罪の本質

❖聖書個所 第一テモテ1章12節~17節     ❖説教者 川口 昌英 牧師

❖中心聖句 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま、受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

                          第一テモテ1章11節            

❖説教の構成

◆(序)罪を知ることは福音を知るうえに不可欠

 聖書が伝えている福音を理解するうえにおいて、何が最も大切かと言われると、私は迷うことなく罪を知ることであると答えます。罪を正しく知ることは、キリスト教理解の重要な鍵です。創造主がおられ、すべてを御心によって創造されたことから始まるのですが、罪を正しく知らなければ信仰の核心を知ることができないのです。大げさでなく、聖書の理解、又信仰生活の成長は、実は罪の理解にかかっているのです。

◆(本論)罪についての人間の考えと聖書が伝えること

①聖書本文を見る前に、まず罪の理解について、人が陥りやすい誤りを見ることにします。最初に話したように、罪を誤解しているために、聖書の中心である福音を自分には関係ないと思っている人が多くいます。そして大切な「永遠のいのち」を見失っているのです。

 聖書に出てくる人物の中にもそういう者たちが多くいました。特に、律法の専門家である律法学者やその律法によって生きることを重視していたパリサイ派の人々に目立っています。彼らは、当時の信仰の指導的立場にある者として、律法やその解釈又それに関連する言い伝え、伝統について十分な知識を持ち、そして民衆を教え、導いていましたが、自分たちについてはそれらを学び、守ることを掲げているから罪人ではないと考えていたのです。

 その典型的な例は、ルカ福音書18章に出てくるパリサイ人です。(ルカ18章9節~14節)その告白から分かるように、いつも表面ばかり見て、他の人と比較し、自分は正しい、清いとたかぶっていた人物でした。実は罪について、この人々のように考える者は珍しくないのです。どの時代においても多くいたし、現代でも非常に多いのです。

 けれどもこのような罪の理解は、福音を受け入れることにおいて大きな妨げとなっています。罪の本質が重視されず、表面的に理解され、従って神が与えられた救いも倫理的、道徳的なものに限定され、本来の救いが持つ存在のすべてが変わること、自由、希望、喜び、力が見失われるからです。

②たしかにパリサイ派などが主張するように、具体的な行いを軽視してはなりません。しかし、それのみとするときに、罪の本質、中心に迫らず、従って福音のすばらしさを知らないままになります。

 では、聖書が示す罪の本質、中心は何か、それは本来の人「神のかたち」としての人の姿と深い関係があります。創世記1章にあるように、人は元々、創造主によって「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1章26節)と言われているように、神のかたちを持つものでした。ここで言う神のかたちとは、神と共に、神を基準にして、神に応答する存在ということです。神によって命、また生きる目的が与えられ、いつも神との深いつながりの中で生きる存在でした。それはまるで深く愛するおとなの前で平安に満たされ、信頼しきって、自由にのびやかに生きている愛されている子どものような状態でありました。人は元々、創造主である神との交わりの中で深い喜びを持って生きる者でした。ところが、与えられていた自由の中で、いのちを与え、深く愛している神に敵対する存在(サタン、誘惑する者、告発する者)の巧みな誘惑によって、自らが神のようになりたい、中心になりたいという思いを持ち、創造主である神に背いたのです。そして自分が善悪の基準、中心、ちいさな神となったのです。(創世記3章)

 これが聖書の罪です。その結果が意味するのは非常に大きいものでした。まず喜びであり、生きる力でもあった神から自分の身(存在)を隠し、ありのままを知られることを恐れるようになり、そして、自分が善悪の中心になった結果、最も親しい愛する者同士の関係も壊れ、さらにまた神の栄光のために生きるという生きる目的そのものも分からなくなり、それゆえ貪りによって生きるようになり、取りまく環境に対して節度を失う、自らの欲望のために奪う者となったのです。

 罪をおかし、中心が大きく変わった人に対して、神は労働の苦しみ、出産の苦しみを与え、又死ぬ存在とし、遂に楽園から追放しました。そのように創造主に背いたこと、自分が中心になったことは人を大きく変えました。中心に罪と死を宿すものとなり、そしてすべての人がこの性質を受け継ぐ者となったのです。多くの人が勘違いしていますが、聖書の言う罪は、ただの、悪い、不道徳な行いではありません。中心が変わったことです。本来の人の喪失です。こんなことを言うと、理性的と任じる人々から愚かと言われるのですが、神のことばである聖書は、何のために生きたら良いのか生きる目的が分からないことや、人を心から愛したり、赦すことができないという個人の問題も、不平等や不公正という社会の問題も、強い国、民族が弱い国、民族を抑圧支配するといった国家、民族間の問題も、人に関する問題は全てこの罪の本質と深い関わりがあると言うのです。

 多くの人が注目する具体的な行いは、この罪、創造主から背を向けていること、自分を中心に生きていることが表立って現れたものです。人の行いは、渋柿の木に渋柿がなるようなものです。いくら自分は渋柿が嫌いと採っても、また時期が来たならば、確実に実がなるのです。渋柿だからです。実ではなく、木が問題なのです。人も同じです。自分で嫌だと思っていても、又これをすると身の破滅だと思っていても深い孤独を感じたり、欲望に支配されるとそれをしてしまうのです。いくら学んでも苦行をしても一時的です。本来の姿を失い、生きる中心が確かなものではない、いつも揺れ動いでいる自分になっているから罪の実を結ぶのです。

③著者パウロは、以前、パリサイ派の一人として罪とは律法に違反することだと思い、ただ主イエスの十字架が自分の罪の身代わりだと信ずるだけで救われるというクリスチャンたちを憎み、神を汚していると思い、懸命に迫害した人物です。しかし、福音、主との出会いのなかで、罪は自分の外側にではなく、自分の深いところにあると気づいたのです。いや自分そのものが罪人であることに気づき、そしてその思いは年をとるに従ってますます強くなり、晩年近くのこの書簡では、自分は罪人のかしらであるとまで言うようになっています。そしてそのような自分が救われたのは、同じように罪と死の支配の中にいる他の人々の見本となるためであったと言うのです。豊かな知識を持ち、熱心な実践者であったパウロですが、真剣に神の義を追い求めた結果、自分の内側にこそ罪があると気づき、そんな者を愛してくださった人知を超えた神の恵みを深く感じ、そのために生涯を福音宣教のために捧げたのです。

 

◆(訴え)自分の罪を認める者は福音に生かされる

 日本において信仰寿命の平均は短いと言われています。驚くかも知れませんが、洗礼を受けても離れる人が少なくなく、その数字は事実です。離れる人の特徴として行い、罪の実のことばかり気にして、いのちを与え、生かし、愛している方に背き、裏切っていることを認めていないことがあるように思います。真面目なのですが、一番大きな不信の罪を認めていないのです。しかし、それを認め、受け入れ、悔い改めている者はキリストの福音の恵みの豊かさ、その力がよく分かり、その恵みの中で生きようとするのです。罪を表面的に考えてはなりません。確かに、罪の実は人生に重いものをもたらすが、しかしどんな実でも人はそれにも慣れます。本当に怖いのは実ではないのです。実をならせている木です。木そのものが変わらなければならないのです。小さな神のまま、生涯を終わってはならない。神はそのような人のために御子を与えてくださったのです。