平和をつくる者として

■聖書:マタイの福音書5:9     ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9

 

1.はじめに

 昨日まで一泊二日のCSキャンプがもたれました。幼稚科小学科の先生方が本当に心を配って準備され、「イエスさま、みっけ」をテーマにしたキャンプでした。私はメッセージの奉仕をさせていただいたのですが、準備をしている時からイエス様が一緒にいてくださるって本当に心強くて、安心して、嬉しいことなんだ!ということを感じることができ、感謝な時でした。すでに洗礼を受けて何年も経っている皆さんにとって、イエス様とはどのようなお方でしょうか?ぜひ、日々問い直し、味わっていただけたらと思いますし、また自分が信じているお方が、自分にとってどのようなお方なのかを紹介することは本当に良い証になります。交わりや本日のような証の機会に、ぜひ教えていただけたらと思います。さて本日の説教も、キャンプのテーマにならって言い表してみますと、「イエス様こそ私たちの平和である」ということになります。これから詳しく見ていきますけれども、馬小屋での誕生の際には天使たちによる「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美されたお方であり、その誕生のおよそ600年前には、預言者イザヤによって「平和の君」と預言されたお方であります。このお方にこそ平和があり、このお方によってのみ「平和」がもたらされる。このイエス様についてみことばから教えられて参りましょう。

   

 

2.聖書が教える「平和」の広がり

 この夏、様々なところで平和について聞く機会がありましたし、また私たち自身も考えることが多かったのではないでしょうか。戦後70年、これから日本がどのような道を進んでいくかを考えるときにこの「平和」というものは、単に理想で終わらせてはならない、このように考える人が増えているように感じます。本日はこの「平和」について、聖書が教えているところをともに見て行きたいと思っていますが、最初に申し上げたいことは、聖書が教える平和とは単に戦争や争いがないということだけではないということです。それどころか、もっともっと広く深く、この世の苦しみや悲しみ、悩みからの解放である、それは私たちの救いと密接に関わるものなのであります。

 聖書の辞典があり、平和について調べてみました。どの辞書にも様々なことが書かれているのですが、大きく二つのことを本日、最初に確認したいと思います。一つは「平和とは、欠けがない状態、満たされている状態」と言う意味です。二つ目は「正しい関係にあること」です。この二つが聖書の教える「平和」の核となる部分であります。と言いましても、この二点は別々のことを言っているわけではありません。正しい関係こそが、満たされた状態である。このように位置付けられるでしょう。 

 

⑴「欠けがない状態、満たされていること」

 一点目は、「欠けがない状態、満たされていること」であります。この「平和、また平安」などとも訳されている言葉、旧約聖書ヘブル語では「シャローム」という言葉が使われています。これは今日でも、イスラエルの人々の挨拶の言葉となっていますし、新約聖書の手紙などを読んでいても「平和があるように、平安があるように」と挨拶のたびに願っていることに気づきます。それは「悪いことがありませんように」ということよりももっと積極的に、「あらゆる良いことを持って満たされますように」と言う意味を持った祝福の言葉でした。しかもそれは、神さまによって「満たされるように」という願いです。礼拝の最後に祝福の祈り、祝祷というものがあります。この礼拝から送り出され、それぞれの場所で一週間の歩みを始めるために、祝福を持って送り出すという意味があります。その祈りの中に「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」という言葉があります。ここでもやはりシャロームが使われています。主の御顔の前を歩く時、それが平安である、平和であるというのです。これだけ見てみましても、単に戦争がない状態を平和と呼んでいるのではないことがおわかりいただけるでしょう。これをまず押さえ、二点目、もう少し踏み込んで「満たされていること」を「正しい関係」の観点から見ていきます。

 

