主の教育と訓戒によって

■聖書:エペソ人への手紙6:1-4       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:父たちよ。あなたがたも、子どもたちを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4

 

1. はじめに

 先週は詩篇119篇から「みことばは命の糧」であるということが教えられました。みことばは私たちを生かす。この言葉を考えるとき、それは私たちの生活のどこか一部分だけとか、気持ちの上だけとかを生かすのではないということに気づかされます。礼拝の時、聖書を読んでいる時にだけ、みことばが私を生かすのではないのです。私たちの生活のどの部分にあっても私たちを生かし、そして導いてくださるのが神の言葉、みことばであるのです。これはとても重要なことで、日本同盟基督教団の信仰告白にも「旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。」とあるように、聖書の言葉は私たちの生活をどのように送ればいいかの唯一絶対の規範なのです。その意味で、本日の箇所にあります親子についての教え、これも極めて日常生活のありふれた部分であるでしょう。ここにおいても、聖書は規範であるのです。とりわけ、今日多くの家庭に痛みがあるということを考えますと、これは極めて大切なことを私たちに教えているということに気付かれるでしょう。夫婦にしても、親子にしても様々な問題を抱え、傷付いている家庭は少なくないのです。そんな夫婦関係も親子関係も、癒されなければならない、みことばによって生かされなければなりません。言い換えるならば、みことばに生かされる家族こそ、本当の喜びに溢れるのです。もちろんそこにすべての問題が完全になくなるわけではないでしょうけれども、みことばに生かされる時に確かな喜びと平安、そして何より神様の祝福が注がれる。この素晴らしい恵みを聖書から学んでいきましょう。    

 本日の箇所は、5:21から始まります大きな流れの中におかれている箇所です。ここには、先ほども少し触れました夫婦の関係について、そして本日の親子関係、さらに次回見ることになります主人と僕の主従関係といった、様々な人間関係について書かれています。その冒頭は5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」でした。それぞれ人が身を置く、しかも生活の基盤となっていく人間関係について、知識の始まりといわれる主を恐れることから教えられているのです。

 さらにこれは、血の繋がった実の親子関係に限ることではないでしょう。もちろんそれが第一でありますがそれだけでないのです。教会にはたくさんの子どもたちが与えられていますが、そんな子どもたちの成長のために祈る一人一人が、教会の子どもたちのお父さんお母さんとして召されているのです。さらに大きな目で見るならば、私たちは一人一人、イエス様によって神の子どもとされた存在です。言い換えれば、神様をお父さんに持つ子どもであります。そんな私たちの何よりの模範は、父なる神様と子なるキリストでありましょう。そこには愛の交わりがありました。そのような親として、また子どもとして、本日のみことばに聞いて参りましょう。

 

2. 子どもたちへの教え

 はじめに、子どもたちへの呼びかけから始まります。6:1子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。後ほど詳しく見ますが、この従いなさいという言葉の背後には十戒の「父と母を敬え」があります。このよく知る十戒の教えも、実の親の口から聞くと複雑な気持ちがするでしょう。自分の両親にこれを言われたら、どんな子どもでもムッとするかもしれません。けれども、パウロはこれを神の言葉の説教として、公の礼拝で語っているのです。何が言いたいかと言いますと、この手紙が読まれていた紀元1世紀の教会の礼拝では、子どもたちもその場でともに神を礼拝していたということです。今日では当たり前の光景になっているかもしれませんが、当時の子どもはというと、親の所有物、特に父親の絶対的な権力の元に置かれていました。所有物ですから、親の一存で奴隷や使用人として売り出されたりすることもありました。いや、それは何もかつての古い時代だからというわけではなく、今日の日本でもそうかもしれません。親の理不尽な、勝手な扱いを受けている子どもたちは少なくありません。親が子供に与える虐待のニュースは連日のように報道され、それについてあまり驚かなくなっている自分の荒んだ心に気づかされることがあります。しかし教会では、子どもをひとりの人格と認め、その子どもたちのひとりひとり神の声を聞くように召されているのです。イエス様も言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(Mk.10:14

