私の神さま

■聖書:出エジプト記20:2,3       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出20:2-3

 

1. はじめに     

 211日は「建国記念の日」、キリスト教会では「信教の自由を守る日」でありました。信教の自由を守る、すなわち、私たちが何を信じても良い権利、何を信じているかを公に、堂々と宣言できる自由がある。この憲法によって定められる「信教の自由」という権利の尊さを覚え、いま、再びそれが脅かされていることに警鐘を鳴らす日でありました。かつて戦時中の日本ではこの権利は皆無であり、いや、教会が自らそれを手放していったということがあったのです。ところで、この「信教の自由を守る」と言われていますが、なによりもまず、私たちが何を信じているのかを明確にしなければ、その自由が問題になることはありませんし、ましてやそれを守る必要はありません。何を信じているかがあるからこそ、それを保証する自由の尊さに気づくのであります。本気で信じ、そこにすべてをかけている人でなければ、この自由の重みがわかりませんし、それを守る戦いに立つなんてあり得ないのです。と同時に、私たちが何を信じているのかを改めて考えるならば、自然と戦わざるを得ない状況が見えてくるのです。これは、国家や政治などといったものに限らず、私たちを神様から引き離そうとするあらゆるものとの戦いであります。それはこの世の価値観だったり、この社会の常識だったり、あるいは自分自身の罪から出てくるものかもしれません。いずれにしても、私たちの信仰を脅かそうとするものがたくさんあり、それに立ち向かっていかなければならない。私たちが信じているものがなんなのかを真剣に考えるならば、立ち上がらざるを得ないというわけです。そのように考えるならば、一部の知識人、牧師、思いのある人だけが関わればいいというものではなく、すべてのクリスチャンが、信仰の歩みを進める者が、必ず直面する問題なのです。

 そんな中、本日は「私の神さま」という説教題を付けさせていただきました。本日の箇所で「わたしは…あなたの神、主である」と神様がご自身を指して言われているのに対して、「私の神さま」と隠すことなく、恥じることなく答えるものでありたいと願って、あえて強調して付けた題であります。神様と私の関係を隠すことなく堂々と宣言、告白していくということです。特にこの時代、大きな一つの流れで歴史を作っていこうとする時代の中で、私たちはどなたに属しているのか、そしてそれを隠すことなく表していく、証していくということについてともに教えられたいと願っています。先日の2.11集会では「唯一のまことの神を信じる」という講師の西川先生の信仰の姿と、その信仰の土台に立っての戦いを学びましたが、まさにこの「私の神さま」と告白するシンプルな一つの事こそが重要なのであります。それは教会と国家の問題、宗教と政治の衝突に限らず、私たちの生活のあらゆるところで問われているもの、いや、問われなければならないことであると言えるでしょう。その意味で、これは政治的な戦いではなく、信仰の戦いとしてとらえたいと思うのです。

1. イスラエルの民が聞いた神のことば 

 本日の箇所、先程お読みいただいたわずか二節の短い言葉でありますが、聖書の中でも大きな意味を持っている箇所であります。奴隷とされていたイスラエルの民が、エジプトの国からの脱出した後、十戒と呼ばれる神様の律法が与えられる、生きる指針が与えられる、その最初の部分だからであります。この箇所で言われていることは大きく二つあるかと思います。「主はどのようなお方なのか」、特に「イスラエルの民、神の民にとって何をされたお方なのか」ということ、そして、そんなお方はご自分の民に「何を求めておられるのか」ということです。

