イエスとの出会い

■聖書:ルカの福音書5:1-11   ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(10節)

 

1. イエス様に出会う前   

 本日の場面、舞台はゲネサレ湖という湖です。聖書ではガリラヤ湖と呼ばれる方が一般的で、当時イエス様が活動の拠点されていたのはこの湖の周辺でした。1-3節をお読みします。群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

 なぜ群衆はイエス様のもとに押し迫ったのか、ということから順に見ていきましょう。ここで注目したいのは、イエス様に押し迫るように集まった群衆は、「神のことばを聞いていた」、言い換えれば「神のことばを聞くために」集まっていたということです。実はこのように書かれている箇所は珍しく、ルカはあえてここで群衆たちの目的がなんであったのかを示しているようです。他の箇所では病を癒してもらったり悪霊を追い出してもらったりするために、人々はイエス様のもとへ来たと書かれています。けれども、ここでは違うのでした。「神のことば」、これは「神様についてのことば」ではなく、「神からのことば」すなわち、神からのメッセージでした。それを群衆は聞こうと押し迫ったのでした。表現は悪いですが、これは我先にと押し寄せる様子を表しています。何が何でもという気持ちをもって、必死に手を伸ばしている様子を思い浮かべました。長血の女がイエス様の着物の裾に触れるだけで癒されることを信じ、手を伸ばしたように、イエス様を、イエス様によって語られる神のことばを、心の底から求めていた群衆でした。このような箇所を読んでいますと、私自身が礼拝に集う姿を改めて思わずにはいられません。押し迫るほどの情熱、熱量を持って神のことばを求めて今ここに来ているのか。日々のデボーションを守っているのか。神様と向き合っているのか。そのように問われてくるのです。

 さて、このように神のことばを求め、耳を傾けていた群衆がいる一方、その傍らでは漁師たちが一晩中の漁を終えて、片付けをしていました。彼らは押し寄せもしなければ、耳を傾けてもいなかった。この違いはなんでしょうか。 彼らは最近巷で話題となっているイエスと言う人物に興味がなかったのでしょうか?自分と関係がない人だと思っていたのかもしれません。それとも早く作業を終わらせて家に帰り、疲れを癒したかったのでしょうか?大漁ならまだしも、続く箇所を読んでいきますと、夜通し働いたのに一匹の魚も取れなかったと嘆いていますから、とてもそんな気分になれなかったのかもしれません。体は疲れ気持ちも落ち込み、早く寝てしまいたかったことは容易に想像できます。また、網を洗うということは当然次の漁に備えての行為であって、彼らにとっては日常の作業、大切な仕事の一部でした。そんな心身ともに疲れきった彼ら、やるべき仕事もある彼らには、神のことばに耳を傾け、イエス様のもとに駆けつける「余裕」なんてないと考えていたんじゃないかと思うのです。

 

 シモンという名の漁師がその中にいました。この人はのちにペテロと呼ばれ、キリスト教会の中で大きな働きをなした人物であります。そんな彼も、本日の箇所ではイエスに目もくれずに働いていたのでした。ところで、この箇所はシモン・ペテロとイエス様の出会いの場面として記憶されている方が多いのではないでしょうか。ところが実はそうではなかったようです。本日の箇所のすぐ前、4:38を見るとこうあります。イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなしはじめた。彼にとってイエスは、単なる有名人ではありませんでした。すでに知り合っており、そればかりか家に招き、しゅうとめを癒してもらっていた。イエスの不思議な力を身近なところで体験していたのです。本日は説教題に「イエスとの出会い」とつけさせていただきましたが、一般的な意味において言うなら、本日の箇所の時点ではすでに出会っていたわけであります。この方が只者ではないとわかっていたはず。にもかかわらず、イエスのもとへ行くこと、神のことばに耳を傾けることは、彼の優先順位において、一番上ではなかったのでした。何が何でも押し寄せなければならない相手ではなかった。それよりも、目の前の仕事や、生活、自分の疲れにばかり目が行っている。そんな近づこうとしないシモンに対し、イエス様は声をかけ、再び、真実な意味で出会おうとされている。

 

 シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出し、押し迫った群衆に神のことばをお話しになったイエス様。シモンはその言葉を、今度は一番身近なところで聞いていました。舟を出してくれとイエス様に頼まれた時のシモンの反応は書かれていません。様々なことを思い巡らせたのかもしれませんが、しゅうとめを治してもらった恩もあるのでとりあえずは言われた通り船を出した。といったところでしょうか。そんな船の上で、イエスの話を聞きながら彼は何を考えたのか。想像力を働かせれば、というか自分だったらと考えるならば、いろいろ思い浮かびます。距離としては、他の誰よりもイエスに最も近いところで神のことばを聞きいていながらも、心ここに在らず、ひょっとしたらメッセージが早く終わらないかなとか、帰りたいなとか考えていたかもしれません。魚が一匹も取れませんでしたから、家族や生活の心配をしていたでしょうか。徹夜の後ですから眠気と戦っていたかもしれませんね。しかもです、ようやくお話が終わった、さあ帰れると思ったら、さらにシモン専用の特別メニューが用意されていました。

 4節、話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」群衆に話をするために船を少し漕ぎ出すのと、漁のために深みに漕ぎ出すのとでは大きな違いがあります。まず目的が違う。前者はイエス様の本業といいますか、メッセージのためでしたから、彼も言うことを聞きました。そうするのがいいと納得したのでしょう。しかし今度はというと、シモン達の本業について口を出してきたのです。だから彼は言うのでした。5節前半をお読みします。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。」一番魚が獲れる時間帯、夜を徹して働いた。これは漁師たちの長年の経験に裏付けされた知恵を駆使しても何一つ取れなかったということです。一晩の努力は徒労に終わった。もう網も洗っていて、もう一回おろしたらまた最初からやらなきゃいけない。またプライドもあった。プロでありそれで生計を立てている自分たち漁師が、長年の経験に裏付いた時間と場所、あるいは勘をフル動員して網をおろしてもダメだった。それなのに、大工の息子、たかだか30歳くらいの若造の助言に従う理由なんてないのです。彼らには従わない理由を幾つも並び立てることだってできたはずです。

 思えば私自身を振り返っても、様々な現実の事柄にいっぱいいっぱいになってしまうことがあります。そして様々なことを理由に言い訳したくなる。今は少し待ってもらえませんか。それはきっと無理だと思いますよ、私にはできませんとか。シモンにもそんな気持ちは少なからずあったはずです。多くの人がそうであるように、神のことばを聞くよりも日ごとの生活を重視して、神のことばを聞くのは時間があり都合の良い時、余裕がある時でいい、そのような人だけが聞けばいいやと考えるのです。

 

 しかしここでシモンはさらに続けて答えます。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみましょう。」なぜこういう答えが出てきたのかはわかりません。私自身が気になって幾つかの注解書を開きましたけれども、そのどれもが、わからないと結論付けています。潔いと思いました。私たちは、私たち自身でも理由がわからないことがたくさんあります。ここでのシモンにしても、完全に信じきって、つまり魚が獲れるとの確信があって従おうと決めたのではないということはわかりますが、それ以上のことはわからない。ただ一つ言えることは、彼の中で、人間的な価値観を超えた何かが働かれたということです。日本語の聖書には訳出されていませんが、原語ギリシャ語の聖書を見てみますと、ここでは明らかに「あなたの」という単語が言葉と並べ置かれていて、輝きを放っているのです。「あなたのおことばどおり」、あるいは、「あなたのおことばですから」、「網をおろしてみましょう」!それがどんなに馬鹿げた、おかしな出来事であっても、イエス様、あなたがおっしゃるのならそういたします。完全に信じ切ったわけではありませんし、大した期待をしたわけでもなかったでしょうが、彼はこのお方の言葉に従うのでした。