 そんな神のことばを聞くために呼ばれていた子どもたちに向けてパウロが伝えたことは、「主にあって両親に従う」ということでした。これじゃあ結局世間と同じではないか。と思われるでしょうか。しかし、これまでにも見てきましたように、聖書が教える「従う」という言葉は、ただ単に黙って従う、盲目的に、自分を殺して、いわば縛り付けられた不自由な者として従うというものとは違います。もちろん、従う対象である両親にしても、「従うこと」を強要していいわけではないのです。前回の箇所、妻は夫に従うという部分がありましたけれども、それは、教会にはキリストの愛があったように、夫の愛がまずあって、それに応える「従うこと、従順」なのであります。夫が怖いから従うとか、妻の意思や感情を無視して無理矢理「従わせる」とは言っていないのです。そこには愛の結びつきがあった。それに続いての親子の関係ですから、ここでも「従う」という言葉もまた、愛に基づき裏付けされた「従順」であることがわかるのであります。どうしても「従う」とか「服従」という言葉を聞くと嫌なイメージを持ってしまいますが、そうでない、もっと暖かい、喜びにあふれた関係であるということをはじめに押さえておきましょう。

 それを踏まえて、この「従う」という言葉と合わせて登場する「主にあって」という言葉、これもまた大切な言葉です。直訳では「主の中で」、別の日本語聖書では、少し意訳気味ですが「キリストに結ばれた者として」とありました。「子どもたちはなぜ両親に従うのか」のか。その理由は続く2,3節で明らかに言われていますが、この「主の中で」従う、「キリストに結ばれた者として」従うということはとても大切なのです。愛で結ばれた、愛を土台とした関係の中での「従う」であるということはさきほどお話ししましたが、ではその愛で結ばれた関係がどこにあるのかといったら、それは主の中、主に結ばれた関係の中であると言えるのです。それぞれが主イエス・キリストにつながれ、イエス様の愛の中を生きている。それぞれバラバラに生きていた者がイエス様によってつなぎ合わされた教会もそうですが、親子もまた、神様が愛の帯によって結びあわせてくださったものです。血の関係だけでなく、イエス様の愛が夫と妻を、そして親と子を結びあわせてくださっている。「子は親を選べない、親も子を選べない」という本当に残念な言葉が、多く否定的な意味で使われます。偶然親子になったとでもいうのでしょうか。それだけでしたら、たとえ生物的なつながりはあったとしても、人も自分も愛することのできない罪人の私たちにとっては、どこまでも形式的な関係性しか生み出せず、互いに愛し合う豊かな交わりなどは生まれないのであります。肉親に対してでさえも愛せず、いやそれどころか憎んでしまうということは、創世記4章、最初の殺人が兄弟殺しであったことからも明白であります。そしてその罪は、今なお私たちの中にあり、この社会を蝕んでいると言えるでしょう。親が子を虐待し、子が親に対して暴力を振るう。そんな傷つく、みことばに生かされることからはかけ離れた家族が多いのです。しかしそんな暗い罪の世界の中であって、主にあって、両親の愛を受け、従うということが正しいことだというのです。同じ内容が書かれたコロサイ書では、主が喜ばれることであると言っています。これが神の御心にかなう、神様が望まれる、親に対する子どもの姿なのであります。両親の愛の中で、その愛をしっかりと受け止めて、自由に喜びをもって従うこと。パウロをとおして表された神様の願いはここにありました。

 

