キリストのしもべとして

■聖書:エペソ人への手紙6:5-9       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ6:6-7

 

1.はじめに

89112分を心に刻む。

・この長崎の日を覚える時に、原爆の被害に遭われた方、今なお様々な苦しみがこの地にあることを覚えます。そして同時に、人間が作り出し制御することのできない原爆の罪、さらには、戦争がこれほどまで甚大な損害を与えたものはなんだったのかと問わずにはいられません。罪を認めることができない、美化しようとするというものはあるのではないか。それは今日にもはっきりと見て取れる、人の負う罪の性質であり、それが社会全体の悪となって再び暗闇が色濃くなっているようであります。そのような中にあって私たちクリスチャンはどのようにあるべきなのでしょうか。先日の広島平和式典での首相の挨拶が問題となっておりますが、その発言で傷つき、あるいはその背後にある、平和とは程遠い戦争への道を見て不安になっている方々は少なくありません。そんな世にあって、地の塩・世の光として召されている私たちは何ができるのでしょうか。本日の箇所では、当時はごく普通の制度としてあった奴隷制について、パウロの考えを見ることができる箇所です。社会に対してキリスト者がどのように立っていくのか、またそのような社会にあって、キリストのしもべとして支えていくとはどういうことかを見て参りましょう。

2。2.神の国の秩序


   前回までの箇所を簡単に振り返って見てみましょう。5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」というところから始まって、私たちの置かれている人間関係の基本的なところ、夫婦について、親子について語られていました。妻は夫に従い、夫は妻を愛する、子は親に従い、親は子を主の教育と訓戒によって育てる。これが、パウロが伝えた人間関係のあるべき姿でした。夫婦、親子。これらは社会を形成する中心のような人間関係であります。それをキリストの愛の教えに従って、キリストの愛を知った私たちが作り上げるということが本日の背景にはありました。パウロは神の喜ばれる社会を作ること、言い換えるならば、神の国をこの地上で実現するようにと教えているのです。振り返ってみれば、私たちが連続して読んでおりますこのエペソ人への手紙は教会について教えられている書物です。罪と罪過の中に死んでいた私たちは、神に対しても人に対しても真実に愛することができずにいました。しかし、イエス様の十字架によって隔ての壁は打ち壊され、神と人との和解が与えられた。そして私たちがキリストにあって一つであることが4章で強調して語られていたことです。その一致の中で「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」4:16)と、教会が建てあげられていくのでした。神の国が建て上げられていく。主の祈りで「御国が来ますように」と先ほども祈りました。イエス様は、神の国は私たちのただ中にすでにあると言われています。その神の国を、このキリストのからだである教会をもって表していく。パウロはそれを訴えているのでした。続く5章では、救われた私たちは、愛されたこどもらしく、聖徒にふさわしく、光の子どもらしく歩むようにと言われていました。キリスト者にふさわしい歩みが述べられていたわけです。それに続く5:21節以降ですから、やはり救われたキリスト者にふさわしく、あるいは教会のあるべき姿が語られていたわけです。それこそが、神の国の秩序なのでした。

 さて、本日の箇所にあります第三の関係、主従関係について見て参りましょう。6:5をお読みします。奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。先ほども申し上げましたように、本日は奴隷と主人、主従関係について教えられています。エペソの「教会」に宛てて書かれた手紙ですから、当時の教会にはこのような奴隷がたくさんいたということがわかります。まず第一に、教会における主人と奴隷の関係はこのようであるということがあります。どちらもが救われたものであるとき本日の箇所に見られるような麗しい関係があるのです。しかし、現実はそうではないことが多いでしょう。現にいつの時代でも、奴隷は常に虐げられていました。当時のローマ帝国には、この奴隷に関わる法律がありましたが、そこにはこうあります。「奴隷は人間ではなく「物」であり、主人と奴隷には何の共通点もない」そこに友情はあり得ませんし、また彼らの最大の恐れは、彼らの命、人生が主人の気まぐれに左右されるところだったのです。当時の作家は「奴隷に対して主人が行うことはすべて審判であり、正しい裁きであり、法律である」ここまで言い切っていたのです。当然人格なんて認められていなかった。本日は二つの切り口から見て行きたいと思いますが、一つ目は、今少しお話ししたような文字通りの奴隷と主人の問題であります。ここではパウロが奴隷制について、さらにはそのような社会に対してどのように語っているのかについてお話ししたいと思います。そして二つ目には、もっと広く、仕える者と仕えられる者、今日の私たちにも深く関わる問題として、キリストのしもべとして他者に仕えるとはどういうことなのか、これを見てまいります。

