ナザレのイエスによって

❖聖書個所:使徒の働き3章1節~8節      ❖説教者:川口 昌英 牧師 

❖中心聖句:「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)

 

◆(序)この個所について

 続いて使徒の働きを見ていきます。この場面は聖霊がくだり、教会が誕生し、エルサレムの多くの人々がキリスト者たちに注目するようになった中で起こったことです。生まれた教会の様子については、前回のところ(2章37節~47節) で見た通りです。

 

 私は、この個所は聖書が伝える、教会がこの世の人々に対して伝えようとしている福音が非常に分かりやすいかたちで示されているところだと思います。

◆(本論)人を真に生かすものは何か

①毎日、人々に連れて行ってもらい、壮麗な美しの門のところに一日中すわって物乞いをし、生活の糧を得ていた男は、二人が自分をじっと見つめていることから、当然のように期待をしました。この人が、その二人ペテロとヨハネが、近頃話題のキリストの教会の者と知っていたかどうかは不明ですが、主を信ずる者たちのことはエルサレム中に知られていましたから、その中心的存在であるペテロとヨハネも人々に知られていたと考えてもおかしくはありません。そう考えるなら、評判の彼らが自分に関心を持ってじっと見つめていますから普通の人よりも何か良いことをしてくれると期待したと思うのです。

 ところが、自分の状況を知って思いやりを持って、自分に向き合ってくれたと思った者の一人、ペテロから最初に発せられたのは「金銀は私にはない。」ということばでした。最も頼りにしてきたものをあげることができないということですから、このことばだけであったなら、神は、ひとり子を与えたほどに一人ひとりを深く愛し、信じる者に新しいいのちを与えてくださると説きながら、自分のような者が生きる上においてなくてはならない金銀はない、金銀を与えることができないとは、何と言う冷たい人々なのだろう、何と言う偽りの愛なのだろうと感じたに違いないと思います。

 実は今も同じように、後半を知らないで聖書、教会が伝える福音に対して失望している人が少なくありません。聖書を知るとまた教会に通うとすぐに寂しい思いが癒される、喜びが与えられる、また人間関係が良くなると思っていたけれども、聖書、教会は自分の求めに対して何も答えてくれないと失望するのです。神は一人ひとりを深く愛していると言いながら、自分には何も答えてくれない、自分が本当に必要としていることを与えてくれないと教会から立ち去る人、中には信仰告白しながらそうする人もいます。

 

②けれども、福音は人が求めるもの、必要なものを与えることが出来ないかというとそうではないのです。実は人が今求めているものよりも大切な、なくてはならないものを与えるのです。

 後半の「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言われていることばです。私が知ったもの、私の人生を変え、私の生きる中心にあるもの、神でありながら人としてお生まれになり仕えるお姿を持ち、最後には十字架の死を受け、甦られ、人の根本問題である罪を贖った主イエスにあって生きる生涯をあなたに知らせようというのです。

 確かにこの人の支えであった金銀のように、すぐ社会において力を発揮するものではありません。しかし、生まれてから足が悪く、動くことができず、大人になってからも人々に頼って物乞いをする場所まで運んでもらい、そして人の施しによって生きざるを得なかった、孤独を感じていた人にとって想像もできない言葉でした。使徒たちはこの人をじっと見て、その求めを知り、彼が一番願い、しかし深く諦めていたものを与えようとしたのです。心の深くに福音を伝えたのです。この人の場合、実際に足が強められ、そして魂の渇きが癒されることでした。ここで注目すべきは、ペテロが「ナザレのイエス・キリストによって」と言っていることです。

 言うまでもなく、ナザレとは人としてお生まれになった主がお育ちになった地方です。宗教の中心地、エルサレムから遠く離れた辺境の地です。真理を追求する様子が見られない、また霊的指導者がいないこの地において、主は人々の苦しみ、悲しみ、罪にとらわれて生きている姿を見てお育ちになり、人々と共に生活し、やがて時が来て、公生涯を開始されたのです。ですから、ナザレのイエスとは、人と共にある、人の全てを知られた救い主という意味です。遠くにおられ、人の姿を知らない方ではなく、どのような生き方をしている者であっても一人ひとりをかけがえのない者として見てくださり、深く愛してくださる方という意味です。

③物乞いをして生きていた人に使徒たちがこの言葉を言ったのは、聖霊の導きにより、主イエスは真の神であり、そしてその名(人の罪を贖うために人としてお生まれになった神の御子の存在と実態)を信じて生きることは一人ひとりにとって最も大切、必要な力が与えられることを示すためでした。この人の場合、足が直ることと生き方の中心が罪の支配から救いだされ、新しい希望と力が与えられることでした。この言葉が人格の中心に届いた時、人生が変えられたのです。 

 この言葉は今も多くの人々の人生を変えています。私の神学校の後輩は学生時代、酒浸りでした。寂しさのために飲まずにおられなかったそうです。心配したクリスチャンの友達に誘われて教会に行き、神は一人ひとりをかけがえのない者として見られている、罪、自分を善悪の基準とする生き方を悔い改め、方向を変え、ナザレのイエスの名によって歩きなさいと語られていることが心に響いて来た時、それまで感じたことがなかった喜びと力が与えられたそうです。それまで、この場面に出ている男と同じように、生きるうえにおいて役立つこと、今の自分の支えばかり求め、それが与えられないと失望したり、悲しんだりしていたのですが、自分のすべてを知っておられ、その上で愛しておられ、最後には、神にあって生きるために十字架の死まで受けてくださり、甦り、永遠のいのちを与えて下さった主にあって生きることが何よりも喜びとなったのです。

 

◆(終わりに)信仰生活は、ナザレのイエスによって生きること

 本日の個所は、教会が伝えている福音を示しています。直接の求めに対して何も答えていないように見えるかも知れませんが、根本的な生きる希望を与えることを伝えています。日本では多くの人が、神を信じることは立派な人間になることだと思っています。近代の宣教以来、おもに知識階層の人々に伝道されたことなどさまざまな理由は考えられますが、しかし、そのようなイメージのために教会は大切なものを失っているように思います。

 使徒たちが伝えたものは「ナザレのイエスによって歩く」生きることです。人生に対して諦めていた者、絶望していた者が、ナザレのイエス、神でありながらへりくだり、人のありのままの姿を知り、深く愛された方を知り、その方の愛と恵みによって立ちあがり、喜びと希望を持って生きることです。

 

 福音に対して、誤った理解をしていることはありませんか。惑わされずナザレのイエスの名によって生きていって欲しいのです。この方は決して裏切りません。(第二テモテ1章13節) 又いつまでも同じです。(ヘブル13章8節) 私たちに与えられているのはキリスト教思想やキリスト教主義の生き方ではありません。ナザレのイエスです。福音が正しく伝えられて行くためにキリスト思想や神学の研究は必要です。しかし、そういう学びをしなければ信仰生活を送ることができないというならばそれは誤りです。信仰生活は罪を贖うために神でありながら人となられたナザレのイエスによって生きることです。最初に赴任した任地に80台半ばの婦人がいました。この方は信仰を持っていない他の家族が地域の神や先祖のことに囚われることがあっても私は浮気しないと言っていました。ただイエス様のみに従っていくことをそう言っていたのです。10年間その方とともに教会生活を送りましたが、その方から信仰は教育でも立場でもない、主を、ナザレのイエスを深く受け入れることであると学びました。ここに信仰生活の喜びがあると信じます。