真の力

❖聖書個所 詩篇56篇全節   ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 恐れのある日に、私はあなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめた たえます。 詩篇56篇3節、4節a


❖説教の構成

◆(序)この詩篇がつくられた時の状況 この56篇がつくられたのは、表題に「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕らえたときに」とある ことから分かるように、ダビデがそれまで敵国であったペリシテの王に捕らえられ、正気を失っ たふりをして漸く危険を逃れた時でした。自分よりダビデの方が家臣からも民衆からももてはや され、慕われていることを妬み、王の立場、地位が奪われるのではないかと危んだサウルによっ てしつこく命を狙われ、ついに国内に安住の地を見出すことが出来ず、敵国ペリシテに逃げ込 み、そこにおいて正気を失ったふりをして漸く命が助かった時でした。人間的に非常に孤独を感 じる苦しみの時でした。(第一サムエル記21章) そんな中にあってダビデはこの詩全体から伝わって来るように、自暴自棄に陥らず、支えられ ています。このような状況の中にあっても倒されない真の強さを持っていたのです。本日は、私 たちにとっても信仰生活を送るうえにおいて参考となると思われるその理由を皆さんと共に教え られたいと願っています。 話の進め方として、最初にこの時のダビデに対して恐怖と実際的危険を与えていたサウル王が 持っていた強さについて見ることにします。そして続いて、追い込まれ、どこにも行き場がない 中で守られ、支えられていたダビデに備わっていた強さについて見て行きます。 

◆(本論)強さとは何か  

 まず、ダビデを追い詰めたサウル王が持っていた強さから見て行きますが、この時、サウルは 客観的に本当に強い王でした。万全の権力を持ち、いくら家臣や民衆から評判が良いとは言え、 ダビデなど恐れる必要が少しもなかったのです。しかもダビデ自身、王に忠誠を誓っていたので す。不安になったり、恐れる必要など全くなかったのです。しかし、聖書は、ダビデがもてはや されるようになってから、サウルの心はいつも不安で、そのためいつもイライラしていたと記し ています。自身、万全な立場にあり、又客観的にもなんら不安になる材料が見当たらないのに、 サウル王は羊飼いをしていた青年、しかも自分に忠誠を誓っている家臣であるダビデを妬み、恐 れているのです。現実に強い立場にあるのですが、内面では恐れなくても良いような人に対して 不安になり、疑う思いでいっぱいになっていたのです。不思議です。国の王という最も強い立場 にありながら、心はいつも恐れに満ちていたのです。 このサウルの強さは、現代の多くの人々と共通するように思います。他の人と揉まれ、力と姿 勢が認められ、強い立場につくのですが、競争社会であり、また常に今、持っているものよりも さらに多くのものを求められる社会ですから心の中では絶対的な安心感がないのです。

 そんなサウル王の強さに対して、この56篇を通して見ることが出来るのは、自分の立場から来 る強さではありません。繰り返すように、ダビデはこの時、立場的には何も持っていませんでし た。いや、力を持たないどころではなく、かろうじて、毎日押し寄せてくる危険から逃れていた ような状況だったのです。けれどもダビデは、この詩全体を通して非常に平安に満たされている ことを表現しています。当然、命の危険と隣合わせの状態にありましたから、自分の命を狙う者 について触れているところや心のうちのくるしさを告白しているところなどありますが、ダビデ の心そのものは深い安心で満たされています。次のように言います。まず現在の心境として「恐 れのある日に、私はあなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。


 私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(3~4節) 恐れのある 日、襲いかかる敵によって心が恐怖でおしつぶされそうになる日、そのような時に、私は神に信 頼する、神が私のすべてを知っているから、神にすべてを委ねると言います。又神のことば、人 にとって一番大切なことは何かを示し、真の幸いを約束しているみことばをほめたたえると言っ ているのです。後の詩篇23篇のような良き羊飼いのもとにいる安心感を告白しています。 続いて今も攻撃してくる敵の様子について語り(5節~7節)、終わりにもう一度、どんな中にあっ ても自分はみことばをほめたたえ、神に信頼し、感謝のいけにえをささげると言います。(8節~12 節) 孤独と苦しみの中、このように語るのです。 これらの思いは言うまでもなく、現実の厳しさを見ようとしない逃避でも、またどうせ逃れら れないと諦めている姿でもありません。自分を取り巻く現実の厳しさをしっかりふまえながら、 自分はこの主のもとにいて、このように生きるというのです。


 この強さはどこから来るのでしょうか。まず確認したいのは、ダビデ自身の人間的強さではな いことです。確かに、旧約聖書をお読みの方はよく分かるように、ダビデはあらゆる賜物に恵ま れていたすばらしい人物ですが、どんなにすばらしい人であったとしてもこの時のような八方塞 がりの状況では、ずっと変わりなく、しっかりと立ち続けることは困難です。 では、ダビデを支えたのは何だったのでしょうか。それはダビデが持っていた主との関係にほ かなりません。包み隠さず、すべてをさらけだし、ありのままの姿で主の御前に出ていたことで す。8節~9節をお読みします。(朗読) ダビデによる多くの詩篇から分かるように、ダビデは、主を 喜び、感謝し、ほめたたえるだけでなく、自分の内にある弱さ、苦しみも悲しみも嘆きも、時に 敵に対する呪いさえ、主の御前にさらけだしています。まるで信頼しきって心のうちにあるすべ てを親に打ち明ける幼子のようです。 よく重荷を主に委ねると言いますが、多くの人の場合、重荷だけを主に委ねようとするのです が、ダビデは重荷だけでなく、重荷を持っている自分自身を主に委ねていたのです。自分自身を 主に委ねるとは存在そのもの、すなわち今の自分が経験しているすべて、またこれから先の自分 のすべてを主の御心に委せるということです。何故なら、主は私にいのちを与えてくださった方 であり、また深いご計画のうちに私を救ってくださった方であり、私に生きる目的と意味を与え てくださった方であるからです。ダビデは本当に主の臨在を感じていたのです。その思いは王に なり、さまざまな試練を経験した時でも、また高ぶり、欲望によって罪を犯した時でさえも、心 からの悔い改めに導かれるなど、ダビデの生涯全体を支えたのです。


◆(終わりに)私たちの強さは神からのもの 85才まで牧師として奉仕された先生が、主を信じ、従う者は、たとい、四方八方が塞がれていても、天の窓は常に開かれているとよく言われていました。生涯において多くの苦難を経験しな がら、老いてなお主の恵みを力強く語っていた方でした。何よりよく祈っておられる方でした。 決して順風満帆の時ばかりではなかったように思いますす。幼い頃からお母さんの病気のことで 大変な苦労をしています。また牧師になったあとも満州でひとりの幼いお子さんをなくし、ひと りのお子さんが耳が聞こえなくなるなど経験されています。またホーリネス弾圧にあって投獄さ れ、瀕死の状態になったり数多くの試練にあっています。しかし、その先生は老いて死を意識す るようになっても信仰者には常に天の窓が開いていると力強く言っておられたのです。聖書が伝 えている真の強さです。この強さは特別の人だけでなく、主を知り、信じるすべてにも与えられ ているのです。人生の真の強さとは、神の愛に覆われている強さです。それを使徒パウロは委ね 切るときに与えられる強さと言っています。(第二コリント12章9節、10節)