私たちを本当に支えるもの

 

❖聖書個所 イザヤ37章14節~21節   ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれ ば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。」イザヤ30章15節

 

◆(序)この個所について

①イザヤ書36章から38章は、南王国ユダが深刻な危機に陥った時のことについて記します。イザ ヤが預言者として召され(6章)、用いられたのはB.Cの740年頃からの約50年間ですが、その預言者 としての働きの終盤、ユダの国はその地方一帯に勢力を伸ばして来た大国アッシリアによって、絶 体絶命の危機にさらされています。既に姉妹国である北王国イスラエルは、B.Cの721年アッシリ ヤによって滅ぼされていました。イスラエルを滅亡させたアッシリヤ王、セナケリブはいよいよ勢いづき、ユダの国に攻め入り、 主要な町々を陥落させ、いよいよ中心地エルサレムに迫りました。客観的に見るならば、ユダの 敗北、滅亡は確実でした。

②イザヤは預言者として、このような状況の中で神の御心を王や民衆に伝えたのです。どれだけアッ シリヤの力が強くても主がユダの国を守り、これを退ける、あなたがたはただ主に信頼せよと語 り続けたのです。次のように語りました。

・「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あな たがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。』30章15節

・「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れ るな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来てあなたがたを救われる。』」 35章3節~4節

 イザヤは、このように神の名によって語りましたが、しかし、民の多くはそれらの神からのこ とばに従わず、エジプトに逃げるなど人間的方策をとろうとしたのです。 本日の聖書個所は、[アッシリヤの将軍によって語られている力を誇る生き方]と、[イザヤによっ て語られる神にあって立つ生き方]が対照的に示されているところです。年の終わりにもう一度、 私たちの生きる姿勢をともに覚えたいと願っているのです。 

◆(本論)いつまでも残るのは

①人間的力を誇り、勢いづく攻撃者の言葉は威力があるように見える。

・アッシリヤの将軍(ラブ・シャケ)はユダの高官たちにこのように言います。「ヒゼキヤ(ユダの王) に伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何により頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれによ り頼んで私に反逆するのか。」(36章4節、5節)

・また「王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはで きない。ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる。この町は決してアッシリヤの王の 手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私 に降参せよ。......」(36章13節~16節)

・さらに「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救いだしてくださると言っているのに、そ そのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出 しただろうか。ハマテやアルパデの神々(異教の神々)は今、どこにいるのか。セファルワイム(同じく)の神々はどこにいるのか。彼らは(その神々は)サマリヤ(北王国イスラエルの首都)を私の手から 救い出したか。これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレム(南王国ユダの首都)を私の手から救い出すとでも言うのか。」 (36章18節~20節)

 客観的状況、これまでの経過と現状の前には、神のことばは何の役にも立たない、何の力もな い、そんなむなしいものに頼るよりも力を持つ自分たちにひれ伏せと言うのです。 これは主を認めない人々がいつも言うことばです。主を信ずる者を攻撃する者、迫害者は常に このような言動を繰り返します。神を信じても何も状況は変わらない、生きて行くために必要な のは現実の力、立場であると言うのです。確かに、客観的にはアッシリヤの将軍が言っているこ とが正しいように見えるのです。ユダの国が生き残ることは考えられない状況でした。

 

②主に信頼することに救いがあった。 それに対して、主はわたしは生きている、主を信じる者の叫びを聞いていると告げます。主は預 言者イザヤを通して、強大に見える国アッシリヤはやがて敗走するだろう(37章6節、7節) またヒ ゼキヤが祈ったことに対し(37章15節~20節)、主がユダを守ると言われたのです。 絶対的危機の中、ユダの国はヒゼキヤ王を始めおもだった人々は、預言者イザヤを通して語ら れる主のおことばに信頼し、従う道を選びました。そこに、人間的に想像もできない奇跡が起こっ たのです。(37章20節~38節) 絶対と思われていたものが崩れたのです。 状況が違いますが、私にはこういう経験があります。重い病状の中、死の不安を訴えた方がお られました。26年前、私たちがこの教会に赴任したばかりでした。いよいよ危ないという中で何 も言えず、病院のベッドのそばでただ聖書、主イエスの十字架の場面を読み続けました。そうする と本当にその人の表情が変わったのです。そして苦しい中、平安と希望を言葉に出されました。そ して間もなく、天に召されました。みことばを通して聖霊が働かれたことをはっきり感じまし た。 付き添っていた方から不安を訴えていると夜遅く電話があって出かけて行った最初の様子と 表情が一変していました。人間的に何もできなかったですが十字架の場面を読み続けた時に聖霊 が働いて、揺るぎのない平安を与えてくださったのです。

 

◆(終わりに)人を真に支えるのは主を仰ぎ、主とともに生きること。 私たちはとかく客観的状態、突き当たっている問題の難しさ、これまでの状況や今の状態を見 ます。そしてその状況が変わることはないと思い込みます。この困難な状況は何があっても決して 変わらないと思うのです。 そんな中で主のみことばに信頼することは何の意味がないように見えるのです。しかし、本当 に不思議なことですが、そのような時にもみことばを信じて委ねるなら、以前には考えられなかっ た、心と思いが守られ、しっかりと立つことができ、問題に対して立ち向かうことができるのです。 ローマ書8章のなかでパウロは次のように言います。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助け てくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言い ようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(26節) そして「神を 愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて 益としてくださることを、私たちは知っておられます。」(28節) 更に「私たちすべてのために、ご 自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私た ちに恵んでくださらないことがありましょう。」(32節) 自分の経験から確信を持って語るので す。 本日のところでも見ましたように常識や客観的状況が力を持っているように見えます。そし てそういう状態がいつまでも続くように見えるのです。しかし、聖霊がともにおられるのです。そ して人間的なものよりもすばらしい状態に導いてくださるのです。ですからここに立ち続けること が大切なのです。中心聖句であるイザヤ30章15節を読んで終わりにします。