愚直な教会

 

❖聖書個所 使徒の働き2章37節~47節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしてい た。 使徒の働き2章42節


❖説教の構成

◆(序)この個所について

 初代教会の歩みである使徒の働きを続けて見て行きます。本日の個所は、ペテロの説教によ

り、多くの人々の心が刺され、信仰告白をなし、忠実な信仰生活を送り、豊かに用いられたこと が記されているところです。

 信仰者は、御子の十字架の死と復活という一方的な恵みによって救われ、義とされますが、完 全にきよい状態になるわけではありません。その栄化の状態は終末、再臨の時に実現すると約束 されています。地上にいる限り、信仰者は主と似たものと変えられる聖化の段階にありますが、赦 された罪人にすぎないのです。このように信仰者といっても弱さがあり、足りなさがあるのです。

 教会はそのような者たちの集まりですから、通常いろいろな問題が出るのですが、この時は奇 跡的に問題から守られ、1章8節にある教会の使命をみごとに果たすことができたのです。教会の 誕生という重要な時でありますから、主の特別な守りがあったからと思われますが、それだけで なく、信じた人々の側においても祝福を受け、豊かに用いられた理由があったのです。

 本日は、ここには教会のすばらしい状態が記されていると読んで終わりとするのではなく、彼 らがなぜ、このような状態を持ち得たのかについて教えられ、現代の教会について共に考えたいと 願っています。 

◆(本論)良い関係を持ち、また神に用いられた理由

①まずあげることができるのは、信じた者たちの心が深く刺されていたことです。主イエスを殺害 した罪を厳しく問うたペテロの説教により、自分たちの底知れぬ罪深さを知り、そしてそんな者 をも愛してくださる神の無限の愛を知るようになったのです。

 彼らは、主が十字架の死を受けた時には世間を騒がした重大な犯罪人が処刑されたものと思っ ていました。しかしその後、主が復活したこと、また聖霊が降られたこと、そうして弟子たちが 生き生きとしている様子を見聞きし、主の十字架が意味することについて分かったのです。

 この主イエスこそ、神が人を罪より救うために先祖たちと結ばれた旧約、彼らを選民とし、律 法を与え、神の民とされた契約の完成者として送られた方であること、しかし自分たちはその神 のご計画を理解せず、その方を十字架につけてしまった。正しさを誇っていたが、実は自分や人の 本当の姿を見ない、ただ表面だけをみていた罪深い生き方をしていた者であることが分かったの です。けれども神は、そんな者たちを愛してくださる、赦し、救いを与えておられることが分かっ たのです。聖霊に満たされて真理を語るペテロの厳しい説教によって究極の罪が分かり、無限の愛 が分かり、心が深く刺され、信ずる決心をしたのです。

 この心が刺されたという語は新約聖書では唯一この個所で使用されている非常に強い心の衝撃 を受けた状態を表すことばです。私は、この心が刺される、砕かれるということは人の霊的問題 の本質だと思います。すべては、この心が刺される、砕かれるということ、自分の真の姿に気づ き、認め、誤りを正そうとしているか、どうかだと思います。これを経験している者は、神のみこ とばを受けとめることができるのに対し、経験していない者はどれだけすばらしい人であっても 神のみことばを受けとめることができないのです。それゆえ、この心が刺されると同義語である 心が砕かれるということが聖書全体を通じて神の御前において最も大事とされているのです。ダビ デの悔い改めの詩である詩篇51篇17節(朗読) 、あるいはイザヤ57章15節(朗読) でも同じことが言 われています。人生の真理を求めている者に主が最も求めているのは心が刺される、砕かれることなのです。本日の個所において、彼らはペテロの説教により、今まで気にしていた先祖から受け継 いでいる自分たちの歴史や今、自分たちを取り巻いている社会的立場などにいっさいとらわれる ことなく、ただ主によって心が刺され、心が砕かれたのです。

 

②続いてこの時、生まれたばかりの教会が祝福されたのは、真摯な信仰生活のゆえでした。42節 です。(朗読) すべての時代のあらゆる教会の基準となる姿として引用されることが多いみことばで す。ある説教者はそれぞれの教会の実際の姿は、ここで言われている四つのことを当てはめてみる と分かると言っています。

 要約するならば次のように言うことが出来ます。まず「使徒たちの教えを堅く守り」とは十字架 の直前、主が祈っておられたように(ヨハネ17章) 一つとなり、主イエスが語り、なされたことを 身近に経験した証人である使徒たちの教えを、水増したり、割り引いたり、曲げることをせず、忠 実に守っていたのです。旧約聖書、そしてその通りに救いを完成された神の御子をそのまま伝える 使徒たちの教えを何よりも大切に守ったのです。(第一ペテロ1章24節~25節)

 続いて「交わりをし」です。救われている者として、ともに苦しみや喜びを分かち合い、互いに 支え合い、ともに福音のすばらしさを伝えたということです。聖書が伝えている交りは、現代の私 たちが考えるようなとにかく親しくなるというものではありません。それぞれが主の証人として 歩むことができるように互いを励まし、支え、祈ることです。この時、救われた人々は当時の社 会にあって同じ緊張感のうちに互いのことを思いやり、支え合ったのです。

 三番目は「パンを裂き」ということです。ともに集まる時に、主が守るように命じられた聖餐 の時を守り、いつも主の十字架の死と復活によって生きることを心に覚えたのです。教会が荒れて いる時には悔い改める前のコリントの教会のように主の聖餐は軽んじられます。反対に教会が聖 餐を大切にする時、教会はぶれることがないのです。

 最後は「祈りをしていた。」です。これは生まれたばかりの教会の大きな特徴です。心と思いを 一つにし、すべてを明け渡して、すべてを委ねて祈っていたのです。祈る教会は主イエスも言われ るように失望しません。弱ったり、自分たちの考えによって行動しないのです。神の時、神の御心 に委ねて、御旨に従うのです。この人々はまさにそういう姿を持っていたのです。

 

③続いて注目すべきはこの時の彼らの日々の生活です。主にあって彼らはすべてのものを共有にし、 互いの必要に応じて分けていたというのです。これは教会の歴史においてはこの時にだけ見られ た姿ですが、救われた者としての緊張感と使命感をもって生活も行動も同じにしていたのです。そ してそういった生活が主イエスの恵みを証しし、その結果、救われる人々が毎日加えられたのです。

 

◆(終わりに) 現代の教会に伝えているもの

 生まれたばかりの教会の人々の様子を見て来ました。心が砕かれ、主と深く繋がり、同信の友 と一体感を持っている姿です。主との縦の関係がはっきりしており、そしてその縦の関係によって 信仰の仲間たちとの横の関係をしっかり持っている姿です。始めにこの個所は、救われているとは いえ、赦された罪人にすぎない者の集まりである現実の教会にとって奇跡的と思うと言いました が、こうして見てくると、これら二つの関係を愚直なまでに大切にしていたゆえであることが分か ります。ですから現代の教会も、確かにすべてのものを共有にすることはないのですが、この二つ を重視していくならば、主がその教会を祝福し、用いてくださるのです。福音宣教において教会の 姿、実態は非常に大切です。基本的に福音宣教は個人ではなく、教会を通して行われるからです。 足りなさ、弱さがある私たちですが、これら二つを大切にして主に喜ばれる教会を目指そうでは ありませんか。そこに困難と言われている日本における宣教の道があると信じます。