たちや神殿において奉仕している祭司たちではなく、人間的には何も力を持たない、希望を持たない、むしろ神の義を諦めていた人であったことです。これは、上記のような(ヨハネ1章14節~18節) メシア像を知るうえにおいてとても大切です。メシアが会われるのは、この世の力を持ち、自分を誇る人々ではなかったのです。失われた人、罪に苦しむ人でした。(ルカ15章、19章)

 

②続いてこの婦人に、イエス様は何を伝えたのでしょうか。メシア、救い主にとって、ユダヤ人もサマリヤ人もないということです。サマリヤ人は元々、北王国の民であり、ユダヤ人と同一民族でしたが、北王国を滅亡させ、征服したアッシリヤにより、その地に住む者たちは、それから約7百年間、アッシリヤ人との混血民族になっていたのです。そんなサマリヤ人を、元々は同じ民族であったユダヤ人は軽蔑し、サマリヤ人の側でもユダヤ人に強く反発していたのです。イエス様は、人としてはユダヤ人の中にお生まれになりましたから、「わたしに水を飲ませてください。」と言った時に、サマリヤの婦人から9節にあるようなことが言われたのは、このような歴史的に長い、深い対立があったからでした。

 しかし、人を罪と死の支配より救うメシアとして来られた「人となって私たちの間に住まわれた、ことばなる方~すべてを造られ、すべてを権威を持って治める方」「父のみもとから来られたひとり子としての栄光を持つ方~神の栄光に満ちた方」「満ち満ちた豊かさの中から恵みのうえに恵みを与えた方~あわれみと恵みに満ちた方」「恵みとまことを実現された方~さらに真実に満ちた方」である主にとって、民族、国籍、歴史的背景はいっさい関係がありません。メシアは人間にとって高く厚い壁、人が決して乗り越えることができないと思いこんでいる壁を打ち壊す方です。エペソ2章14節~15節、ここはユダヤ人と異邦人の間でしたが、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」とある通りです。

 

③続いてこの場面において、メシアであるイエス様が伝えているのは、サマリヤ人の中でもその生き方、過去のゆえに特別な人と思われていた婦人も又、神の愛する存在であるということです。この婦人は、人目を避けて、一人だけ、わざわざ時間をずらして水を汲みに来た人です。その理由は、4章18節だと思われます。これまで、夫が次々と5人変わった、そして今も尚、決められた手続きを経ないで一人の男性と生活を共にしている女性です。どんな人なのか、詳細は分かりませんが、はっきりしていることがあります。心に非常な渇きがある、人を求めずにはおられないが、一方、人を心から受け入れることができない女性です。それゆえ、自分の過去や現在について、又、将来、神の前に立つ時について、不安を持っていた人であり、又人々からも遠ざかって生きる孤独な人でもあります。

 そんな人に、いやその人に会うために、メシアである主はサマリヤに来られたのです。4節の「サマリヤを通って行かなければならなかった。」という意味は、交通の道のことではなく、イエス様にとって、サマリヤに行かなければならなかったという意味です。 そして、この女性の渇きがいやされること、その人のうちに泉が生まれ、永遠のいのちがわきでるようになること、又霊とまことによる真の礼拝者となること、又罪の赦しが与えられることを伝えなければならなかったのです。これがメシアの実際のお姿です。他の人々から勿論、自分自身でもどうしようもない罪人として諦めていた人に、渇き、不安に代わる霊的平安の満たし、真の礼拝者として生きる道を与えたのです。神にとってこの婦人もかけがえのない存在であることを示されたのです。ここで示されているメシアの姿は、自分の姿に悩む私たちにとってすばらしい喜びです。私たちの遠くにいる方ではない、全てを承知のうえで愛してくださっていることを知ることができるからです。

 

◆(訴え)最もすばらしい出会い

 本物の出会いは人生を変えます。心の一番深いところが満たされるからです。喜び、力が与えられるからです。この婦人は主と本当に出会ったのです。絶望と渇いていた心に主イエスが来られ、罪の赦しの喜びと生きて行く力をもたらしたのです。メシアである主は一人ひとりに出会うために、この地上に来られました。滅びからいのちに、暗闇から光に、諦めから希望に、恐れから平安に変えられるために、神のひとり子がこの地上にお生まれ下さったのです。

 

 私も主を知る以前、救いなどないと思っていました。しかし、人の愛とは違う神の愛を知ったとき、必死に自分を守ろうとしていた肩の力が抜け、自分の姿をそのまま見、自分が罪の中にいることを認めることができました。そして、主が神でありながら、人としてお生まれになったのは、私を滅び、暗闇、諦め、不安、恐れから救い、新しく神にあって生きるためと受けとめることが出来ました。主との出会いは私の「心の奥底」を変えたのです。それまでいつもあった鉛のようなものが消えたのです。同じように主は今も一人でも多くの人がこのサマリヤの婦人のように主と出会い、新しい人生を送ることを望んでおられます。そして、主とともに歩むことを望んでおられるのです。まさに福音は使徒パウロが「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものはみなそうである。」(第一コリント2章9節)と言っている通りです。今も神は一人ひとりにこの福音を知って新しい人生を送って欲しいと願っているのです。主の招きの声を聞き、立ち返って下さい。