病を負い、痛みをになうために

■聖書:マタイの福音書8:14-17       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4

 

1.はじめに

 アドベントの第3週、クランツには三本目の明かりが灯っています。クリスマス、イエス様の誕生を待ち望むこの時期ですが、イエス様はどのようなお方なのかを今日、共に教えられたいと思います。先ほど司会者の方にお読みいただいた箇所の最後、17節にある預言の成就は、すでにお気づきの方もいるかと思いますが、共に読み交わしました交読文の箇所でもあります。イエス様の時代から遡ることおよそ700年。この長い時を経て実現した預言、イザヤを通して約束されていたお方がイエス・キリストであります。そのお方の誕生であるクリスマスの恵みに心を向け、イエス様がなんのために世に来てくださったのか、私たちにどのように触れてくださるのか。みことばに聞いて参りましょう。

 本日はイエス様の公生涯の長い1日の最後の場面を見ていきます。少し本日の箇所の背景を抑えておきたいと思うのですが、この8章には、三人の病人の癒しが描かれています。本日のペテロのしゅうとめの前には、百人隊長のしもべで中風にかかった者、さらにツァラアトに冒された人が癒されています。8章の冒頭には山から降りてこられると、とありますが、これは有名な山上の説教が終わって、山を降りられたということであります。つまり、山上の説教で「権威ある者のように教えられた」(7:28)イエス様は、今度は目に見えて不思議なわざをもって人々を教えられた、と言えるのであります。また、山上の説教の後に置かれている本日の癒しの出来事だということを考えるときに、イエス様がなぜ世に来られたのかということを、すでにイエス様ご自身が山上で語っていたことを思い出します。それは5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」本日の箇所では預言者イザヤの預言が成就するというところが中心になりますが、まさにそのために私は来たのだとイエスはすでに言葉で教え、本日の箇所ではわざで示された。そのような場面です。    

 

2.「癒しを与えるために来られたお方」 

 それでは本日の箇所、14,15節をもう一度お読みします。それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。山上の説教を終え、二人の病人を直した後、イエスはペテロの家を訪れました。なぜこの家を訪ねて来たのかは書かれていませんが、これまでの流れを考えると、1日の終わり、休息を取るために弟子の家に来たのではないかと想像できます。しかしそこにいたのは熱病で苦しむペテロのしゅうとめでした。ガリラヤ湖の岸辺に住む、漁師ペテロの一家ですが、この地域には水辺に多くあったためマリラヤのような熱病が流行っていたようです。ペテロの妻の母親もこれを患っていたのでした。

 これまでに癒されたのは、先ほども触れましたようにツァラアトの病人と、百人隊長のしもべでした。ツァラアトとは、人々から忌み嫌われる汚れた病です。見た目にもわかるような皮膚の病気であっただけでなく、それは何か大きな罪を犯したからだとされていたようで、ツァラアトにかかった者は後ろ指を指され、街中に住むことができずに、郊外に集落を作っていたようです。人々と交わることは厳密に禁止されていた。そんな人にイエス様は手を伸ばして触れたとあります。この様子を見たイエスを取り巻く人々はさぞ驚いたことでしょう。権威あるもののように語られたお方が、当時の権威者であった律法学者たちが堅く禁ずる病人と接触を持ったのです。また、続いて登場する百人隊長はユダヤ人を統治するローマ側の人物、敵対する立場の人物です。すなわちユダヤの人々からは民族的に嫌われる人物であった。つまり、本日の箇所までにイエス様が癒されてきた二人の人物は、いずれにしても人々からは見捨てられた人であり、その意味では肉体的な痛みを持つだけでなく、心の面でも大きな痛みを負っていたことがわかるのであります。いや、ある程度の肉体の痛みは医者によって直せますが、心の深くに刻まれた孤独や悲しみは人の力では消すことができません。そんな様々な痛みを覚えている人にイエス様は手を伸ばし、その人に触れ、癒しを与えてくださったのです。そんな人々を癒したのちに、一介の漁師の配偶者の母にすぎないペテロのしゅうとめを癒されたのです。この箇所からペテロは既婚者だったと分かる興味深い箇所なのですが、妻のことさえほとんど書かれていない聖書の中で、その妻の母の病気のいやしをピックアップして書くということは、やはりイエス様がどのような人の元へ来たのかを優しく教えているように思います。歴史に名を残すはずもない、イエス様でなければ目を留めることもない一人の人をイエス様はご覧になり、手を伸ばし、癒しを与えられるのでした。