⑵「損なわれ傷ついた関係が、正しい関係に回復されている」

となりびととの関係 

「平和」という言葉を聞いてまず思い浮かべるのは、他者との平和、特に国と国、社会と社会との平和を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、先ほどのことも踏まえて考えますと、たとえ国家間の戦争や民族間の紛争がなくとも、人間関係が満たされている、神様の前に祝福されているとはとても言えない今日の状況があります。信頼することができない、愛することができない。私たちの国にも傷つき見捨てられ悲しみの中にいる人は少なくありません。助けの声はあげられている。けれども、その声を聞き、その手を取る人は多くはない。知っているはずなのに、関わり合いになることを避け知らないふりをする。他者の痛みに無関心となる。マザーテレサという人は、愛することの反対は無関心であると言いましたが、これは正しい関係ではないのです。いや私たちの周りに限ってもそうです。では正しい関係とは何か。それは創造の時、罪が入る前のエデンの園、神様を中心として生きていたあの「神のかたちに似せてつくられた」状態です。言い換えるならば、罪によって損なわれてしまったあらゆる関係を回復する、ここに聖書の教える「平和」の大切なポイントがあると言えるのです。先週の祈祷会で見たことですが、人は本来愛し合う存在、交わりの中に生きるようにとつくられたにもかかわらず、罪によって堕落し、関係が壊されてしまったことを見ました。神様によってふさわしい助け手が与えられた男は「これぞ私の骨からの骨、肉からの肉」といって、この関係が完全であること、完全に一体であることを喜び歌います。しかし罪が入るや否や「あなたが私のそばにおかれたこの女が、あの木からとって私にくれたので、私は食べたのです。」といって神様との約束を破ってしまった責任を妻に押し付け、さらにはその妻を与えてくださった神様のせいにして、責任転嫁をしているのです。愛し合う二人、一心同体であった二人は、信頼とは程遠い、裏切りや憎しみが入り込んだのです。正しい関係は傷つき、壊れてしまった。さらに続く章では、この憎しみは大きく膨れ上がり、兄弟が兄弟を騙し、殺すという殺人まで起こっている。この罪が、今日の私たちの中にもあるのです。この罪があり、民族間の憎しみや差別、そして国家間の戦争が生み出されてくるのです。 

 *インマヌエル・カントは『永遠平和のために』という書物の中で、「休戦は単なる敵対行為の延期(一時停止)であって平和ではない。平和とは一切の敵意が終わることで、「永遠の」という形容詞をそこにつけるのは、かえって疑念を起こさせる余分な言葉であるとも言える」としている。さらに「一緒に生活する人々の間の平和状態は、決して自然状態なのではない。自然状態はむしろ戦争状態である。だから平和状態は創設されなければならない」と記しているのです。これもまた、罪ゆえに壊れてしまった正しい人間関係を教えていると言えるでしょう。

 

自分自身との関係 

 さらにこの人間関係の中には、少しおかしな表現かもしれませんが「自分自身に対する関係」も含まれます。先ほど、罪によって他者のと関係が壊されてしまったというお話をしましたけれども、自分自身についてもそれは当てはまるのです。ある説教者がこう言っています。「自分の中には様々な思いがあり、それゆえに苦しんだり迷ったり悩んだりしている。そのような人生には幸いも安全もなく、絶えざる緊張と絶えざる内的な抗争があるのだ。人間は歩く内乱であり、自分のうちのそのどちらが勝利を得るか知りません。現実の人間は、バラバラに分裂した人格であり、統合される必要があるのです。」これもまた、自分自身を振り返っても思胃当たる節があります。救われた後のパウロでさえ、「したいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪ばかり行っている」と言っています。さらに、自分自身を受け入れることができない人は、本当にたくさんいるのです。言い換えるならば、自分価値を見出せない、自分が生きている意味がわからない。これもやはり、創造時の正しい関係からはかけ離れています。人は神様の愛を受け、その愛の中で生きるように創造されました。つまり、自分の居場所は神様のもとであるということがはっきりしていたのです。しかし、その本来いるべきところから離れた罪人は、その居場所を失い、自分の価値を成果でしか測れなくなってしまった。当然それは限界がありますから、少しつまずけば、もう自分を受け入れることができなくなってしまったのです。確固とした自分の存在の理由を見つけられなくなってしまいましたから、いつもビクビクしながら、周囲との関係を気にして生きている。他者と自分を比べて時に誇り、時に惨めな思いになってしまう。平和は平安とも訳されると言いましたが、別の箇所では、より身近な言葉で「安心」とも訳されています。このような安心が、私たちにはあるでしょうか。

 

神との関係 〜以上の損なわれた関係の根本問題がここにある〜

 他者との関係、また自分自身との関係が壊されてしまった。それを見てきました。正しい関係、「平和」とは程遠い姿が私たちの姿です。その大元の原因はどこにあるのでしょうか。もう既に、少し触れてきましたけれども、それは神様との関係が壊れてしまったことにあります。人は生まれながらにして罪を持っています。ここでお話ししている私も、すでに救われているクリスチャンも、私たちの目にはとても立派に振る舞い、成功を収め、人として優れているように見える人もそうです。それは神を知らずに生きているからです。先ほどから申し上げていますように、人は神様の元で、神様の愛を受けて、神様との親しい交わりの中で生きるようにつくられました。にもかかわらず、自分勝手に生きるようになってしまった。だから、本来の素晴らしい人間関係、自分との関係は損なわれてしまったのです。愛されていることを知らなければ愛することはできず、受け入れられていることを知らなければ、受け入れることはできない。当然、正しい関係、満たされた状態である「平和」とは程遠いところに私たちはいたのです。