 信仰を持つ、神を信じると私たちは言い、私たちがあたかも選んでいるかのように考えますが、そうではなく、すべてのクリスチャンが皆、私たちのうちに働かれる力によってイエス様を信じ、イエス様の言葉に従うのであります。ここでもそうでした。「でも、あなたのおことばどおり」この響きを、私たちはクリスマスの時に耳にしました。未婚の乙女、処女マリヤ。彼女は御使いからのお告げを受け、身ごもって男の子を産むという途方もない言葉を耳にします。最初は当然のことながら受け入れることができず信じられなかった。けれども、聖霊が働かれて「神にとって不可能なことは一つもありません」と告白し、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自らを委ねているのです。自分の経験や考えよりも、このお方、御使いを遣わされた神を上に置いたのです。繰り返しになりますが、シモンは喜んですべてを委ねたわけではありませんでした。それでも、このことばに従って行動しました。すると驚くべきことが起こったのであります。6,7節、そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。漁師たちが一晩網をおろしても一匹も取れなかったのがなんだったのかと思うくらいの大漁でした。この大漁が偶然ではなく、イエス様の言葉に従った結果であることは、他ならない漁師たち自身が一番わかったことでしょう。その時にシモンはこのお方がどのようなお方であるのかを知ったのであり、それは同時に、そんなお方を前にした自分がどのような存在なのかを気づかせることになったのでした。

 

2. イエス様との出会い

 8-10節前半をお読みします。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間なのですから」と言った。それは、大漁のため、彼も、いっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。この箇所を読むときに、シモン・ペテロが本当の意味でイエス様に出会ったということに気づかされるのです。彼らは漁師です。もし彼らがイエスを不思議な力を持っている人程度に捉えているとしたら、当然、これまでにないほどの大漁をもたらしてくれた存在に対して、そのお方とどこまでもいっしょに痛いと願うのが普通の考えでしょう。いわばご利益を求めて神に願うというのはこのような姿かと思われます。しかし、ペテロは正反対の行動を示したのでした。「私のような者から離れてください。」私たちとずっと一緒にいて、このような恵みをもたらしてくださいとは言わなかった。とても言えなかった。それはこのお方の言葉に従いはしたものの、心が伴っていなかったことを、日毎の生活にばかり心を傾けていたことを、イエス様の言葉よりも自身の経験を重んじたことを、気づかされたからでした。おことばどおりにと言いながら、心は自分のものとしていて明け渡していない。ペテロにとって、しゅうとめの癒しではこの気づきは与えられませんでした。自分の専門分野で、凝り固まった価値観ががらりとひっくり返された時、ペテロはイエスと出会ったのです。そして、自らの罪に気づいた。彼がしたことは悪いことではありません。自分の仕事を全うしていただけですし、疲れたら休みたくなるのは当然です。そればかりか、彼は、すべてイエス様の言われた通りに動いています。けれども当の本人が、自分の心の奥深くにある本質的な罪に気づかされた。このお方の前に顔をあげることはできない。ひれ伏すというのは全面的な降伏を意味します。私はあなたの前にちっぽけな存在である。それは大きな恐れとなりました。「いっしょにいたみなの者も、ひどく驚いた」とありますが、これは別の箇所では、「おびえる、取り乱す」とあります。こんな大漁をもたらした方は、私の心の隠したい部分も全て知っておられる。ここに気づいたペテロたちは、恥ずかしくなって怖くなって隠れたかったのでしょう。イエスがどのようなお方なのかを知り、そのお方の前で自分自身を誠実に見つめる者は、このような恐れがあって当然です。人はみな、神から離れた罪人なのだから。光の中で誰にも見せたくないところ、いや自分でさえ見たくない汚いところが見えてきます。自分の弱さだったり、凝り固まったプライドだったり、生活の疲れだったり、明日への心配だったり。イエス様はそこに光を当ててくださる。漁師たちには、この大漁の奇跡を持って、神の大きさと自分たちの小ささとを教えられたのでした。

 

ただ、そんな恐れでは終わらない。終わらせないのがイエス様です。

 

