みことばは命の糧

❖聖書個所 詩篇119篇105節~112節   ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 私は、あなたのさとしを、永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私 の心の喜びです。 詩篇119篇111節


❖説教の構成

◆(序)この詩篇について 1本日開いています詩篇119篇は、ご承知のように聖書の中で最も長い章です。日本語訳からは分かりにくいのですが、旧約聖書が書かれた元々の言葉、ヘブル語の聖書(一部アラム語の個所も ある) を見ると、この119篇は、ヘブル語のアルファべット、22字の文字の順番に従って、同じ文 字から始まる8行の文をそれぞれ一段落として、全部で176節からなる体裁が整えられた詩である ことが分かります。非常に技巧的なスタイルの詩ですから、内容的にはあまり訴えるものがない と思いがちですが、そうでないことにすぐ気づきます。反対に作者は、内容を深く印象づけるた めに当時用いられた作詩の技巧の一つを取り入れたのではないかと思わされます。 

2内容に入る前に、この詩の背景について見ることにします。全体から伝わって来るのは、時代 ははっきりしませんが、母国が異邦人によって支配されていた時です。神を嘲笑い、信じて従う ことを蔑む者たちが国を支配し、また国民の多くも神の民としての恵みも使命も忘れ、神を仰 ぎ、誠実に従う者たちを圧迫していた時でした。国中から神の民とされている喜びや使命が忘れ 去られている時でした。(23節、46節、161節など) 作者は、そのような状況に危機感を抱き、敢えて技巧的表現を用いることによって神を愛し、 従う大切さを訴えているのです。中でも神のことばを大切にすることについて強く呼びかけてい るのです。そのことは、全部で176ある節の中で、一節ごとに表現は違いますが、必ず神のことば についてふれていることから分かります。そうすることによって私たちの生きる土台は神のこと ばであると強く言うのです。本日の個所でも、105節「あなたのみことぱ」、106節「あなたの義 のさばき」、107節「みことば」、108節「あなたのさばき」、109節「あなたのみおしえ」、 110節「あなたの戒め」、111節「あなたのさとし」、112節「あなたのおきて」と一節ごとに表 現は違いますが神のことばについて言っています。 このように176節全部に渡って神のことばについて言っているのは、作者がどれほど神のことば が大切であるか考えていたことを現しているのです。そのようなことから本日は読んでいただい た個所だけでなく、119篇全体からみことばと信仰者について共に教えられたいと願っています。


◆(本論)神のことばを強調する理由 1執拗に繰り返すことによって、何を言おうとしたのでしょうか。言うまでもなく、神のことばは特別であるということですが、もう少し具体的に言うと、なぜ、神のことばを大切にしなければならないといっているのか、全体から二つのことを指摘することができます。第一はみことばのうちに、人が生きるべき道が示されているからです。これについて言われて いるところをあげるときりがないのですが、目立つところをあげると次のような個所です。「ま ことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」(24節) 「私から偽りの道を取り除い てください。あなたのみおしえの通りに、わたしをあわれんでください。」(29節) 「むなしいも のを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」(37節) 「そうして私 は広やかに歩いて行くでしょう。それは、私が、あなたの戒めを求めているからです。」(47節) 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(130節) 「あな たのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。」(156 節) これらから分かるように詩人は、主は私たちにみことばによって生きるべき道を示している、

それゆえ、悔いのない人生を送ることを願うなら、神のことばをうけとめ、大切にしなければな

らないと言うのです。


二つ目の理由は、神のことばは、人にこの世のものとは違う深い喜びと力、希望を与え、魂の 渇きを満たすからです。このことについて言っているところも多くありますが、目立つところを あげると次のような個所です。「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいま す。」(14節) 「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。」(47節) 「こ れこそ悩みのときの私の慰め。まことにみことばは私を生かします。」(50節) 「あなたのおきて は、私の旅の家では、私の歌となりました。」(54節) 「あなたの御口のおしえは、私にとって幾 千の金銀にまさるものです。」(72節) 「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自 分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」(92節) 「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受 け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」(111節) 「それゆえ、私は金よりも純金よりも、 あなたの仰せを愛します。」(127節) このように、詩人はみことばのもう一つの面、霊的な喜びと 力、希望を与えることについても繰り返し語り、みことばこそ大切であると訴えるのです。


