究極の罪と無限の愛

 

聖書:使徒の働き2章22節~36節        ❖説教者:川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不 法な者の手によって十字架につけて殺しました。」 使徒の働き2章23節

 

❖説教の構成
◆(序)この個所について

 しばらく離れていましたが、再び使徒の働きを見て行きます。今週の個所は、聖霊が与えられた 場面を見て驚いた人々に対するペテロの説教の続きです。主の死について語っているところですが、 特に注目すべきは主の十字架について、人の罪の身代わりというよりもむしろ、イスラエルの人々 が主を殺害したということを中心に語っていることです。 それが事実であったからですが、しかし、聖書全体が神がなされた救いの御技の歴史であるこ とを思う時、その救いの完成としての主の十字架は、やはり身代わりという意味が中心と思うの です。であるならどうして、ペテロはイスラエルの人々にこのように語っているのでしょうか。い つもこの個所を読む度ごとに不思議な感じを持っていました。 実は、あまり取りあげられることがないその視点がとても重要な意味を持っているのです。何故 なら、そう指摘されているのは、実際そうであったからだけでなく、主の十字架の本質をあます ところなく明らかにしているからです。救い主として来られた御子を殺害するといった人間の罪の 究極の姿を容赦なくさらけだし、一方、そんなご自分を殺害する人の罪を赦される神の無限の愛 を伝えるためであるからです。究極の罪と無限の愛を示し、そして人に対して本当に悔い改め、神 のもとに帰ることを強く勧めているのです。 

◆(本論)全ての人は神の子をも殺害する罪人
①実は主イエスも同じことを言われていた

 このような人間の究極の罪について、十字架の前、主イエス様も同じことを言われています。マタイの福音書21章33節以下をお読みします。(朗読) たとえ話ですが、これは説明するまでもなく、 息子とは、救い主であるご自身を指しています。

 このたとえにおいて主は、人は本当に罪深い存在だと言うのです。全てのものが与えられ、良き 状態に置かれていながら、それゆえ受けている恵みを覚えて感謝し、ふさわしい応答をすべきであるのに、そうすることがあたかも損をするかのように考え、主人の使者を拒絶、殺害し、ついには最後に送られた主人の愛する息子までも殺害し、全てを奪ってしまおうとする農夫たちのようだと言うのです。それは創造主、またその方のご計画によって送られた神の御子を殺害し、自分たちの自由によって生きていきたいという究極の罪の姿です。主ご自身が神の子を殺害する人間の 罪をあらかじめ明らかにしているのです。人は、このように残酷で残忍な罪人であることを主は明 らかにしているのです。

 そしてそのたとえの通り、実際に指導者たちは、神の御子である主を憎み、捕まえ、裁判にか け、民衆もピラトからバラバかキリストかと言われた時、重大な犯罪人であるバラバを解放せよ と言い、主に対しては十字架につけろと叫んだのです。これが人の姿です。(マタイ27章21節~26 節) 私たちは、イスラエルの人々のように、或いはピラトのように、実際にイエス様を十字架につ けていませんが、同じことを行っているのです。みことばを通して罪からの救い、福音が示されて も、私には関係がない、神などいない、私は私の自由で生きていく、神に依存などしない、神を 信ずる者は弱い者たちだと言って、自分を誇るのです。ぶどう園で働いている農夫と同じように、 神の子を殺害して自分の力を誇る者たちなのです。

 

 

②罪深い人に対して、主の側、父なる神の側はどうされたか

 私たちであるなら、自分にこのような仕打ちをする者、否定、拒絶する者、まして殺意を持って殺そうとしている者に対して、とうてい穏やかに誠実に対応できません。そんな状態にある者を愛し、その者が陥っている暗い状態から救いだそうとする思いを持つことはできません。

 反対にそういう者を否定、拒絶することが多いのです。そして、その者たちが今、暗い、希望が ない状態にいて、永遠の滅びを迎えようとしているのは、自ら招いたことであると思うのです。

 しかし、主イエス、父なる神はそのような罪の姿、ご自分を否定し、殺そうと思っている人に 対して真正面からこれ以上ないほどに誠実な愛を示されました。主は、人の側の否定、拒絶がいよいよ明らかになっても、罪人を救うために十字架に向って粛々と歩まれたのです。(マタイ26章39 節) そしてご自分をそんな罪深い人の手に委ねられたのです。天の軍団によって助けられることを 求めず(マタイ26章53節~54節)、当時の法律に照らし合わせても何ら正統な理由もないのにあえて 捕えられ、ご自身の身柄を委ね、又不正と罪に満ちた異常な裁判を忍び、そして残忍な死刑の方 法である十字架刑をも拒まず、黙々と十字架の道を歩まれたのです。(イザヤ53章) そして、最後、 十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」 (ルカ23章34節) と祈ってくださったのです。

 神の愛は神を無視し、否定し、拒絶する者、ご自分の命を奪おうとする者をも愛する愛です。

 

③神が望んでおられるのは、悔い改めて、神のもとに立ち返ること

 何故、ペテロはこんな厳しい説教をしたのでしょうか。それはどんな罪人であっても神は一人 ひとりを深く愛し、救いたもう方であることを示すためです。そして自分なんか、大きな罪、深い 罪、赦されない罪をおかしたと思いこんでいる者に対して、あきらめないで主のもとに来なさい、 主にあって生きていきなさいということを明らかにするためであったのです。心が刺され、その無 限の愛が分かりましたから、主を殺害したイスラエルの多くの人々が救われたのです。

 

◆(終わりに)私たちは、十字架の釘、突き刺した槍

 繰り返すように、十字架の中心は身代わりです。けれどもそこに留まってはならないのです。大切なのは、どのような姿を持っている者の身代わりなのかということです。それは、ご自分を殺害するほどの、究極の罪を持っている者の身代わりであったということです。

 使徒たちは、十字架の意味を曖昧な、ただすばらしい恵みにしなかったのです。人の罪、醜さ、欲、憎しみ、殺意に満ちた姿を明らかにし、けれども神はそんな究極の罪人である者を無限の愛で愛されたと言うのです。神の愛は人間の愛と全く違うことを示すためです。

 よく言うことですが、私は、日本社会の中でキリスト教はその中心が正しく理解されていない と思っています。良い人生、清い人生を送るように教えている宗教と受け取られているように感じ ています。確かにそのようなことは結果としてありますが、しかし、聖書が伝えている中心ではあ りません。中心は、神によって創造され、生かされ、愛されていながら、その方に背き、無視し、 そして遂には人の罪を贖うために人のかたちを取られた御子を殺害する者を愛するほどの愛です。 人知をはるかに超えた愛が与えられ、確かな救いの道が開かれていることです。

 神が与えて下さった福音をきれいな、整ったものにしてはなりません。どうにもならない、手 の施しようがない私たちを最も深い犠牲を払って愛する愛なのです。そして、この愛を知る時に、 どうにもならなかった私たちの人生が新しくなるのです。ですから、まだ踏みとどまっている方は 悔い改めこの方のもとに帰って、新しい人生を送っていただきたいのです。本当の生きる力がそこ にあると分かるでしょう。人の愛は変わります。しかし、この神の愛は決して変わることがなく、 消えることがありません。この一年もこの豊かな愛によって神の民として生きて行きましょう。