 怯える彼らに対して、イエス様再び語られました。10節の後半。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」こわがらなくてもよい。神様はいつの時代にもこのように優しく語りかけてくださいます。ペテロの心の中、光に照らされた彼の内なる思いや弱さ、悩みや葛藤の全てを知った上で、それを否定してそんなものはだめだ、捨ててしまえ、強くなれとは言わずに、やさしく受け止め、その上で、こわがらなくてもよいと言われるのでした。「あなたは人間をとるようになる」まるで決定事項のように言われていますが、これは、私たちの努力によってなれるかなれないかが決まるものではなく、イエス様がそうしてくださるということを請け負っている言い方です。人間をとる。別の聖書では「生け捕りにする」などと言われています。もう少し原語に忠実に訳すなら「生かすために捕らえる」となるでしょう。そのままでは死にゆく、滅びへと向かっていく人々に、いのちを与える尊いわざです。

 そんなことが人には可能なのでしょうか。なぜ弟子たちがこの勤めに任ぜられるのでしょうか。それは、彼ら自身が、生かされるために捕らわれたからに他なりません。それは、イエスの前で罪を認めるということ、全面降伏して、このお方に全てを委ねるということ。イエスと出会うということによって、いのちが与えられ、新しい人生が始まるのです。Ⅰペテロ1:23には次のようなみことばがあります。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、行ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。神のことばによらなければ、イエスに出会わなければ、私たちは罪人のまま、後ろめたい思いを持ちながらひたすらに死を待つばかりの人間です。明日への不安を抱きながら、この世の荒波に右往左往するばかりのもろい存在です。でも「恐れるな」と声をかけ、いのちを与え、「人間をとるようになる」と新しい使命が与えられるのです。

 

 この声に対して、漁師たちはすぐさま答えます。11節、彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。一緒に行くとも訳される。イエス様と共に生きる、イエス様と一緒に進んでいくという道を弟子たちは選んだのでした。恵みだけをもらい、利益だけを得て満たされるのではなく、イエス様と生きるときに本当のいのちが与えられ、それゆえに、本当の喜びに満たされる。彼らはそれを学んだ、いや、彼らの元に来てくださったイエス様と出会い、気づかされたのです。出会って終わりではなく、ここから新しい人生が始まるのでした。

 

3.     まとめ  

 ペテロは「深みに漕ぎ出し」ました。自分たちの経験ではまず行くはずもなかったところです。あまりこの深みという言葉の意味を深読みしすぎないほうがいいかと思います。けれども、本日の箇所全体から、この「深みにこぎ出て行く」ということの意味を考えるならば、それは、自分の経験や現実的な状況、プライドよりも、神の言葉に信頼して生きるということが言えるでしょう。そうしたときに、イエス様は私たちの想像をはるかに超えて働かれるお方であるということです。こんな私がなんて思わずに、この声に応えていきたいと願います。

 

 そして最後に一つのことをお話しして終わりにしたいと思います。それは、この出会いの出来事は、ここだけで終わるのではないということです。ペテロという人はこれから十二弟子の一人となり、いつもイエス様のそばについていきます。十二弟子の中でも中心的な働きをなして行ったようです。けれども、彼は大きな失敗を犯しました。全てを捨て、イエス様とともに生きる道を選んだのに、彼はイエス様が捉えられ十字架にかけられる時、その場所にはいませんでした。それどころか、あんな人は知らないと嘘をつき、自分を守るためにイエス様を裏切ったのです。イエスに出会い、いのちが与えられ、イエスとともに歩んでいるクリスチャンであっても、何度も失敗します。ペテロがイエス様の足もとにひれ伏しましたが、むしろそのような体験、自分が罪人であると気づかされる場面はますます増えていくとさえ言えるでしょう。しかし、大きな失敗を犯したペテロでしたけれども、まるで本日の箇所の再現のような体験をするのでした。ヨハネ21:1-7前半。前夜には何も取れない、イエスであることがわからない、イエスの言葉通りにするとおびただしい魚が獲れる、主だと気づく。失敗をしない人、罪を侵さなくなるような人はいません。その度にイエス様から離れたくなる。こんな自分じゃ一緒にいられないと思う。けれども、イエス様はその度ごとにこの出会いを思い出させ、主がどなたなのかを、何度でも何度でも思い出させてくださるのです。決して諦めることなくわたしを生かそうとしてくださっているお方。それがイエス様です。私たちを、本当の意味で満たしてくださるお方はどなたなのでしょうか?このイエスのほかにはありません。このお方に手を引かれつつ、新しい週の歩みを始めて参りましょう。