主の御名は人を強くする

❖聖書個所 使徒の働き3章9節~26節        ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 …このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。 使徒の働き3章16節a

 

◆(序)この個所について

  40才あまりの生まれつき足萎えの男のすべてが新しくされたことを見て、驚いた人々が使徒たちがいる場所に集まってきた時に行ったペテロの説教です。2章もそうですが、このように教会の中心的存在であった人物の説教全体が残されているのは大変に貴重です。当時の教会が大切にしていたことを知ることができるからです。

 内容は二点からなっています。一つはエルサレムの人々に対して、あなたがたは神が送られたイエス、いのちの君を殺した、しかし、神はこの方を死より甦らせ、罪の贖いを成し遂げ、生きることにも死ぬことにも希望を与えた、あなたがたが驚いているこの人もイエスによって与えられる信仰によって霊肉、体も霊も本当に変った、力強くなり、完全なからだになったというのです

 もう一つはあなたがたが主イエスを十字架につけたのは無知のゆえであったが、一方、神の壮大な計画であった、(それにより、人の一番の問題である罪の贖いが成し遂げられた) それゆえ罪を拭い去っていただくために悔い改めなさい、メシヤとして定められ、アブラハムに与えられた契約の完成者であり、人を邪悪な生活から立ち直らせる主イエスを再び遣わしていただくためであるということです。神の救いのご計画全体を踏まえながら、あなたがたが知っているイエスは私たちの時代だけに神のわざを行われた方ではなく、旧約時代からメシヤとされていた方であり、また神がすべてを完成させる終末、終わりの時代においても御わざを行われる、神の救いの御技全体の中心である、罪を認めて悔い改めて新しい人生を送りなさいと言うのです。

 

 この説教の中心にあるのは、イエスはこのような方であるからこの方の御名、(存在と御わざ、十字架の死を受け、甦られた主ご自身)が一人ひとりを本当に変えることができる方であると知って悔い改める、生きる方向を変えなさいということです。

◆(本論)イエスの御名は人を立ち直らせる

①まず第一の、神が送られ、救い主として栄光を与えられた主の御名は人を変えるということですが、ペテロはここにおいて、人が変わるなど考えられないと思っていた人々に対して人から出た

どんな教えも行動も人の根本を変えることができないが、神でありながら人の根底にある罪を贖うために、世に来られ、最後には十字架の死を受けてくださったイエス(ピリピ2章6節~8節)の御名を受け入れる時、人は変わることができると言います。ここでは40才あまりの人の霊肉、からだと生きる力が全く変えられ、新しくなることでした。(付け加えますとこういった奇跡は神にとって特別な理由がある場合のみです、多くの場合、そのようなことはないのですが、主の御名を信ずることによって確かに人は新しく変えられるのです。第二コリント5章17節、ガラテヤ2章20節) 

 時折り、星野富弘さんのことをこの講壇から話していますが、口で筆をくわえて花、果物、草木を写実的ではありませんが描き、見る者にその対象物を身近かに感じさせ、又そこに寄せられた飾らないことばによって、暖かい思いに包み、多くの人々に生きる力と勇気を与えている方です。沢山の作品集が出版され、群馬県や熊本県に星野富弘美術館が創設されています。神学校時代、星野さんと同じ教会に属している人からこれは友達が何日もかけて書いたものだと、口で筆をくわえて書き出した頃の大きな乱れた字の葉書を見せてもらったことがありますが、後年次々と出版された作品集を見て、あまりのすばらしさにそのことを思い出し、大変に驚きました。

 多くの方々は知っておられますが、星野さんは大学を卒業し、好きな体育の先生として働きだして間もなく生徒たちに教えるために模範演技をした時に、首をうち、骨折をして首から下が全く動かなくなったのです。24才でした。希望に満ちた日々からことばにならない苦悩の日々に

なったのです。看病のために付き添っていたお母さんに随分ひどいことばを言ったそうです。そんな星野さんをクリスチャンだった先輩が訪ね、「ぼくにできることはこれしかありません」といって、聖書を届けてくれたのです。しばらくはそのままにしていたのですが、思い切ってお母さんに開いてもらうと有名なマタイ11章28節のことばに出会いました。このことばは実は星野さんの高校時代、家の裏手に十字架の墓が建ち、そこに書かれていたものであり、心に深く残っていたことばでした。星野さんは聖書を読んだ時、ここでいうわたしとはキリストのことであると分かったのです。

 それから病院で三浦綾子さんの本を何冊も読み、特に本当にあったことを題材とする「塩狩峠」を読み、自分が考えていた宗教とは全然違うということに気づいたのです。「先行きが見えない日々に心が疲れきっていた、最新の医療でも治せない自分の身体、助けてくれる人なんているわけがないと思っていたが、聖書を読み返しているうちに、重い心の中に、温かい何かが湧いてくるような気がしました。それまで生きてきて、初めて味わう感覚でした。」そして神が教会がない村で既にこのことばに出会わせてくれていたことに深い感動を覚えたというのです。その時のことについて星野さんはこう言います。「毎日見ていた 空が変った 涙を流し友が祈ってくれた あの

頃 恐る恐る開いた マタイの福音書 あの時から 空が変った 空が私を 見つめるようになった」そしてこれは後になってですが、サフランの絵に寄せて「冬があり夏があり 昼と夜があり 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私が私になっていく」とことばを添えています。長い紹介でしたが、主イエスの御名は人を変えることができるということをお話したかったのです。そして今も多くの人々がそれぞれの人生の中で主イエスを知って人生が変えられているのです。

②続いてペテロは、このイエスは救いのご計画の中心である方と言っています。旧約時代、モーセやサムエルなどによって預言されていた方であり、また神がすべてを裁く終わりの時代、再び来られる方であり、人を邪悪の生活から立ち直らせる方であるから、早くその方を信じて悔い改めよと言います。上で見たようにイエスの御名は人を強くするということだけでも十分と思われるのですが、終末、主の再臨について触れ(20節、21節)却って分かりにくい印象を与えていますが、なぜこんなことを言うのでしょうか。ペテロは十字架におかかりになった主イエスは聖書全体が伝えていることの中心である、あなたがたを知ったイエスこそ、旧約聖書の中ではっきり示されている、人が生きるうえにおいての真の問題である罪を「完全に永遠に」贖う方であり、また終末、神がすべてを新しくされる時に神とともにすべてを裁かれるである。この方を信じて、邪悪な生活、ローマ1章18節~32節に指摘されているような生活を悔い改め、この方の御名を信ぜよというのです。自分たちは神のことを分かっていると自負している人々にこのイエスこそ、神の御技の中心であることを強く言うのです。 

 

◆(終わりに)使徒たちはただ忠実に御心を語った

 

 ここでのペテロの説教は生まれたばかりの教会を知るうえにおいて非常に重要です。よくキリスト教は使徒たちが作り出したものと言われることがあります。キリスト自身は特別な存在でなかった、弟子たちが様々に脚色したというのです。聖書が伝えていることを人間の理性と経験に合わせて理解しようとしているのです。しかし、言うまでもなく、事実はそうではありません。使徒たちは主イエスに関することを忠実にそして聖書全体から伝えているのです。自分たちが経験したこと、また聖霊の導きによって示されて神の御心を伝えているのです。だからこそ、彼らの言葉に力があったのです。邪悪な生活とは特別に罪深い生活のことではありません。一人ひとりにいのちを与え、生かし、愛しておられる創造主を認めないで平安も喜びも持たない生き方のことです。救い主、主イエスの御名を信じることにこそ、消えない喜びに満ちた新しい人生があるのです。