神の時の中で

160110礼拝説教

■聖書:伝道者の書3:1-15       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

(伝道者3:11

1. はじめに     

 本日の御言葉が先ほど朗読されましたけれども、これをお聞きになって皆さんはどのように感じたのでしょうか。特に11節の御言葉、神のなさることは、すべて時にかなって美しい。というメッセージは多くの人がご存知のところだと思います。しかし、私たちにはこれを受け入れがたい状況、すなおにアーメン、その通りですと言いづらい「時」があるのではないでしょうか。

 先程お読みいただきました箇所、お聞きになっても分かる通り「時」というものが本日のテーマとなっています。長い箇所ですけれども三つのことが語られています。一つ目は、「時の中に置かれながらも、その意味の全ては知ることのできない人間について」、二つ目は「時を定め、歴史を支配しておられる神について」、そして三つ目、「しかし歴史の主は、そんな限りある小さな人間に「永遠」を与えてくださった」ということであります。一つずつ見て参りましょう。

2. 本論① 〜伝道者の書の人間観、時の中で無力な私たち〜

 1節から8節までをもう一度お読みします。まず1節、天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。すべての出来事には時がある、言い換えれば、時の流れの中ですべてのものは位置付けられていると言えるでしょうか。何か哲学的な話になってしまいそうですが、これは誰しもが知っていることであります。ある人は偶然といい、ある人は運命と名付けるかもしれませんが、とにかく一つ一つは時と結びついて存在している。そのように理解しているのです。彼が続けて、私たちの存在に関わる生と死について、さらには植物をはじめとする生物、そして人間の営み全域にまで話を進めて、「何事にも、すべての営みに時がある」ということを、非常に整った詩の形で伝えています。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるの時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

 一つ一つを見ていく時間はありませんが、それぞれに対になる事柄も、それぞれの時の中で行われているのだ、全てのことに時があるのだということを繰り返して教えています。農作物に関する「植えるや引き抜く」、建築に関する「崩すたてる」など、人間が考え計画して行う人間の行為であるように私たちは捉えていますが、しかしそうではなく、それにさえも定められた時があり、人が自分でやっているのだと思っていることもその定められた時の一部であると、伝道者は語っているのです。人が欲していようといまいと、すべての人はこの定められた時の中におかれていて、これに抗うことはできない。特に2節、一連の時の冒頭に掲げられる生と死は、まさにそのようなものであります。科学や医学の発達によって人のいのちを伸ばすことができるようになり、あたかも人がその命を、命の時をコントロールできるかのようになっています。けれども、ある日、突然の死というものが依然としてありますし、人体の中でもいまだ解明されていない現象はたくさんある。あるいは、朝目覚め、身支度を整え、今日このようにしてこの場所に集まるということも決して当たり前のことではない。神のみ心無しには、一羽の雀も屋根から落ちず、一本の髪の毛も頭から落ちることはないと言われたイエス様のみ言葉を思い出すようであります。

 説教の初めに、本日の箇所が開かれた葬儀の話をしました。神学校時代の先輩の葬儀でした。まだ若く、27歳の韓国人の女性で、もともと心臓に病を持っていてペースメーカーもつけていました。大学時代、日本での交換留学の経験で日本にイエス様の愛を伝えるという献身の思いが与えられ、日本の神学校に入学したと証しされていました。しかし、神学校二年目の秋、神学校から奉仕教会へ向かう際、土曜日のお昼でしたけれども、不整脈で突然召されたのでした。神様のために、日本のために働こうと立ち上がった彼女がなぜ、こんなにも急に、という思いでいっぱいでした。その葬儀で語られたのが、本日の箇所、「神のなさることはすべて時にかなって美しい」というもの。そして、「時にかなって美しいと、確信を持って言えるでしょうか」という問いかけだったのです。私はそれに対して、アーメン、その通りですとはいえなかったのでありました。志半ばで取り去られてしまったように感じたのです。彼女が日本に導かれ、宣教の召しが与えられたことだったら、素直に、時にかなって美しい!と告白することができます。けれども、そこに意味を見いだすことができず、受け入れることができなかった。

