くびきを共にされる方

 

❖聖書個所 マタイの福音書11章28節~30節      ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが あなたがたを休ませてあげます。 マタイの福音書11章28節

 

❖説教の構成
◆(序)この個所の背景

①主イエス様がお生まれになった当時のイスラエル社会の宗教事情、又人々の霊的状態について 学者はこう言っています。「それは、パリサイ派の黄金時代でした。これほど祈った時代はなかっ たでしょう。しかし、これほど真の祈りがなかった時もありませんでした。これほどいけにえが ささげられた時代はなかったでしょう。しかし、これほど真のいけにえがささげられなかった時 もなかったでしょう。見えるところでは、これほど偶像礼拝が行われなかった時代もありません でした。しかし、これほど偶像礼拝に満ちていた時もありませんでした。これほど、神殿礼拝が 行われた時代もなかったのですが、しかし、これほど、神に対する真の礼拝がなされなかった時 もなかったのです。うわべの奉仕はまたとないほど行われていましたが、心からの奉仕は、また とないほど少なくなっていました。神殿に行く人の数は、どんな時代とも比較できないほど多かっ たのですが、聖徒の数はどんな時代よりも少なかったのです。」 主がお生まれになった当時、人々は選民としての歴史を受け継ぎ、その意識の中心にある律法に 基づいて生きようとしていたのです。旧約時代、姉妹国が当時の大国に侵略され、滅亡したこと、 又先祖たちが別の大国によって捕囚の民とされ、時を経てやがて帰還し、母国を再建したものの 再び新興の周辺の国々にたびたび占領され、従属させられ、そして今もローマ帝国の植民地とし て従属させられているという中で、民たちは自分たちは神から選ばれた特別の民である、また律 法が与えられていることに自らの存在基盤、存在理由を見いだし、自分たちを誇っていたのです。 

②先に見たように、この時代の人々は旧約時代の先祖たちのように、行動として偶像礼拝に流れ ることなく、律法を重視し、その解釈や言い伝えまで信仰生活の規範としていました。そしてそ んな現れとして、紀元前6世紀~5世紀の捕囚時代に起源を持つ会堂を地域社会ごとに造り、安息日 ごとに共に集まり、礼拝をささげ、律法を学び、又こどもたちを教育したのです。そしてその中に あって強い影響力を持ったのは律法を専門的に学ぶ律法学者であり、律法を厳格に守ろうとする パリサイ主義でした。ちなみにパリサイの語源は、ファリサイ、分離するということばです。世の 汚れから分離して神にある取り分けられた生き方をするという意味です。

 

◆(本論)そんな人々に主イエスが伝えたこと

①このように主がお生まれになった時代は、表面上ではアブラハムからのイスラエルの歴史全体 の中でも比較的、神、主を中心とした時であったのです。 しかし、民衆の実態はどうだったかと言いますと、人々は、律法に基づいた生活、神殿礼拝や 会堂での安息日遵守を強調されることによって心や霊は疲れていたのです。というのは、自分や周 りの人々の病気や身近な者の死によって苦しみや悲しみを経験していても、指導者たちによってそ の苦しみや悲しみが受けとめられ、理解され、慰められることはなかったのです。中でも律法に ついて教育を受けていなかった者たちや取税人などの特定の職業、特定の病気にかかった者たち は汚れた人々と看做され、神の恵みにあずかることから徹底的に除外されていたのです。 人々が何よりも苦しみを覚えたのは、教えられるように誠実に律法と取り組み、その中心にあ る神を第一とし、又隣人を自分と同じように愛する生活を送ろうとしても(マルコ12章28節~33節)、 実行できなかったことです。そのため、神の前における自分の罪の姿や又死後、神の裁きを受けることを思うと、人々の心から喜びは無くなり、一層苦しさと自己否定の思いが募ったので す。このように一見この時代は比較的霊的に見えたのですが、実際は誰もが疲れ、重荷を負うよ うな日々を送っていたのです。

②神でありながら、人の真の問題である罪と死の支配より救うためにお生まれになった主は、福 音を宣べ伝えて行く中で、人々を深く慈しみ、愛しました。主の地上でのご生涯について記す福 音書には、そんな個所が随所にありますが、本日の個所は、そんな主の慈しみと深い愛が特に示 されているところです。 主は、まず「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」と言われます。先程、話したようにそれ ぞれ疲れ、重荷、生きていく力を失っている理由は違いますが、実は根は同じです。どこにも救い などない、神の愛などない、苦悩からの救いが感じられないことです。特に試練に会っている人 は、こんなつらい試練に会うとは神は愛ではない、又社会から疎外されている人は神も自分を排 除している、更に律法を実行できずに苦しんでいる人は、いつの日か神の裁きを受けるという思 いで心が一杯になっていたのです。いづれも神は身近な方ではない、おられるとしても愛なる方で はない、ただ恐れる方という思いです。 それに対して主イエスは、世界を創造し、いのちを与え、生きる使命と目的を与えられた真の 神は、一人ひとりをかけがえのない者として見られる愛なる方だと言うのです。神の愛から漏れて いく者は一人としてないと言われるたです。そしてすべて疲れた人、重荷を負っている人よと呼び かけているのです。

 続いて、主はそういう者たちに「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて あげます」と言われます。その理由として29節、30節を言います。詳しく見る時間がありません から中心点だけをとりあげますと、主のくびきを負うことによってたましいに安らぎが与えられ ると言うのです。くびきとはよく話しているように、重い荷物を運ぶために牛や馬を二頭立てにす る時に互いを繋ぐ木のことです。このくびきに繋がれることによって、弱い方が守られ、支えられ 一頭だけでは運べない重い荷物を運ぶ事が出来、前に向かって進むことができるのです。 主は疲れ、重荷を負っている全ての人に対して、わたしがあなたとくびきを共にする、共に歩き、 共に重荷を負う、そうする時にあなたは心の奥底に安らぎ、本当の平安、希望、力が与えられる と言うのです。自分はだめと思いこんでいた心の底に、わたしがあなたの近くにいて、あなたの全 てを受け入れ、あなたと共に歩むと言われるのです。 どのように主はそれをなされるのでしょうか。十字架というくびき、十字架による罪の贖いに よってです。造られた者でありながら、自分を中心にし、神から離れていた者をご自分が身代わり として罪の刑罰を受けてくださり、神のもとに買い戻してくださるのです。このくびきによって、 一人ひとりを受けとめ、罪を贖い、新しいいのちを持つ者、神の子としてくださるのです。(ロー マ8章15節)

 

◆(終わりに) クリスマスは、わたしのもとに来なさいと招かれている時 主はこのようにすべて、疲れた人、重荷を負う人はわたしのところに来なさい。わたしがあな たがたとくびきをともにしますと言われています。例外はないのです。主の誕生から死、そして復 活までずっと一本の線で貫かれています。一人ひとりを滅びより救いだすためという目的です。 周りの世に溢れているクリスマスは明るさ、暖かさ、楽しさに満ちています。しかし、これほど実 際のクリスマスと異なる光景はありません。主は誰にも理解されない、苦しんでいる者とくびき を共にしてくださるために暗く、汚れた、寒い家畜小屋の中でお生まれくださったのです。このす ばらしい恵みを感謝し、この方を迎え入れ、そしてこの方とともに歩いて行きましょう。