 

3.奴隷たちよ、主人たちよ

 さて、早速一点目について、ですが、先ほどからお話ししていますように奴隷は主人の所有物であり、人格は認められず、財産として数えられていました。生かすも殺すも主人次第という状況が当たり前であったのです。その結果として奴隷も自らの価値を見出すことができず、まして奴隷の子供は生まれながらに運命が決まっていましたので、そこに何の生きる価値も見出せなかったのです。国も法律も、主人も、いや奴隷自身でさえ自らの存在意義を見出せなかった。人としての尊厳なんて持ち得なかったのです。ご存知の通り、今日では少なくともこのような奴隷制度は、歴史上の長い戦いを経てほとんど無くなっています。別の格差は生まれており、それが一層深刻化しているということは忘れてはなりませんが、少なくとも制度としての奴隷制は歴史の中で悪であると判断され、廃止されてきたのです。しかしパウロはというとどうでしょうか。奴隷たちよ立ち上がれ、権利を主張せよ、奴隷たちに自由を!などと声高らかに歌っているわけではありません。いやそれどころか、文字面だけを見ますならば「主人に従いなさい」と、さらなる服従を命じているようであります。それではパウロは奴隷制、社会の誤った、人を人とも思わないこのような体制を認めていたのでしょうか。一方で私たちは、これをかつての誤った歴史、今では意味をなさない古い考えだと切り捨てて読むべきなのでしょうか。そうではないのだと思います。

 パウロは確かに解放を叫ぶことはしませんでした。しかしそれは、奴隷制を認めているからではなく、奴隷にのしかかる問題がそれだけで解決するのではないことを知っていたからでした。言い換えるならば、より根本的な解決を与えようとしているのです。制度の廃止は確かに大切です。社会を変えるために立ち上がらなければならない時が必ずあります。けれども、パウロの戦い方はあくまでもみことばによっていた。奴隷も一人の人間であり、神の前にある人間としての生活があるということを、まず奴隷自身が知らなければならないと訴えたのです。国や法、そして自分自身が捨てていた人としての尊厳、もっと砕いて言うならば愛されていると言う実感、高価で尊いと言われる神様を知らなければならない。置かれた場所がどこであれ、その場所その場所で自分の存在の意味を知らなければならない。これがパウロの確信でした。これはとても大切なことであります。奴隷や主人ほど私たちの人生は明確に位置付けられていなくても、私たちの人生には良いときもあれば悪い時もあります。でも、そのどこにあってもいつも変わらずに居られる神様を知り、その神様が自分を愛してくださっている、受け入れてくださっている、それを知ることが何よりも重要なのです。この奴隷たちはエペソの教会にいた奴隷たちでした。それは彼がただの奴隷ではなく、キリストのからだに属する者、キリストのからだを家とし国としている者たちであったということを意味しています。彼らはこの世の国に属する者、その社会制度の中に「奴隷」として位置付けられた者でした。けれども、もっと重大なことは、彼らがキリストのからだに属するものとして、神の国の民であったということがあります。その生活の方が大切だった。私たちも同じです。この日本という国に生まれ、日本人として生きている私たちです。しかし、我らの国籍は天にあると信じています。奴隷から解放されることはもちろん望むところであっただろうが、しかしそれよりも大切なことは、どこにあっても信仰によって生きることであった。パウロはそれを知っていたからこそ、ここですぐに解放を訴えずに、神に喜ばれるキリスト者の生き方を教えているのです。奴隷と主人の問題が色濃く出ていますピレモン書、ピレモンの元を逃げ出した奴隷オネシモについて、パウロは「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、すなわち、愛する兄弟として」受け入れてほしいとピレモンに願っているのです。これこそ、神の国です。主人は奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れる。奴隷は愛を受けた兄弟としてそれに応え仕える。このように考えてきますと、「従いなさい」とは言われていますが、それは当時の奴隷制における「従い方」とは正反対の勧めであるということに気づくのです。パウロの戦いはこのようなキリスト教の本質に立つ戦い方でした。もちろんだからと言って奴隷制度のような社会悪を放っておいて良いわけではありませんし、無関心であってはならない。

