賜物としての教会

❖聖書個所 マタイ16章13節~20節   ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝てません。  マタイの福音書 16章18節


❖説教の構成

◆(序)信仰生活と教会

 教会に通い始めた頃、信仰生活と教会の関係がよく分かりませんでした。当時、著作を読んでいました無教会の内村鑑三の影響もあって、信仰は教会につながらなくても保つことができると考えたのです。(念のため、無教会派の人々も神を中心とするつながりや集まりを否定するのではありません。職制や礼典を否定するのです。)そういう思いを持っていましたから教会や教会生活の重要性が強調されますと、純粋な信仰に人間的なものを持ち込もうとしているように思え、反発を覚えました。人間関係の中に入らなくても自分自身が神との関係をしっかり持っているならばクリスチャンとしての歩みが出来ると考えたのです。人に煩わせられないで、神を信じて行きたいと思っていたのです。信仰生活と教会について正しい理解を持たなかった頃の私の経験ですが、おそらく皆さんの中にも同じように考えた人、今も考えている人がおられると思います。

 一方、 信仰生活において教会が持つ意味を非常に重視して、個人生活、家庭生活、社会生活より教会生活が何よりも大事であると考える人もいます。学校や家庭や社会での歩みがどのようなものであっても教会と繋がり、教会活動に参加しているならそれで良いという考えです。最近は少なくなったように思いますが、一時は熱心と言われているグループの中にそういう人が時折りいました。

 しかし、これらは両方とも聖書が示している本来の教会の目的や意味からかけ離れている考えです。実は多くの者たちはどちらかになりやすいのです。私たちは主の恵みにより救われ、神の民とされ、また主によって世に対して遣わされている者として、信仰生活と教会について正しく知る必要があります。どちらかの誤りに陥らないように注意する必要があります。

◆(本論)イエス様が教会について語っていること

①本日は、聖書個所としてマタイ16章13節から20節の個所を開いていますが、中でも18節は主イエスが教会について語っている二カ所のうちの一つです。それゆえ教会の本質を考えるうえにおいてとても大切な個所です。本日はこの18節を中心として信仰生活と教会について教えられたいと願っています。

 ここにおいて、主は教会について二つの大切なことを言われています。一つはよく知られているように、教会の本質は、イエスを「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白するということです。もう一つは、主が「この岩のうえにわたしの教会をたてる」と言われる時、主を告白する複数の人々を想定していたということです。主を信ずる者たちを一人ひとりばらばらではなく、集合した姿として、この世に置き、遣わすことを想定していたという意味です。

 本日は特に後者、なぜ、主が信ずる者たちを集合した姿として世に置き、遣わしているのかということについて考えて行きたいと思います。ここで教会という言葉は、新約聖書が書かれた元々の言葉、ギリシャ語ではご承知のようにエクレシャという言葉です。これは旧約聖書ギリシャ語訳である70人訳聖書を見ると、例えば出エジプトをした民たちが神を礼拝するために集まっている状態など、同じ土台に立ち、同じ目的をもっている人々の集まりを言うときに使われる言葉なのです。ですから、主がペテロの告白に対して、わたしはこの岩のうえにわたしの教会(エクレシャ) をたてると言われたのは、同じように主を信じる人々が集合したかたちとしてたてる、世に置き、遣わすという意味なのです。

②そのことは、主が十字架におかかりになる直前の「大祭司の祈り」(ヨハネ17章)と言われている個所からも言うことができます。人の罪を贖うために世を去る時が来たことを知られた主は、次のように祈られました。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(11節) 「それは父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らが一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(21節~23節) このように主は、信じる者たちが父なる神と御子なるキリストのもとにあって一つとなり、世において福音の証しをすることを祈っておられるのです。

 なぜ、何度も彼らが一つとなるように願っておられるのか、これらの主のことばから分かるように、この世は罪で満ち、真の平安も希望もないからです。そうした世にあって人の本来の姿を示すことができるのは主を中心とする教会のみであるからです。


③こうして教会に関する主のことばを考える時、主は恵みの賜物として教会をたてているということが分かります。主の教会は初代のクリスチャンたちが人間的な思いを持って形成したものではありません。主の贖いによって、罪と死の支配から救い出されたキリスト者が良き羊飼いである神の牧場にいる羊のように一つの群れとして豊かな糧や水によって養われ、守られ、神にあって生きるために教会を与えておられるのです。このように、一人ひとりがばらばらではなくて、神の愛のうちに一つとなり、世に対してこの真理を証しするものとして教会をたてているのです。


◆(終わりにあたって)一つのエピソード

 この話は外国で実際にあったことですが、子どもの背たけが隠れるほどの草が生えている広い野原で歩きだして間もない赤ちゃんが行方不明になりました。そのあたりにいた人たちや聞いて駆けつけて来た人々は懸命に捜しました。しかし、時間がたってもなかなか見つかりませんでした。段々と冷えてきて、命が危ぶまれ、人々があせりだした時に、一人の長老が言いました。集まっているみんなで野原の端から端まで手をつなぎ、歩いて行こう。その提案はすぐに受け入れられ、人々は互いに手をつなぎ、ゆっくり歩き始めました。おーい、いたぞという叫びがあがりましたが、すぐに悲しみの声に変わりました。死んでいたのです。その時、だれかれとなく、もっと早く手をつないでいたらよかったという声があがりました。それぞれ、懸命に捜していましたが、長時間経ち、疲れていましたから、自分の周りだけになっていたのです。互いに手をつなぐことによって、自分も支えられ、悲しい結果でしたが、広く捜すことができたのです。

 この例は、信じる者たちに教会が賜物として与えられた意味を思いださせます。同じ土台に立ち、同じ目的のために、互いに力を受けながら、共に歩いていくためです。以前の私のように、教会を単なる人間関係と思わないで欲しいのです。もし、私たちが一人ひとりばらばらで信仰生活を送ろうとするならば、クリスチャンとしての考えは狭いものとなり、また信仰者としての力も弱いものとなるでしょう。このように大切なものですから、互いにみことばが示す恵みに満ちた教会をめざそうではありませんか。教会は一人ひとりのために、又世に対して主を証しするために立てられているのです。言われるからではなく、救われている自分のために教会の本質を大切にして、集会をともに守り、交わりを大事にして信仰生活を送りましょう。そこに力があるのです。