3. 十戒の約束 〜正しい親子関係への祝福〜 

 そのような「両親に従いなさい」というパウロの戒めの背後には、神様の約束がありました。2,3節「あなたの父と母を敬え。これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。ご存知の通り、これは旧約聖書、出エジプト記の20章で神がモーセに与えられました十戒の第五戒であります。最初の四つの戒めが神に対する教え、そしてこの第五戒から十戒までが人間に対する教えでした。冒頭でも少しお話ししたように、私たちがめざすべきこの親子関係の模範は、なによりもまず父なる神と子なるキリストにあります。父なる神の愛と、その愛の中で御父に従うイエス・キリストの姿がありました。もちろん、三位一体の神であることを忘れて、何から何まで私たちの模範にするということはできませんが、しかしその暖かい関係はよくわかるのではないかと思うのです。親は子を愛するものです。その上で、この十戒というもの、すなわち神様が、人間に与えられた律法ですけれども、これがそもそもどういうものだったのかを考えなければなりません。すなわち、この十戒をはじめとする律法は、神様が自分に都合の良い民、いわば信者を作り出すために定められたもの、ではないということです。十戒の冒頭部分はこのように始まります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」つまり、律法の土台には民の救いがあり、与えられた救いに応答する形、あるいは救われた者としてふさわしく生きる生き方を示していると言えるのです。神様が怖くて従うのではない。無理矢理に首根っこをつかまれ押さえつけられるように従わされるのでもない。救いの土台、言い換えれば愛の土台に立って、自由に喜びをもって応答すること、それが十戒をはじめとする律法の本来の意味でした。だからこそ、恵みを千代にまで施すとか、「本日の箇所での、しあわせになり、地上で長生きする」などという約束も同時に与えられているのです。救われた者として、神様の指し示される道を歩む時、大きな祝福があるのです。

 一点だけ、簡単に触れておくだけにしたいと思いますが、ここで長生きが祝福によるものだと書かれています。そうするとある人は、では幼くして亡くなったものは、祝福がなかったのかという。逆に神を知らず自分勝手に生きている者でも長生きしているではないかとつぶやくのです。確かに長生きは旧約時代から神様によって祝福として与えられるものでしたが、伝道者の書には「罪人が百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を畏れる者も、神を敬って幸せであることを知っている。」という言葉があります。長生きと幸せを別に考えているのです。長生きであっても幸せがなければ虚しい生き方です。逆に、長生きでなくても、困難が多くても、悲しみが多かったとしても、ここで教えられている幸せがあるならば、それは素晴らしい生き方なのです。本日の箇所で長生きと並行して与えられる幸せとは何でしょうか。この言葉は新約聖書で数回しか出てこない珍しい言葉で、そのうちの一回は、イエス様のたとえ話の中で、「よくやった、良い忠実なしもべだ」と言われるときの「良い」という言葉でした。これを踏まえて考えますと、長生きと同時に約束されている「幸せ」とは、神様に認められる、神様に喜ばれるということであるのだと言えるでしょう。本日の文脈に照らして考えれば、神の子とされた私たちが、私たちを救ってくださり、ご自身の子どもとして愛してくださった天の父なる神を喜ばせることこそ、私たちの至上のしあわせなのです。どんなに困難があっても、苦しみが多く、悲しみに打ちひしがれる時でも、みことばに生かされ、みことばを歩みの規範としていき、そして神様が喜ばれる道を歩とき、それが、それこそが、私たちの幸せであるのです。この世の幸せとはかけ離れた、しかし素晴らしい約束が与えられていることを、しっかりとかみしめたいと思います。

 

4. 両親への教え 

 さて、子どもへの呼びかけに続いて、続けて「父たちよ」とパウロは語り始めます。4節をお読みします。父たちよ。あなたがたも、子どもたちを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。ここでは「父たちよ」と語られていますが、このような表現で両親を指していたことは当時よくあったようです。ですから、これを「両親よ」と訳している聖書もあります。確かに、子を育てる両親ともに語られていることは何の間違いもありません。しかし、特に父たちがこれを聞かなければならないということも覚えておきたいと思います。「育てなさい」と言われる言葉。これは5:29では「養う」と訳されている言葉で、そのもともとの意味は「食べ物を与える、お母さんが赤ちゃんに乳を与える」と言う意味だそうです。ある意味では、母親はこれを自然にするものであります。これも今日では必ずしも当たり前であるとは言えないのかもしれませんが、ともかく父親よりは実感として「育てる」ものであります。それに対して父親はそのような実感を持ちづらい。しかし聖書は、「子どもたちを怒らせ」なければよいというのではなく、父も優しく子を抱き、温め、育むという姿を持たなければならないと教えているのです。当時の文化からかけ離れた父の姿が求められています。