 けれども、この本質的な改革から、奴隷解放の具体的な動きは始まっていくのです。先ほど賛美しました「驚くばかりの」という賛美、これは「アメージンググレイス」として有名ですけれども、ジョンニュートンという牧師の作詞であります。父の仕事の関係で奴隷船の船長として働いていた彼が、難破しながら奇跡的に助かった「驚くべき恵み」を歌ったものであります。この出来事がきっかけで彼は牧師になり、奴隷貿易反対にも力を尽くしていきます。さらにこのジョンニュートン牧師に影響を受けた政治家が生み出され、ほぼこの黒人奴隷貿易によって成り立っていたとさえ言われるイギリスの社会の中で奴隷貿易反対の戦いが起こっていくのです。その政治家の記念館では、奴隷制がなくなった今日でも格差社会の中で虐げられている人々の活動拠点ともなっているそうです。このイエスキリストによって救われたという経験が、一人の人がどのように生きるのかを方向付けたのです。この順番を忘れてはならないのだと思います。イエスキリストが私たちを罪と死から贖い出してキリストのものとしてくださったのだから、人は人の奴隷になってはならないし、人を奴隷にしてもならないのだ。いやそれどころか、愛する兄弟として受け入れるのだという。解放だけを訴えても人は罪人ですからまた別の格差が生まれてしまいます。今日がまさにそうであると言えるでしょう。もちろん、早急に声を上げなければなりませんが、私たちはいつもこの十字架の愛の土台に固く立っていたいと思います。パウロは福音によって神の国が実現することを信じていました。いやそれは、イエスさま自身が語られたことです。ある安息日、イエス様は会堂に入り、手渡されたイザヤ書をお読みになりました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」そして、宣言されたのです。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」主による解放は、すでに成就している。それゆえ、解放された神の民と神の家族には、新しい秩序が徹底され、そこに神の国を建て上げなければならないというのでした。以上が第一点目、奴隷と主人にパウロが求めたことであります。

 

4.人を差別されることのない神の前で

 続いて二点目は、もう少し広く、キリスト者として働くということについて考えて見ましょう。本日の説教題にもしました、「キリストのしもべのように仕える」ということです。キリスト者の労働観などとも言われる事柄について考えていきたいと思います。先ほどは虐げられた奴隷たちのことをみてきましたが、ある牧師は本日の箇所の説教でこのように言っています。「一世紀のクリスチャンの奴隷は、自分の仕事に努力するための、考えうる最高の動機が与えられた。それは地上の主人のためではなく、第一にキリストのためであった。クリスチャンはキリストの奴隷であり、だからこそしいられてではなく、喜びをもって、真心から神のみ心を行うべきなのだ。」一見奴隷解放とは正反対の勧めをしたパウロですが、しかし神の愛を知った奴隷たちは、たとえ表面的なところは変わらなかったように見えても、しかし喜びを持って、そこに確かな意義を見出して働くことができたのです。それは今日の私たちにも通ずるところであります。