 まず一点目、「主はどのようなお方なのか」ということについて見ていきますが、ここに至るまでに何が書かれていたのか。神様に救われる、贖われるということがどういう物なのかを記されていました。単に危機から救う、助け出すだけでなく、それにふさわしく整えられるということが描かれていたのであります。そんなように助け出され、導かれ、整えられてきたイスラエルの民。そして本日の箇所、直前の19:25では「そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた」とあります。ここでの主語はモーセでした。神はこれまでイスラエルの民を導いてこられましたが、モーセの口を通して語られてきたのです。しかし20章、十の戒めが与えられるときには1節「神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた」とあります。これまではモーセを通して語られていたところから、ここにいたり、神様が直接神の民に語りかけられたということでしょう。小さな違いと思われるかもしれませんが、これは大きな衝撃を聞く者たちに与えました。その神の言葉は2節から17節まで続きますが、民の反応は大きな驚きを持っていたのです。18-19節、民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ遠く離れて立った。彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話にならないように。私たちが死ぬといけませんから。」神の言葉を聞いた民たちは、死を感じさせるほどの恐れに満たされたのです。

 先々週、1月最終週の礼拝で私たちは、ペテロが本当の意味でイエス様に出会った場面を共に開きました。それまでにもイエス様の話を聞いていたシモン・ペテロでしたが、本当にイエスに出会った時、彼はひれ伏し、「主よ。私のようなものから離れてください。私は、罪深い人間ですから」と告白します。まさに神に出会い、神の言葉を聞いたとき、人は恐れるのであります。そこには立てないと打ちのめされる。天地万物を作られた神様の前に、自分の小ささを見るから。また聖いお方を前にした時、自分自身の汚いところ、誰にも見せたくなくて、自分でも見たくなくて隠していた自分の罪が明らかにさらされるからです。しかし、そんなひれ伏し、離れようと願う民たちに対してモーセは、神が直接語りかけられた目的を告げるのです。なぜ十の戒めを、これまでのようにモーセを通してではなくご自身の口で、ご自身の声で語られたのか。それは、20節。それでモーセは民に言った「恐れてはいけません。神が来られたはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」恐れが生じ、罪を犯させないため。言い換えるならば、まことの神を礼拝し、的外れなものではなく唯一のまことの神と共に生きるよう導くために、神は私の元に来られ、私に語りかけられる。イスラエルの民に語りかけられた言葉を、私たちもまた同じように聞くことが求められています。その最初が「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 

 さきほどは神が直接民に語りかけられたということを見ましたが、ここで気づくのは、その語りかけられた相手は民全体ではなく、単数の「あなた」、つまり一人一人に、ということです。神様はこのように一対一で話しかけられ、決してその他大勢に話しかけるようにはなさらない。そうして、神はどのようなお方なのかをつげられたのでした。わたしは、あなたを助け出した神である。「連れ出す」という言葉からもわかるように、奴隷からの解放が与えられた民でしたが、牢屋の入り口を開けて逃したのではなく、囚われていた者の手を引いて一緒に出て行くというニュアンスがあります。さあ出て行きなさい、好きなところに逃げなさいというような助け方ではなく、一緒に行きましょうと言ってくださるお方。行くべきところへと連れていこうとされるお方であると言われるのです。このように考えますと、単にエジプトの外に出すこと、奴隷状態から解放されることが救いなのではなくて、神様に導かれ整えられて、約束の地に入れるところをもってイスラエルの民の救いは完成すると言えるでしょう。これは私たちにもたらされる救いも同じです。神と共に生きていく新しい命が与えられるのです。本当の喜びと本当の希望が与えられたのです。一つ一つの問題の解決があるのではなく、根本の問題の解決が与えられたのです。

 また、先程から話していますように「あなたの神、主である」と言われる。これは、私との関係を大切にしてくださっている表現です。どこかの遠い神様ではなく、誰かの神様でした。あなたの神、主である。そんな奴隷から連れ出され、神様との交わりの中に招き入れられた私たちには、先ほどにも確認しましたように、神を恐れ、罪を犯さないための戒めが与えられたのでした。ともに生きようと連れ出してくださったお方が望むもの。その最初が3節、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という第一戒です。

 