 このことに限らず、私たちにはなんでこんなことが起こるのかわからないということがたくさんあります。今まさに、そのような受け入れがたい時の中におかれ、主よなぜですかと叫び、でもどうすることもできなくて、あきらめて進まざるを得ない、そのような方がいるかもしれません。

 運命論者と呼ばれる人たちがいます。彼らはそのような時の流れるままに身を任せ、運命だからしょうがないとある種の諦めの世界を生きています。いや、私たちの中でもどこかそのように考えてしまうことがあります。「時」に対して無力な人間の様子を「海と、そこに浮かぶ船」として表した人がいました。不安定で測り難い海のような「時」があり、人間はその荒れ狂う波にもまれ右に左に揺れ動いている舟のようであると言うのです。あまりにも無力な状況にあって、彼らはしょうがないと諦めるのです。伝道者もまた、このような現実の前に呆然と立ちつくしています。この書の著者、伝道者とはソロモンとされています。サウル、ダビデに次ぐイスラエル三代目の王であり、神様によって知恵を与えられた人物であります。彼はこの書の冒頭から、憂いを帯びた言葉を発しているのでした。1:1-3エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。これは本日の箇所での9,10節にも登場しています(働く者は労苦して何の益を得よう。私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。)。さらに、1:4-9(朗読)。読んでいるだけで、こちらが物憂いのようになってしまう箇所です。12-14節では伝道者ソロモンが知恵を用いて、その意味を探ろうとしますが、それはすべて虚しく、風を追うようなものだと伝えています。人にはそれはできない。これが知恵を与えられた伝道者の書を貫く一つのテーマであると言えるでしょう。人間とは無力であり、時の意味を知ることができる、ましてや時を支配することなんてできず、ただただ波に飲み込まれるような存在なのです。

 

3. 本論② 神の時

 しかし、人とはそのようなものだと空しさを嘆く一方で、伝道者は、いわゆる運命論者の諦めとは違う結論を私たちに教えています。「時」は確かに偶然の連続に思えてしまうことがあり、私たちをもみくちゃにするように感じさせます。そこに意味なんてないかのように錯覚してしまうことがある。でも、そうじゃないということを彼は伝えているのです。それは3:1に戻り、定まった時期があり、という言葉に表されています。つまり、時を定められた存在がいる。時は無秩序に、いたずらに、でたらめに連続しているのではなく、計画に従って「時」があるというのです。言い換えるならば、すべての時には意味がある、時を定められた神様の意図があるということができるでしょう。だからこそ伝道者は人の空しさをつぶやき、時に対して無力であることを憂い、あきらめて終わるのではなく、時を定められたお方、天の上におられるお方を見上げ、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という言葉を残しているのでした。そもそも、光があれと仰せられ、光と闇を区別して朝と夕を作られた神様であります。ここに時が始まり、歴史は始まるのです。振り返れば、旧約聖書のいたるところに、神が時を支配しておられるということは語られていました。詩人は、「私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:15)と告白していますし、ダニエルという人物はさまざまな国が勢力争いをし、盛んになり衰えていく様子を見る中で、「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性ある者には知識を授けられる」(ダニエル2:21)と賛美します。

 この神と、神が支配されている時、そしてその時の中で生かされている人間の小ささを見たときに、伝道者は11節の言葉を残すのでした。11節、神のなさることは、すべて時にかなって美しい。ここで「美しい」と訳されている言葉、これは「適切である、ふさわしい、整っている」という意味での美しさであるようです。この教会では長くクッキング教室を開いています。その中である姉妹が、証しされていたことが私の心に残っています。作物は今はどの季節でも食べられるが、その季節になるものがやはり一番美味しく、私たちの体に合っている。夏の暑い時期には水分が多く、私たちの体を冷ましてくれる野菜が採れるし、冬の寒い時期には体を温める根菜が採れる。といったように、四季折々にふさわしい食物が用意されていると言うことをお話になられたのです。しかもそれは私たちの体にとって良いもの、健康にし整えるものであるのです。

