主にあって選択する

 

聖書個所 創世記12章1節~9節   ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを 受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 ヘブル人への手紙11章8節

 

❖説教の構成
◆(序)この個所の背景

 本日開いています創世記12章1節~9節は、聖書が伝えています救いの歴史にとって非常に大切な 個所です。何故なら、このアブラム(アブラハム)の召命から、救いの御技が具体的に始まっている からです。アブラムが主に召されて、その子孫が選民イスラエル民族となり、「聖なる国民、宝の 民、祭司の王国」(出エジプト19章)とされ、神の民としての生き方を示す律法が与えられたのです。 聖書が伝える救いの御わざは創世記12章2節~3節に「...わたしはあなたを大いなる国民とし、あ なたを祝福し、あなたの名を大いなるものにしよう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あ なたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とい うことばから始まっているのです。イスラエルを通して全世界に神の祝福、救いを証し、届けるた めでした。このような理由から、この個所は聖書全体の基盤と言ってよいところです。

 さてこの時、アブラムは父テラと一緒にメソポタミヤのカルデヤのウル、現代のイラクあたり、 月の神を崇拝する町から出た後でした。何故、アブラムが故郷ウルから出たのか、この時はまだ 父テラが存命中でしたが、その理由について聖書は何も記していませんが、おそらく人生を考え、 深い渇きを覚え、月の神を拝むことのむなしさに気づいたゆえと言われています。その思いを断 つことができず、内心の思いに促され、多くの親族から離れ、父、妻、甥と共に遠く離れたハラ ンまで来て、そこに住み着いたと思われるのです。

 ただ、このハランという地は故郷から遠く離れていましたが、実は同じ文化圏であり、完全に 新しい出発をしたとは言えない場所であったのです。決断をして故郷を出ながら、何故この地に留 まったのか、全体的な状況を考えるとおそらく老いた父テラの意向ではないかと思われますが、 ともかくそこで一旦落ち着いたのです。アブラムに主からはっきり召命があったのは、その地に 住むようになり、父テラが死んだ後でした。 

◆(本論)アブラムの決断

①主の語りかけに応じたアブラムの決断とはどういったものでしょうか。それを考えた時に、思 わされたのは、その決断は現代の人々が求めるような完全に状況把握した後や詳細なデーターを 知ったうえではないということです。聖書に「相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召し を受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11章8節) とありますように、全てを知り、状況を見通したうえでの決断、踏み出しではなかったのです。こ の召命に従えば、必ず幸いな人生を送るということがはっきりしている訳ではなかったのです。む しろ、これまで慣れ親しんだ風土、文化、生き方から離れ、全く知らない土地、人々の中に入る ことになりますから、苦難や試練に出会うことを覚悟していたと思われるのです。けれども、この 方の語りかけには何物を持ってしても決して埋まらない心の虚しさ、空白を満たすものがあると信 じ、委ねて出発したのです。

 現代日本のクリスチャンにしても報告によると、全国民のうち、僅か0.45%ですから、百人のうち、一人もいないのです。この道を行かないほうが厳しい摩擦を経験することもなく、人間的に は楽なのです。現実はそんな状況であるのに、何故、人は主を信じる決心をし、この道を歩もう とするのか、それは主のことば、福音が心の奥底にまっすぐ届き、喜び、力となっているからです。

 何もかも分かった上での決断ではなく、この方以外には心の深い渇きを埋めてくださる方はいない、ただこの方を信じ、この方に従って行くという人格としての深い決断によるのです。

 

②どのようにして、主からの召命と知ることができたのか

  アブラムが自分に語られている召しが主からのものと信じることができたのには、いくつかの 理由があります。まず第一にその語られている内容、目的のゆえです。非常にはっきりしていたの です。アブラムの渇きを癒すばかりでなく、自分と同様に霊的な渇きを覚えている人々のためとい う目的がはっきり示されていたからです。私は、自分に示されている道が本当に主からのものかど うか、知るうえにおいて、このこと、自分の祝福だけでなく、人々の祝福になるかどうかという ことはとても重要と考えています。

  二番目のことは、具体的に道が開かれていることです。使徒の働き16章には、いくら人の側が 願っても主御自身の御心でないならば、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ た」(使徒16章6節) 或いは「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにな らなかった」(16章7節)と言われています。即ち、具体的にその語りかけに応えて進もうとすると き、道が閉ざされない、開かれているということも主からのものとして受けとめることができる 重要な理由と考えることができるのです。アブラムが主の召しに応えて出発したとき、内にも外に も何もその旅立ちを妨げるものはなく、道が開かれていたのです。

 第三はその語りかけに従い、応答しようと決断することに平安、喜びがあることです。言うま でもなく、実際的苦労がないという意味ではありません。その道を行くならば苦しみがあるかも 知れない、しかし、それでも構わない、私にとって最も大切な道を進んで行くという確信があり、 平安があるかどうかです。聖書は、この時のアブラムの心境について記していませんが、出発し、 滞在した各地において、主のため、祭壇を築き、祈ったと伝えているのは、アブラムの確信の表 れということが出来るのです。

 そして、主からの召しであると知ることができる第四は、主にあって信頼できる生き方をしてい る人々の意見です。先に主に召されて新しい歩みをし、良い証しをしている人々の意見は大切です。 この世的な価値観ではなく、神にあって生きることを大切にしている人々が祈り、熟慮したうえで 賛成してくれるならば、主からのものと受けとめる一つの指標と考えて良いと思います。反対に、 自分では確信が与えられたと思っても、主を信じ、良い証しの生活をして来た人々が多く、慎重 に考えるべきと言うならば、じっくりと耳を傾ける必要があります。

 

◆(終わりに)決断する自由、決断しない自由。人はどちらも選ぶことができる。

 私たちはこの時の主の召しに対するアブラムが行った決断、応答を当たり前にように考えてい ますが、アブラムには従わないという道もありました。無視し、従わない自由もあったのです。 主に従うことは、自由が失われたマインド・コントロールではないからです。主の招きに応ぜず、 従わないで自分の望むところに留まるという自由はあったのです。けれども、多くの困難がある ことを予測したと思われても、アブラムは召しに応えて出発しました。自分の人生を曖昧なもの、 中途半端なものにしたくなかったからです。主の召しには真実のものがあると信ずることが出来、 これが自分の進むべき道だという確信があったからです。

 決断することには責任が伴います。実際の困難も引き受けなければなりません。しかしそれは、主の召しを拒み、楽なところに留まることから来る平安と比べ、意味のある苦しみです。聖書の 主に用いられた人物は安楽な道を歩もうとはしませんでした。主にあって歩むことを苦しみのな い、傷つかない平穏な人生を送ると考えるならば主を信じないほうが良いでしょう。実際、苦闘 することが多くあるからです。けれどもこの道にはそれらの苦闘にまさる喜びがあるのです。困難が多いこの国ですが、新しい年、この道を大切にして主の証人として歩もうではないでしょうか。