 権威ある人のように教えられたかと思ったら、ユダヤの人々からは遠ざけられてきた、目を止められることもなかった人々を癒して来られた。さらにその知らせを聞いた人々は癒しを求めて、イエス様の元に集まってきたとあります。16節、夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。マルコとルカもこの箇所について書き記していますが、医者であるルカはこの箇所をもう少し詳しく、次のように言い表します。「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」病気で弱った人たちは、抱えられてきたとありますから、自力では動けないような人々だったのでしょう。そんな重病人に対して、イエス様は「ひとりひとりに手を置いて」いやされたのでした。病気のいやしの記事は多く聖書にありますが、ここでも、先ほどに引き続いて大切なことに気付かされます。それは、イエス様はその他大勢の人々を救われたわけではなく、ひとりひとりに顔を向け、マタイによるとことばをかけ、手を置いて関わりを持たれていたということです。その人その人を大切なひとりひとりとしてイエス様は関わってくださるのでした。イエス様の力を誇るために大勢のいやしを書いたわけではなく、一人に一人に生活がある私たちと同じ一人一人を、癒されたということです。やはりここでも、先ほどから見てきましたように、一貫して、イエス様の目が誰に向けられていたのかを表している箇所であると言えるでしょう。このお方は、誰のために来られたのか。それは人から見捨てられ、あるいは自分でも自分の価値を見出すことができない、受け入れることもできないような傷つき悲しむ人々のためだったのです。いやされた最初の二人は、本人あるいは周囲の人々がイエス様に癒しを求めていましたが、ペテロのしゅうとめはというと、ペテロも姑も周りの人々も、イエスに助けを求めたわけではありませんでした。正確に言うならばマルコとルカは人々が助けを求めたと書いているのですが、マタイはあえてそれを書いていません。イエスの疲れを考慮したのか、権威あるお方をわずらわせることについて恐れを覚えたのか、あるいは当時の流行病で姑も高齢であってもう無理だと諦めていたのかもしれません。それはわかりませんが、助けを求める声は発せられなかった。にもかかわらず、イエスはその苦しみをご覧になり、癒しが必要であると手を伸ばし、手を取って起こされたのでした。声なき声にも答えてくださるお方であるのです。

 さてこの16節では、悪霊を追い出すことと病気を癒すことが並べて書かれています。それは、特定の病、目に見える身体的な病気からの回復だけを指すのではなく、私たちすべての罪人に襲いかかり、ますます罪にひれふさせる悪魔の攻撃からの解放が教えられる、ということになります。そして悪霊からの解放、病のいやしは、次の17節によって私たちの罪の問題にまで広げられます。17節、これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」本日の中心にもなるこの箇所は、これまでの三つの癒しの出来事のまとめとしての役割を持つ一節であり、そしてイエス様が世に来られたことの意味を表す一文になっています。預言者イザヤを通して言われたこと。それは、先ほどの交読文でご一緒に詠み交わした、旧約聖書イザヤ書53章の箇所であります(朗読)。旧約聖書の中には様々なメシヤの姿が預言されていますが、ここもその一つで、「苦難の僕」と呼ばれる箇所であります。しかし多くのユダヤ人たちは、この苦しみを担うしもべとしてこられるメシヤ像を忘れ、ダニエル書などで示されるようなユダヤ民族を外敵の手から解放するという、強いメシヤ像ばかりを追い求めていました。もちろんこれもイエス様のメシヤとしての大切なお姿ですが、ローマの圧政に苦しむユダヤの人々はイザヤ書を忘れてしまったのです。そんな中でマタイはこのお姿を強調しているのでした。

 ここでの「わずらい」とは、別の箇所では病、病気などとも訳されている言葉です。それは元々「強くない」状態、「弱さ」を表す言葉であったようです。健康面における「弱さ」で病と訳されることが多いのですが、それだけでなく、心が満たされた状態、平安である状態についての「弱さ」として、不安やわずらいの意味もあります。つまり、十分ではない様子、何かが足りない、欠けている、満たされていない状態を表す言葉としてここでは使われているのです。こう考えた時に、私たちは皆、この弱さ、わずらいを持っているものであることに気づくのであります。それは、神様の元を離れた人間、罪人の姿なのです。全てが良かったと言われる創造の世界には罪や死はなく、弱さや病などもなかったことでしょう。しかし人は罪を犯し、そこにい続けることができなかった。的外れと呼ばれる、本来いるべき場所、神様の元から離れてしまい、満たされたない「弱さ」であり、大切なものが欠けている「病」を負ったのです。「死に至る病」という有名な本を記したキルケゴールという哲学者、神学者がいます。彼は、この「死に至る病」とは、キリストを知らない者の絶望であると言い表しています。望みがない状態、それに気づいていてもいなくても、いのちに至る道はキリスト以外にないという意味で、生まれながらの人は皆、やがては死に至り、死に終わる病にかかっているのだというのです。ポイントは、この絶望、この病に気づいていてもいなくても、人は皆、この病に侵されているということです。自分の力ではどうすることもできない病を抱えて生きている。ある人は、自分自身の孤独を見て、また抱えている傷や悲しみを見て、この病に気づきますが、しかし自分ではどうすることもできないのです。

 そんなすべての人が負っている病、弱さ、わずらいを代わりとなって身に負うためにイエス様は来てくださった。ヘブル4:15を見ますと、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。さらに5:2では、彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。イエス様の誕生はこの点でも私たちのためでありました。すなわち、お願いをすれば全自動で無機質に癒しを与えるのではなく、私たちの苦しみにも寄り添い、背負うために近くに来てくださった。引き受けるため、代わりに担うためには、近くに来なければならないのです。本来ならば天の御国にあって、罪や弱さ、汚れとは一切関わり合うことのないお方です。そんなお方が、私たちの病を担うために、地に来てくださった。本日の箇所で直接描かれているのは身体的な病のいやしです。けれどもこれらを見ても明らかなように、イエスが背負われる病の先には私たちの罪があり、その罪を含めすべての病を負うそのために、イエス様の十字架があることをマタイは伝えているのであります。

