ご計画の実現

 

聖書個所 マタイ1章18節~25節   ❖説教者 川口昌英牧師

❖中心聖句 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼 ばれる。」 マタイの福音書 1章23節

 

❖説教の構成
◆(序)この個所の背景 待降節第二週です。本日はこのところからクリスマスの本質、インマヌエル、神は私たちととも におられることについて教えられたいと願っています。23節の「インマヌエル」について見る前 に、ここには降誕に関する大切な事柄が多く出ていますから、まずこの個所についてあらためて 説明致します。一節づつ見ることにします。

①18節...母として選ばれたマリヤについては、ルカ1章26節~38節に詳細に記されています。中心 地エルサレムから遠く離れた辺境のガリラヤのナザレに住み、大工ヨセフと婚約し、まだ一緒に 住まないうちに、御使いから、聖なる者、神の子と呼ばれる男の子を産むと告げられたのです。 処女から子が生まれること自体ありえないことであり、まして神の子が生まれるなど考えられま せん。何より自分が神の御目にとまるなど想像すら困難です。マリヤは、それを告げられた時、 ひどくとまどっています。しかし、御使いから「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があな たをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。...神にとって不可能 なことは一つもありません。」(ルカ1章35節~37節)と言われた時、それが実現するなら自分の身 にどのようなことが起きるのか、人々から強い非難、裁きを受けること、ヨセフとの婚約解消等 を覚悟したうえで「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身 になりますように。」(ルカ1章38節)と従う決断をしたのです。

②19節...一方、婚約者のヨセフは(夫とありますが、婚約者は律法では夫、妻と同様に扱われた) 主の律法を大切にする人でした。そのヨセフに婚約者マリヤが妊娠したという知らせがあったの です。事実であれば姦淫の罪であり、公にされ、厳しい罰を受けねばならないことでしたが、ヨ セフは、マリヤをさらし者にしたくなくて内密に婚約を解消しようとしたのです。

③20節~21節...しかし、そのヨセフにも御使いが夢に現れました。マリヤの胎に宿っているのは、 聖霊によるものであり、その名をイエス(ヨシュア、主は私の救い)とつけよ、この方こそ、ご自分 の民を罪から救ってくださる方であると告げられたのです。中心地エルサレムから遠く離れた地方 に住んでいた名もなき若き女性と、元はダビデの家系でしたが、今は何の立場も持たないヨセフ に、御使いは救い主誕生を知らせ、地上での母、父としたのです。宮殿や邸宅に住む王族や貴族 ではなく、無名の貧しい、しかし、神に従順な男女を大切な務めを担う者として選ばれたのです。

④22節...この22節の表現は、とても大切なことを伝える表現です。特にマタイの福音書の中に11 度も出ています。救い主誕生、その生涯、最後は旧約預言の実現であることを伝える表現です。救 い主誕生は突然言われたことでなく、旧約聖書の中で何度も預言されていた人を罪より救うため の神の深いご計画が実現であると言うのです。

⑤24節~25節(23節については本論) ...御使いから、上記のことを告げられたヨセフはその通りに 従い、マリヤを迎え入れ、見守り、そして生まれた子を言われた通り、イエスと名付けたのです。 ヨセフも又生まれた子がどのような存在であり、どのような使命を担っているかを理解し受けとめ たのです。 

◆(本論)23節のインマヌエル、神は私たちとともにおられるという意味

①第一に、一人子を賜うほどの神の究極の愛が実現したということです。(ヨハネ3章16節) 愛が真 実のものであるかを見分ける基準がいくつかあります。一番の基準は、相手のために自分の大切 なものを犠牲にするかどうかです。愛という言葉を用いたとしても、相手のために自分は何も犠牲 にしていないなら本物とは言えないのです。神は、罪と死の支配の中にいるすべての人(義人はい ない、一人もいない。ローマ3章23節) のために、旧約時代からイスラエルを選び、律法を与える など、救いの御技を行って来られましたが、最後のみこころとしてご自分の愛する御子イエスを罪 よりの救い主としてお送りくださったのです。 聖書にふれる人は日本でも少なくありませんが、共通して先に進むことができない、困難に感 じていることがあります。神が正しい人ばかりでなく、正しくない人をも愛すると言われること、 また神は人の救いのために何も求めないで最高の犠牲を払ってくださったと言われることです。正 しい知識、清い生活、厳しい修行が必要だと言われるならば分かるのです。神は、一方的にまた 何も見返りを求めることをしないで最高の犠牲を払われたと言われると分からないのです。 神が示された愛は驚くべきものです。神は、一人ひとりをかけがえのない者として見ておられる 方であり(イザヤ43章4節)、人は自分の罪のために何もできないことを分かっていますから、見返 りを求めることなしに、一番大切な御子を救い主としてこの地上にお送りくださったのです。「イ ンマヌエル」(神が私たちとともにおられること)が実現したということは、この驚くべき愛が実現 したということです。

②すべての罪を贖うということ インマヌエルのもう一つの意味は、人のすべての罪が贖われる道が開かれたことです。御子が罪 の性質を持つ以外、すべて人と同じくかたちを持ってこの地に来られたのは、人のありのままの 姿をつぶさに知るためでした。そして人の弱さ、醜さ、もろさをそのまま受け入れ、「悪い考え、 不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、妬み、そしり、高ぶり、愚かさ」(マ ルコ7章21節~22節) などの具体的な罪を贖うため、ご自分が犠牲になって罪の代価の払い、赦し を与えるためでした。特にこの具体的な罪に関して言うならば私たちは、よく引用します例話の ように、夢の中でイエス様を自分の家に迎えた人のようではないでしょうか。主を客室などのさ まざまな部屋に案内し、主よ、この部屋もあの部屋もあなたが私の家の主人です、どうぞご自由 にお使いくださいと言うのですが、主が嫌な臭いが漏れている一つの部屋の前に立ち止まって、 兄弟、ここは何ですかと尋ねた時に、主よ、この部屋だけはおゆるしください、いくらあなたで もお見せすることができませんと拒んでいませんか。主は言われます。兄弟、私は、あなたが誰 にも見せることができないと思っている、醜さと弱さともろさが満ちているこの部屋の汚れを取 り除くためにあなたのところに来たのです。神が私たちとともにおられるとは、私たちの誰にも 知られたくない罪を中心として全ての罪を贖うためなのです。家畜小屋のような暗く、汚れた、冷 たい私たちの中心をあたたかいものとするためでした。

 

◆(終わりに)神がともにおられる姿 主の御降誕は、信じる者の人生の中心を新しくするためです。私は、そのインマヌエルが実現し ている姿は、詩篇23篇の羊飼いのもとにある羊のようなものだと思います。良き羊飼いによって 守られ、満たされ、慰められ、励まされ、力を得ている姿です。私たち自身は弱い羊ですが、全 てを知っておられる羊飼いがともにおられますからすべてを委ねて日々を送ることがができるの です。以前の私たちと同じように諦めている人々に是非、インマヌエルの恵みを伝えようではあ りませんか。クリスマスはそのためにお生まれになった方と出会い、迎え入れ、その方に委ねて 人生を新しくスタートする時です。大切な人にインマヌエルの恵みを伝えましょう。