 この神様との関係が回復されなければ、そこから始まる人間関係、自分との関係は回復されるはずもありません。平和はあり得ないのです。ではどうすればいいのか。私たちは居場所を失い、関係を一方的に断ち切ったのですから、自分から神様との関係を、ひいてはとなりびととの関係、自分自身との関係を回復・修復することはできません。そんな私たちのために、イエス様はこれらたのです。もう一度、冒頭でお読みしましたエペソ書の言葉をお読みします。2:13〜「しかし以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…」キリストこそ私たちの平和である。この手紙を書いたパウロはかつて怒りを持ってキリスト教徒を迫害し、その手を血に染めていた人物でした。そんな彼がキリストに出会い、イエス様の十字架の意味を知り、平和を語るのです。イエス様の十字架は隔ての壁を打ち壊す。この隔ての壁は「正しい人間関係、自分との関係、そして神様との関係」を壊す壁でした。私たちは罪人であり、自分ではこの壁を壊すことができなかった。この壁の中で苦しみ、悲しみ、安心とは程遠い生活をしていた。しかもそれが当たり前だと思っていた。しかし神様は私たちを見捨てずに、なお正しい関係を持とうと手を伸ばしてくださった。それがイエス様の十字架です。このお方によって、壁は壊され、正しい関係は回復される。まさしく、平和の君によって、地の上に平和への希望がもたらされた。だからこそ、「キリストこそ私たちの平和」なのです。言い換えるならば、キリスト以外に私たちの平和はない。

 

3.「平和をつくる」とは?

 以上の「平和」を踏まえて、改めてこれらが人の力で与えられるものではないことに気づかされます。平和はあくまでも神さまのわざである。新約聖書の中には、何度も「平和の神」という表現が出てきますけれども、これもやっぱり、平和はただ神のものであることを意味しています。それでは、マタイの福音書5:9「平和をつくる者」が幸いだと言われ、「平和をつくる者」となるように励まされている理由はなんでしょうか。平和を保つものは、とか、平和を愛する者は幸いです、とは言われていません。繰り返しになりますが、聖書が教える平和は決して当たり前のことではないのです。戦争がない、程度といっては語弊があるかもしれませんが、そんなものではないのです。いや戦争がない程度、と言う言葉があまりにも遠くに感じるのは、人の罪深さのゆえでしょう。それが無くなるなんて事は、ましてや、さらに広く人が人を憎むことをやめ、無関心ではなく、それどころか愛し合うようになるなんてことは、現実をあまりにも知らない絵空事であるというように語られてしまうのです。国連本部がニューヨークにありますが、その壁にはイザヤ書2:4のみことば「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣をあげず、二度と戦いのことを習わない」という言葉が刻まれています。70年前に造られた国連がこの言葉を掲げているということは本当に大きな意味があると思います。しかしその実現は今なお遠いものであり、これが単なる理想にすぎない、時代遅れの実現不可能なお花畑のような考えであるとされつつあります。私たちはどうでしょうか。戦争はおろか、あらゆる貧困や差別、苦しみや悲しみがない世界が実現すると、心から信じ願っているでしょうか。

 そんなとき、私たちは私たちの想像をはるかに超えて働かれる神様を知らなければなりません。それは、そしてイエス様の犠牲的な愛を受けたものでなければ、もっと言えば、この愛に生かされているものでなければ平和をつくることはできないことです。言い換えれば、イエス様がわたしのうちに生きていてくださらなければ、となりびととの平和も、自分自身との平和も、神との平和も、果たし得ない。祝福の内容に、その人たちは神の子どもと呼ばれるとあります。少しこの9節を砕いて考えますと、神の子どもと呼ばれるものは、平和をつくる者であり、幸いである、となります。「神の子ども」それは、平和の君であり、キリストこそ平和であると言われるそのイエス様を信じ受け入れること、その名を信じた人々に与えられる特権であります(ヨハネ1:12)。私たちは平和の君を受け入れたのだから、平和の神の子どもとされたのだから、平和をつくる、正しい関係へと導く、そのような役割が与えられているのです。となりびとを愛することを知り、自分自身を受け入れることを知り、そして、神との豊かな交わりこそが私たちのただ一つの慰めであり喜びであることを、クリスチャンは知り、信じています。私たちはそれぞれ置かれたところにあって、平和の神を父に持つ神の子どもとして、また平和の君と呼ばれたイエス・キリストに似せられていくのであります。

 

4.まとめ

 実現は困難で、これを叫ぶことが愚かなような罪深い風潮があります。いや、私たちの身の回りを見ただけでも、本当の平和は遠いように思ってしまいます。けれども先ほどの国連の壁に刻まれたイザヤ書の箇所、少し前には、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘丘よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れてくる」とあります。終わりの日、これは必ず実現します。私たちはこの日を目指して、それぞれの置かれた場所にあって平和の君を証し、神の子どもとして平和をつくる者の幸いを目指して参りましょう。