 同じイザヤ53章を土台に書かれている箇所に、1ペテロ2:24があります。自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、その打ち傷によって私たちはいやされた。それは遠く見えないところからビビビといやしを与えるのではなく、罪と、それによる痛みを身に引き受け、背負ってくださり、傷つき苦しむ私たちを癒してくださった。

 実はこの箇所、イエス様が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負うために来てくださったということを書いているのはマタイだけです。マルコもルカも、ペテロのしゅうとめがいやされたという出来事は書いていますが、それが、イザヤの預言の成就であるとは言っていません。それからもわかるように、イエス様が見捨てられた者に手を伸ばすお方であり、罪を背負いわずらいを身に引き受け、病を背負うために来てくださった方であるということは、マタイにとって特別なことであったのです。それは、彼の救いの場面に関わっていました。マタイがイエス様に出会ったのはマタイ99-13節、取税人であったマタイの元にイエス様は来られました。そして彼の家で彼と同じ取税人や罪人たちといったユダヤ人からは倦厭される人々と食事をし、語られます。「…医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。(少し飛ばして)…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」この言葉を自分の家で、自分に対する言葉として聞いたのがマタイです。自分は医者を必要とする病人のように、赦しを必要とする罪人である。こんな私のために、イエス様は来てくださったんだ。マタイもまた、ペテロのしゅうとめと同様自分からイエス様に声をかけることはできませんでした。自分なんかが受け入れられるはずがないと経験から決めつけていたのでしょう。現に多くの人々はそうだった。いや彼自身、自分がやっていることが悪にまみれていたことを知っていましたから、自分自身でも受け入れられるはずがないといわば諦めていた。そこにイエス様は来られた。私と出会い、ついてきなさいと呼びかけてくださった。世に言う立派な人、高貴な人ではなく、どん底にいてみんなから嫌われる罪人の私を招くため、私のために来た癒し主であると語られたのでありました。

 マタイの喜びがここにはあったのだと思うのです。彼もユダヤ人ですから、当然イザヤの預言は幼少の頃から聞き知っていました。700年前の預言が、自分に差し伸ばされた手を通して示されたのです。だからこそ、他の福音書記者は描けなかったこの一文を彼は喜びをもって書き残したのです。イエス様が来られたのは自分のためだとわかったのです。自分の弱さを担って下る方だとわかったからに他なりません。そしてそこから2000年、今日を生きる私たちにもこのイエス様の御手は伸ばされています。罪人を招くために、自分ではどうすることもできない病を負い、痛みをになってくださるために、イエス様は来てくださった。

 

3.「癒される喜び、癒された者の生き方」 

 このようにイエス様に触れられ、イエス様によって満たされ、いやされた者には、感謝にあふれた生活が始まるのでした。少し戻りますが、高熱が出ていたしゅうとめは癒されました。熱が出ていたということは相当体力も減っていたはずですが、癒された彼女がまずしたことは、イエスをもてなすということだったのです。これは癒された喜びに押し出されたしゅうとめの、自然の行動として奉仕が描かれています。さらにマルコとルカはイエスと一緒にいた人々にも仕えたというように書いていますから、ここに、イエス様によってわずらいを背負われ、病をになっていただいた者、いやされた者の、感謝に満たされた奉仕の歩みが始まるのです。またキリストの体である教会は、傷つき悲しむ者たちに対して働きかけてきました。イエス様のように病を癒すことはできなくとも、イエス様がそうされたようにその痛みに寄り添い、悲しみをともに担う共同体としてこの地に置かれているのではないでしょうか。改めて、私たちの使命を思わされます。

 マタイもまた、主の声に応え、感謝にあふれてイエスの十二弟子の一人に数えられるようになります。彼も他の弟子と同様に、十字架にかかられる時には逃げて行ったことでしょう。感謝にあふれて始まった信仰の生活においても失敗はあります。けれども彼は帰ってきて、彼でなければ描けないイエス・キリストを表すための器として用いられたのです。このためにイエス様は来てくださったのだ。慰めに満ちたメッセージを、癒された彼が伝えるのです。

 

4. まとめ

 イエス様は私たちがいやされることを待っておられます。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。クリスマスは、私たちを何とかしていやそうとして伸ばされる神様の愛の御手のあらわれの日です。私たちの病をいやし、心を満たして平安を与え、罪の束縛から解き放つ救いのみわざがここにある。この呼びかけに応え、イエスが私の元へ、私たちの元へ来てくださったことを喜ぶ、そのようなクリスマスになればと願います。そしてまだこのお方を知らない、しかしいやされなければならない病を負っている多くの方々に、この愛のお方を宣べ伝えて参りましょう。お祈りをします。