 人間が神の前に守るべき最も大切な戒めと、また神の前に犯しうる最大の罪とが示されています。すなわち、まことの神以外に、人間がいかなる礼拝の対象も持ってはならないということである煮も関わらず、神様よりも大切なものを簡単に作ってしまう。子どもは様々な罪の行為によって親を悲しませるのだが、親にとってもっとも悲しいことは何かといえば、それは子供が親を自分の本当の親として認めずに、他の人のところに行って「お父さん」と呼ぶことではないでしょうか。私たち人間が、われわれを創造し、愛していてくださるまことの神を、父なる神と認めずに、ほかのものを神とするなら、それは父なる神を最も悲しませることになる。「あなたの神、主である」と言われるお方を悲しませるのです。一方で、このお父さんと一緒に生きるということが、父の最大の喜びであるのです。子供のことを大切に思わないはずがないお父さんに手を引かれ、導かれ連れて行かれる時に、私たちは本当のいのちを受けるのであります。他の何ものにも埋めることのできない充しを与えてくださるお方、それが私の神さまなのです。

 

2. 「きわめて単純に、神のみことばを守る」

 本日の箇所が与えられみことばの備えをする中、一人の人物を思い出しました。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」というみことばに、愚直に従い続けた人物であります。それは先の対戦中、朝鮮において戦い続けた朱基徹(チュキチョル)という牧師です。

 1910年に朝鮮は日本に併呑、のみこまれ植民地とされました。そして日本はたくさんのものを奪って行きました。朝鮮半島における日本の植民地支配の実態を表す「七奪」という言葉があります。日本は強制的に七つの大切なものを奪ったという事が言われています。土地や米を始め、名前や言葉、そして人間、いのちを奪った。その中で、信教の自由も奪われていったのです。まことの唯一の神を信じることが許されない時代だった。それは日本軍や政府が奪っただけでなく、日本の教会が奪ったものでもありました。そんな中でチュキチョル牧師は戦ったのであります。神社参拝を強要する日本に対し、多くのものを犠牲にし、自分のいのちさえも投げ捨てて戦った。そんなチュキチョル牧師の様子を描いた書物があります。彼の息子が記したものです。その中にこう書かれています。

 

「父は「偶像を拝んではならない」との神様のみことばをそのまま守ったのでした。時代が時代だから仕方ないとか、あれこれ言い訳をしませんでした。神様のみことばが、父母より、妻子より、そして自分の命よりも尊いので、そのために他のもの一切を捨てたのです。それ以外のことは、考えもしませんでした。きわめて単純に、神様のみことばを守ったのです。その結果、家族は散り散りになり、父の体は引き裂かれ、父は死にました。単に神さまがせよと言うことをし、するなということをしなかっただけでした。」(朱光朝『岐路に立って 〜父・朱基徹が遺したもの』)

 

 「きわめて単純に、神様のみことばを守った」チュキチョル牧師。この信仰が、神さまとともに新しいいのちを生きる私たちに求められているのです。

 

3. まとめ この律法を完成させるために

 いや、この「きわめて単純に神さまのみことばを守る」という一つの事でさえ守ることのできない弱いものであることを、私たちは痛みとともに経験しています。十戒をはじめとする律法は、私たちの罪深さをこれでもかというほどに気づかせるのです。しかし、そんな私たちの元にイエス様が来てくださった。律法を廃棄するためにではなく、成就するために、完成させるために来てくださった。だから十字架は希望なのです。十字架によって私たちを死から、永遠の滅びから連れ出してくださったお方に従って行くこと、このお方の他にいかなるものも持たず生きていくこと。それはとてもシンプルな、きわめて単純な信仰です。けれども、それが何よりの力なのです。イエス様が導いてくださるのだから、何度もなんども悔い改め、伸ばされる手にしがみついていく。このお方の他に頼るべきもの、優先すべきものはないと信じ、信頼していくこと。これが、神様が示しておられる、神さまとともに生きる道であるのです。唯一のまことの神を信じる。「私の神さま」と告白し続ける。チュキチョル牧師がそうであったように、私たちもまたそのように生きる者でありたいのです。「あなたの神、主である」と言ってくださるお方に答え、「私の神さま」と告白する歩みを、はじめさせていただきましょう。お祈りします。