このように、みことばの大切さを強調するのは、人が本来、生きるべき道を指し示しているか らであり、また人に真の喜びと力を与えるからです。119篇の作者もこのようなみことばの恵みに よって困難の中、立つことができたのです。 自分の例をお話するのはおこがましいのですが、よく言いますように、私は自分のような弱い 人間がこれまで支えられて来たのは、特別にみことばを語る働きが与えられたことによると思っ ています。毎週ごとの説教に備えるためにみことばと時間をかけて向き合うことによって、大変 なことの中でも守られ、導かれたと思っているのです。何か、自分勝手なことに聞こえるかも知 れませんが、勿論、そういう意味ではなく、説教のために深くみことばと接することによってさ まざまなことにより心がつぶされそうな時や、どうしたら良いのか分からない時でも、民たちに 海の中にも道が備えられていたように、混乱の中に道が開かれ、希望や力が与えられて来たので す。説教は、一方において簡単に考えてはならない重い働きですが、しかし、一方においてみこ とばの深みにふれる恵みの働きなのです。皆さんの場合、語る立場ではありませんが、日々の聖 書個所を読む時、また説教を聞く時、自分のすべてを注ぎだしてみことばと向きあってみてくだ さい。そうする時、自分の置かれている状況がわかるでしょう。そして、自分の姿勢がさぐら れ、自分は本当は何を願っているのか問われ、神のみこころが分かるのです。神のことばと真剣 に取り組む時、私たちの人生を覆っていたどうにもならないと思われた暗雲が取り払われ、立ち 向かう勇気が与えられるのです。それゆえ、詩人はみことばのことを繰り返し語るのです。


◆(終わりに)みことばの中に、みことばを抱いて生きよう 本日、お話したかったのは聖書の知識を増やすということではありません。神のことばを自分 のこととして受けとめ、信じて生きるということです。なぜなら、そのみことばの中に神の愛が 満ちているからです。キリスト教に対する迫害下、聖書も取り上げられて投獄された人々が暗唱 しているみことばによって日々、生きる希望と力が与えられていたという話を聞きます。主がそ のみことばを通してその人とともにいてくださるからです。生きるためにはさまざまな情報、知 識が必要です。しかし、いのちの糧として何よりも必要なのは神のみことばです。草は枯れ、花 は散る、しかし、神のことばはとこしえに変わることがありません。第一ペテロ2章1節をお読み します。お乳は赤ちゃんにとって栄養だけではなく、体を整える働きをするように、私たちにと って神のことばも同じなのです。私たちに世のものとは違う平安と力を与えるのです。


みことばによって生きる姿ということを思った時に、説教で聞いた一つの話を思いだしまし た。世界的に有名な伝道者が香港のホテルで、長い間、アジアの困難な地で働き、引退間近の宣 教師と相室になったときのことです。夜中に泣く声で目がさめ、何だろうと耳を澄ましたとこ ろ、同室者が祈りながら泣いていたのです。話を聞いたところ、その人は、これまで長年伝道し てきたが、回心者がほとんど起こされず、しかも長年共に働いて来た妻が重い病気だと分かり、 先に治療のため、母国に帰り、自分もこれから船便で帰るところと言ったのです。有名な伝道者 は、深く同情し、先生、私が飛行機代を払いますから、一刻も早く奥様のところに行ってくださ いと言ったところ、その引退宣教師がいや、そうではないのです。私が祈っていたのは、私たち のことではないのです。夢の中でいばらの冠をかぶったイエス様が「兄弟、長年、わたしのため に働いてくれましたね、あなた方の労苦はわたしが知っている、しかし、兄弟、あなたがあの国 で伝道するのをやめてしまうと誰もあの国でわたしのことを伝える者はいなくなる、どうだろ う、もう一度、わたしとあの国に行ってくれないだろうか。」と言われ、それで「主よ、もう一 度あなたと共に行きます。」と祈っていたところですと言ったとのことでした。 あまりにもかけ離れているかも知れませんが、私はみことばによって生きるということをよく 示している例だと思うのです。主の言われる、地に落ちて死ぬ、一粒の麦としての生き方です。 (ヨハネ12章24節~26節) 大勢から離れ、地に落ち、埋もれ、存在自体も全く分からなくなる生き 方です。しかし、主に知られ、必要ならばやがて人々にも知られる生涯です。