 もちろん、子どもたちを怒らせないように、子どもたちの機嫌を損ねないようにと、なんでも思うままにやらせなさいと言っているわけではありません。いや、「かえって」と言われていますから、こちらこそパウロが伝えたかったことでしょう。「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」すなわち、「主が教えられるように育てなさい」と言う意味です。「教育」というのは行動による教え、「訓戒」というのは言葉による教え、という違いがあるようです。ですから、行動においても言葉においても、すなわち私たちの全生活において、主がされるように養い育てるということが求められているのですね。当然そのためには、まず両親がこの主の教育と訓練の中を生きなければなりません。それがなくして、どれほど聖書のことを教えたとしてもそれは虚しく、実体を伴っていないものですから子どもたちは当然怒るでしょう。子どもたちが、両親のあらゆる生活の中に、キリストの声と愛の行いを感じ取ることができるように、両親は子どもに対して向き合うように言われているのです。そのように主の教育と訓戒によって育てるということが両親には求められています。子どもたちは、幼い存在です。エペソ人への手紙4:14の中では、子どもは「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」とありますから、正しく教えなければならないのです。両親とはそのような存在だからこそ、子はそれに従うようにと言われています。

 教会学校の教師をさせていただく中で、本当に子供たちは私たちのことをよく見ているなと思わされます。口先だけの言葉では伝わらない、かえって躓かせてしまうことになる。それを思うたび、子どもたちの近くに置かれております私たち大人であるクリスチャンの責任はとても重いのだと気づかされるのです。私たちに喜びがなければ、神の前に出る礼拝の時にも苦痛になってしまうでしょう。従う時にも、神の子として救われ愛されている喜びをもって自由に従うことがなければ、子どもはイエス様を正しく知ることはできないでしょう。ましてや、生活をともにするじつの子どもが与えられている家庭にあっては、良いところも悪いところもすべて見られるわけですから、さらに大きな責任を感じられていらっしゃることでしょう。ときにはその中で疲れ、自分は足りない、ふさわしくないと思って落ち込んでしまうお父さんお母さんがいる事をもよく聞くところであります。確かに本日の箇所では、父と母に与えられる大きな責任を教えているところであります。

 

5. まとめ

 けれども忘れないでいただきたいのは、冒頭からお話ししていますように、私たちもまた父なる神の愛を受けている神の子どもとして、このお父さんの愛を豊かに受けているということです。これを忘れて子どもたちを育てることなんてできないのです。私たちの父なる神様が、どのように子どもと向き合われたのかということを教える説教者がいました。このように言っています。「聖書の神様は、昔から子供の低さにまで自らへりくだられる方である。大祭司の祝祷が「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」と言ったのは(民数6:26)、泣きじゃくる子どもを下から覗き込んであやす親のように、「主が御顔をあなたに上げる」という言い回しである。「わたしは、人間の綱、愛の絆で彼らを引いた。わたしは…優しく(協会訳、新共同訳「身をかがめて」)これに食べさせてきた」とおっしゃる神様である(ホセア11:4)。主にある子供は、幸いなことに、一人ひとり神とキリストが身をかがめ、下から覗き込むようにして真剣に相対してくださり、聞き取り、また話しかけていてくださいます。」神様は私たちに対して、愛をもって向き合い、優しく接してくださっているのです。私たちはその愛を、私たちを通して子どもたちへ流れ出るように願うものであります。確かに欠けは多いし、子どもたちにつらく当たってしまうことがあるかもしれません。しかし、私たちにはお父さんの愛が注がれているのです。