元旦礼拝説教 キリスト者と喜び

 

聖書:ピリピ人への手紙4:4-7   説教者:川口昌英 牧師

 

◆(本論)喜びの理由

①自身が拘束され、裁判を待つ身でありながら、何故、パウロは私は喜んでいますとか、又ピリ ピの人々に喜んでいなさいと言っているのでしょうか。 3章4節~6節(朗読)で自ら語っていますように、彼は選民イスラエルの中でも非常に恵まれた存在 でした。生まれ育ちの面において、神に対する姿勢、意欲の面において申し分がない人物でした。 さらに能力、賜物においてもガラテヤ人への手紙において「また私は、自分の同族で同年輩の多 くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」(1 章13節) と語っているように自他ともに、将来ユダヤ人社会において指導者となることが目されて いた人物でした。 このようにさまざまな面で恵まれていましたが、しかし、パウロのうちに喜びはなかったのです。 むしろ反対でした。切に求めていた神の義がどうしても与えられなかったからです。いくら学んで も行いに気をつけても神の義が与えられなかったのです。そのため、ただ主イエスを信ずるだけで 救われると言っていたキリスト者を神を汚しているとして迫害し、教会を破壊したのです。 そんな悩むパウロに主イエスが特別に顕われてくださったのです。(使徒の働き9章1節~9節)まさ に苦悶の真っ只中に主が語りかけてくださったのです。この経験によって、イエスこそ律法の学び や行動によってどうしても得られなかった真の救い、義を与えてくださる方であることが分かった 時、パウロは何にもまさる深い喜びに満たされたのです。イエス様を知り、心底、求めていた救い を与えられたことについて3章7節~9節で感動して語っています。(朗読)

 

 

②主の救い、主の十字架と復活を知る時、生き方の根底が変わります。またかと思われるかもし れませんが、主を知る以前、私は将来、こういう職業につきたい、そして社会の中でこういう生 き方をしたいという願いは持っていましたが、自分の内側深くに自分の人生はこれで良いと言え るものが何もないと感じていました。生活の目的はありましたが、生きる目的がなかったのです。 心の深くにいつも不安と恐れがありました。

 そんな思いから自伝「余は如何にして基督信徒となりしか」を読み、ひかれていた内村鑑三に 導かれて教会に通うようになったですが、少しも自分の深い所にある問題は解消しませんでした。 それどころか反対に益々、自分に自信が持てないようになって、教会に通うことが苦しくなり、 とうとう教会から離れてしまいました。いつも罪のことが言われて、内面に土足で入って来られる ように感じて嫌な思いを持ったからですが、今思うと人の前の姿と自分だけが知っている実際の 姿の違いを知らされて苦しくなり、その意識から逃避するために教会から去ったように思います。 そのように教会に行くことをやめよう、神について考え求めることはやめようと思ったものの、 内面そのものは少しも変わっていませんから苦しさはそのままでした。そうした日々を過ごして いるうちに、身内の病気を通して命のはかなさを知らされ、自分もなんとかしなければという思 いが強くなり、再び教会に行こう、今度はちゃんと向き合おうと決心し、教会に戻ったのです。

 ここには大切なものがあると感じるようになっていましたが、 けれども相変わらず教会で言わ れていることが分からなかったのです。聖書の中心は十字架による罪の贖いだと言われても自分と の繋がりが分からなかったのです。

 罪が分からなかったことによるのですが、突き詰めていくと自分のような者が神に愛されるは ずがないという思いがあったのです。しかし、ある時にいつも言いますように、ローマ5章8節(朗 読)によって、私が考えていた神の愛と聖書が伝えている神の愛は違う、聖書が伝えているのは罪 人、神を無視し、背き、自分の思う通りの生き方をしている者を愛する愛であると知ったのです。 それは衝撃でした。そして喜びであり、平安、希望でした。大げさでなく、これで生きて行ける、 孤独や死を恐れる必要がないと確信したのです。

 

◆(終わりに)神にある喜びは動かされることはない

 みことばが示す喜びは、表面的なものではありません。私たちの状況や感情から来る喜びでは ありません。それは、罪が贖われて失われていた状態から神のもとに迎えられ、神の子とされ、死 や終末の裁きの時にも勝利が約束されている御霊にある喜びです。(ガラテヤ5章22節、23節) たと い取り巻く状況が変わっても決して奪われることがない深い喜びです。

 またパウロが主にあって喜んでいなさいと言われていることに注目すべきです。神が私たちに与 えてくださった喜びは他の人との比較によるものではありません。比較から生まれてくるのは、人 間的なものであり、苦味しかありません。主が与えてくださった喜びは、比較によるものではな く、神が一人ひとりに対して与えられた救いからくる喜びです。それは失われていた羊が羊飼いに よって見いだされて、羊飼いの肩にかつがれて安全なところに連れ戻されて、これからはいつも羊 飼いの守りの中で生きるようになった喜びです。

 このようなことから6~7節で、どんなに心配なことがあっても一人だけで悩まないで、感謝をもっ てささげる祈りによって、神に委ねよ、そうすれば人の全ての考えにまさる神の平安がキリスト・ イエスにあってあなたがたを守ってくれると言うのです。

 尊敬するある牧師は起きた時に「主よ。感謝します。あなたを愛します。あなたに従います。」 という祈りをして一日を始め、生涯の終わりまで主とともに歩まれました。それを聞いた時から30 年以上経っています。そしてそのことの意味がますます深く分かるようになりました。 この新しい一年、主の喜びをもって共に神の民として歩みたいものです。