 もう一度6:5-7節をお読みします。奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。ここでは明らかにキリストに従うことと地上の主人に従うことが並行して書かれています。 今年度、青年会には「仕える」ことを考えたいという思いが与えられ、それぞれが「イエス様のように仕える」とはどういうことであるのか、考え祈っております。その中で私自身が強く考えさせられているみことばが、マタイの福音書6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方で憎んで他方で愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」このみことばはいつも私たちに問いかけてきます。私たちは今誰に従っているのか、仕えているのか。先ほどのエペソ書には「キリストに従うように」「主に仕えるように」とありましたが、ある人々、特に仕えられる立場の人々ですが、このみことばを利用して主人の権威を主張しました。絶対服従を言い渡したのです。けれども、それは真実ではありません。聖書全体を読むならば、先ほどのマタイの福音書にもある通り二人の主人に仕えることはできない、わたしたちの主はただキリストお一人であるということが明らかなのです。目に見えるところでは、私たちはいつも誰かに仕える者であると言えるでしょう。けれども、それらはすべてイエスに仕えることであると言い換えることができるでしょうか。

 「献身」という言葉があります。多くは、神学校へ行ったり牧師・伝道師など、教会で働くことをこのように言っているのですが、しかし、本日の箇所、またこれまでにお話ししてきたことから考えるならば、やはりすべてのクリスチャンはそれぞれの場所で唯一の主人であるキリストに仕えている献身者であるということができるでしょうし、またそのような自覚を持って働くことが求められているのです。実際の仕事に限らず、誰かに仕える時、それはもしかしたら、すぐ隣にいるたすけをもとめているひとたちに仕えることかもしれません。そんな時にイエス様の言葉を思い出します。『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』(マタイ25:40それは必ずしも地上の主人の要求に沿うことばかりではないかもしれません。ごきげんとりのような、うわべだけの仕え方は求められていないのです。私たちはあくまでもキリストのしもべであるからです。先ほども触れましたピレモン書の中には逃げ出したピレモンをとりなすパウロの言葉として、「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」とあります。ここでパウロが言う役に立つとは、もちろん目に見える意味での便利なとか、利用価値があるなどということではなく、神の国の秩序に役に立つ、有益だということです。神の赦しと愛を知ったオネシモならば、今度こそ、神様が喜ばれる主人と奴隷、仕えられる者と仕える者の関係を築き上げることができると言っているのです。繰り返しになりますが、時にそれは地上の主人の駅とは異なるかもしれません。いや、今日の日本のようなクリスチャンが圧倒的に少ない社会にあっては、そのような衝突は多くあることでしょう。あるいは今日のように日曜日に礼拝を守られていることも当たり前ではなく、そのような戦いの中で獲得されてきたものであるのだと思います。その中で不利な立場に立たせることがあるかもしれません。現にキリスト者の信仰を貫こうとして就職を断られたということだってあります。では神様は、私たちをそんな厳しいところに放って置かれるのでしょうか。苦しい中でもひたすら耐えよ、ただ我慢せよと言われるのでしょうか。そうではありません。

 エペソ書の続きをお読みします。8,9節。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。この二節からわかることは、主人にも僕にも、奴隷であっても自由人であっても、同じ主がおられるということです。確かにこの二者には働きの違いがあります。置かれたところの違いはあります。けれども、同じ神様の前では、赦されなければ生きていけない一人の罪人であるということです。そしてそのすべての人間の頭であり主であるお方が、報いを約束してくださっている。「よくやった。良い忠実なしもべだ」と喜んでいただくことが、散々神様を悲しませてきた私たちの喜びでもあり、報いであります。私たちはここに「のみ」希望を置き、地上の主人に仕え、神の栄光を表していく生涯を歩んでいきたいと願います。信仰の戦いは多くあります。社会的な問題から、それぞれの職場での戦いまで、あらゆるところに戦いの最前線はあります。いや、私なんかよりずっと皆さんの方がそれを体験し、傷つき戦ってこられたことでしょう。だからこそ、今朝、もう一度知っていただきたいのです。私たちはキリストのしもべとしてそれぞれのところに置かれており、そして神様からの報いを約束されたものとして遣わされているということを。