一粒の麦として

◆聖書個所 マタイの福音書22章15節~22節      説教者 川口 昌英 牧師 

 

◆(序)この個所の背景

①このところは、主が人の罪を贖う十字架刑を受けるためにエルサレムに入り、「神の国」のことを語ったことに対し、パリサイ人たちが主を陥れようと罠をしかけている場面です。彼らは、主が自分たちの高ぶりや頑さを指摘したことに対し、ますます主に対する憎しみを持つようになったのです。(こういった思いはパリサイ派だけでなく、律法学者や祭司たちにも共通していました。) そのため、彼らは主を陥れるために巧みな罠、カイザル、ローマ皇帝に税金を納めることは、律法にかなうかどうかという罠をしかけたのです。

 当時、イスラエルはローマの属領とされ、税金を納めることは自然なことでしたが、宗教的にはローマ人は汚れている異邦人であり、その異邦人に仕えることは神の前には選びの民としてふさわしくないという考えがあったのです。一方、税金を納めることを拒むならローマ帝国の法に背き、秩序を乱すことになると受け取られたのです。どちらにしても評判となっていた神の人、イエスを陥れることができると計算したのです。

②そんな彼らの巧みな罠に対して主は、この税金、人頭税を納めるときに用いられた硬貨を示して彼らの問いに答えています。その硬貨を指して、だれの肖像であり、だれの銘かと問われ、カイザルのものだと答えた彼らに「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」(21節)とご自分の考えを明らかにされました。この答えがあまりにも見事だったので、告発しようとしていた者たちは何も言えず、立ち去ったのです。(参照 ヨハネ8章1節~11節も同様)

 しかし、注目すべきは主が用いられた知恵のある答え、カイザルの肖像と銘が刻まれている硬貨を指して答えたことではないのです。その言われている内容なのです。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(21節) この言葉の中に、パリサイ派を始め、高ぶり、人生の中心を取り違えている者たちの誤りを指摘し、人本来の生き方を取り戻すように言われているものがあるからです。


◆(本論)主が伝えようとしたこと

①繰り返しますが、この個所は罠にかけ、告発しようとしていた者たちを反対にやり込めたことが中心ではありません。そういう状況ですが、主がこのところで真に伝えようとしているのは後半の、神のものを神に返していない者たちへの非難、警告だったのです。

 分かりやすい表現で言われていますから、ともすればここは現実社会のことはこの世の支配者に、霊的事柄については神に従うべきという現実世界と霊的世界を分けて考えるというように説明されることがありますが、主はそのようなことを言っている訳ではありません。

 聖書がこのような考えをとっていないのは、例えば、この世の支配者との関係について言われているローマ13章や初代教会の使徒たちの姿勢について記されている使徒の働き4章19節~20節などを見ると分かります。それらを見ると分かるように「上に立てられている権威」は無条件に立てられているのではなく、明らかな目的「あなた(国民)に益を与えるための神のしもべ」として立てられています。(ローマ13章4節) 或いは「あなたがたよりも神に聞き従うべき」(使徒の働き4章19節)と言われていますように、現実社会と霊的世界を二分し、現実社会のことは人の領域であるからその事柄の是非について判断するまでもなく、この世の権力者に従えと言っているのでありません。反対に、この世の権力者も神からの目的、使命を果たすために立てられている神のしもべであるとはっきり言っています。このように単純な考え方ではないのです。しかし、世界の教会史を見ても日本の教会史を見ても、多くの時代、教会は、この個所は現実社会と霊的世界を区分けし、この世のことに関しては

この世の支配者に従うべしと考え、第一戒に背きながらそれを正当化するというあやまちを犯して来ました。

②こうして、全ての最終権威は神にあるという前提のもと、主は、現実社会において統治の働きを行っている人々も神からその使命、役割を与えられている者たちですから、その目的に仕え、沿っているなら彼らに従いなさい、従う必要があると言うのです。(ローマ13章)

 しかし、主がここで中心的に伝えようとしたのは、実はそのことよりも人は高ぶっている、神のものを神に返していない、神のものを奪い取っている、神のものは神に返しなさいということです。人は、生きるうえにおいて最も大切な「知恵の始め、知識の始め」といわれている主を恐れること(箴言1章7節、9章10節)を置き去りにしていると言うのです。

 たとえば律法学者、パリサイ人たちは本来、神のものである律法を人々に教え、指導しながら自分たち自身はその律法によって砕かれていませんでした。むしろ自分たちは特別な存在であるかのように振る舞い、律法やそれに関する教えを自分たちに都合よく利用していたのです。(マタイ23章参照) 祭司もまた本来、ただ主にのみ仕えるはずなのに社会的な権力者として振舞っていたのです。特に大祭司は政治的に重要な立場を占めていました。


◆(終わりに)日本の教会は問われている

 昨日8月15日は、1931年の満州事変に始まるアジアでの戦争、1941年からの米英を中心とする連合国との戦いである太平洋戦争、いわゆる15年戦争の70年目の敗戦記念日でした。もっと遡って明治初期からの韓国との関係から見ると、70年有余に渡る、武力を背景として近隣諸国を侵略し、国勢拡大を目指した国家方針が崩壊、否定された時です。

 とかく日本国内で戦争と言いますと、全国における空襲による多数の非戦闘員の死や都市の破壊、広島、長崎における原爆投下、唯一地上戦となった沖縄戦や強制的に徴兵された多くの人々の無残な死などが言われますが、日本の国家、国民は特に韓国、中国を中心として確定されていませんが、推定約2.000万人以上の人々を殺害し、財産を奪い、人権を強圧したのです。決して日本国民は戦争において被害を受けたばかりではありません。日本国民は戦争を推進した者たち、現場で戦った者たちを通して各国の人々に筆舌に尽くせない被害を与えたのです。

 問題はこのような深い傷跡を残す罪を犯したのは、国家、国民だけではなかったということです。罪よりの贖い主キリストを信じ、告白する日本の教会も、国家神道を基底とし、異論を徹底的に排除し、全体主義体制を築き上げ、戦争遂行のために国内統制を厳しく行う体制の中にあって、当時の国体に全面的に従う教会を形成したのです。確かに、近代プロテスタントの宣教以来、日本の教会は常に日本の伝統、文化、土壌に合わない異質なものとして見られ、特に15年戦争下、全体主義体制が強化されるようになって特別に厳しい監視のもとに置かれましたが、忘れてはならないのは、日本の教会はそのような監視体制の中、やむを得ず、当時の国体に従ったのでないということです。詳しいことは戦時体制の中で当時の教会が行ったいくつもの戦争協力宣言や行為、教会員教育やアジアのキリスト教会に送った書翰などを見ると明らかです。受け身的ではなく、むしろそのような国家に協力する姿勢、行動こそが神に仕える道だと確信し、行動したことです。そして戦後もそのような姿勢、行動について長い間、主の前に悔い改めようとしてこなかったのです。主が与えられた教会を戦争のために利用し、主の前に罪を犯したと認めて来なかったのです。これが私たちがうけついでいる歴史であり、元々持っている性質、弱さです。私たちは関係がないとしてはなりません。前の時代のことといえ、心から悔い改め、本当の主にある教会をたてあげることが大切です。しかし、それはいつも世、現実国家に反対するという意味でなく、世や現実国家に流されるのではなく、キリスト者として世や現実に対してここに本当の道があると責任を持って証しすることです。それが常に主がキリスト者に願っている道だと確信します。一粒の麦としての歩みです。