 神を知らない人々は、時として残酷で受け入れがたい出来事の「時」に苦しみます。なんとか意味付けようとする人もいます。これは自分への試練だ、何か自分が間違ったことをしているからバチが当たったんだと意味づけしようとするのです。しかしそれらは虚しい。だから人は諦め、運命だからしょうがない。みんなそうだからしょうがないとなる。神ご自身の他にはこの時の意味を知っているお方はいないのです。だから神を知らない人は、時の意味を知ることがなく、自身が置かれている困難や受け入れがたい出来事は、無意味な、運命のいたずら程度にしかとらえることができないのでした。いや、これは神の定められたことである、神の計画であるということを知っているはずの私たちクリスチャンでさえ、時にかなって美しいという神様の言葉を受け入れられず、アーメンということができないことがあります。ある青年とこの御言葉について話をしました。わかっていても難しいですよねと、彼は正直に話してくれました。本当にそうだと思います。けれども、11節に続けて教えられていることが、私たちがどんな受け入れがたい時の中にいるときでも、私たちの目を神様に何度でも向けさせてくれる助けになることを、共に覚えたいのです。伝道者は人の小ささ、限りある存在であることを知らせる一方で、神様が時を定め、すべての歴史をすべおさめておられることを見てきました。そしてこんなちっぽけな人間に、時を支配しておられるお方は、永遠を与えてくださったのです。11節をもう一度お読みします。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心の永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。神は神、人は人。創造の主であるお方と、創造された被造物という大きな隔たりがあります。時を支配しておられるお方であり、私たちはその時の中で、荒波に揉まれる小さなもろい船にすぎないかもしれません。けれども、こんな私たちを神様は愛してくださり、永遠を与えられた。第二版では「永遠への思い」となっていますが、ヘブル語原文を見ますと、「永遠」と訳すのが、より元々の意味に近いようです。永遠とはなんでしょうか。それは限りある私たち、また作られた被造物の中にはないことがわかります。そうではなく、永遠とは唯一、作られずして存在しておられるお方、神様だけなのです。つまり、御子であるイエス様が人には与えられたのでした。もはや私が生きているのではなく、私のうちにおられるお方が生きている。これはパウロの確信でした。肉なる私たちは弱いものです。でも、私たちには永遠なる神、イエスキリストが与えられている。先ほど荒波に揉まれる船の話をしましたけれども、そのたとえには続きがあります。「不安定で測り難い海のような時があり、その上を人間の船が揺れ動いているようである。この小さく非力な舟の安定は、錨をおろしたときにのみ得られる。キリストの福音はその錨を与えるのである。」私たちが時という人の力を超えた大きなうねりに翻弄される時、私たちは大きく揺さぶられます。けれども、私たちには、私たちのうちに生きておられるイエスキリストがいてくださり、このお方が錨となって、荒れ狂う時の嵐の中にあっても、しっかりとそこにとどまり続けていられるのです。

 

 時を定められたお方が、永遠を与えてくださった。それは、私たちが神の時の中を生きるように、その時の中を生かされていることを忘れないようにだと思うのです。だからこそ、私たちは、希望を持って「神のなさることはすべて時にかなって美しい」と大胆に喜びを持って告白できる。

 

4. まとめ

 確かに人には永遠が与えられました。けれども、その意味を始めから終わりまですべて知ることはできません。では、結局は諦めるしかないのでしょうか。伝道者は、永遠が与えられた人間が、神のなさわることを知るときに、一つの姿勢を示しています。それは14節、私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。人は神を恐れなければならない。神を恐ること、これは聖書では知識の始まりだと言われます。そして、神に造られた人間の知識の始まりである神を畏れることとは、神を礼拝することであると言えるでしょう。これが、私たちの生きる道なのです。時の意味はわからず、なんでこんなことがと嘆きたくなるようなことがあります。けれども、それは神がなされたことだと知ることができる、意味が与えられる、神がふさわしいと言ってくださる。私たちはそれを知ることができるのです。