一心同体の愛

■聖書:エペソ人への手紙5:21-33  ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。(エペソ5:31

 

1.はじめに

 先週私たちは「主を恐れることは知識の初めである」という箴言のみことばを学びました。これは詩篇の111篇では「主を恐れることは、知恵の初め」と歌われており、これが北陸学院の建学の精神になっているそうです。さらに、「その意味は、絶対者(神)を畏敬し、これと率直に向かい合うことによって、自己絶対視を避け、傲慢に陥らず、常に向上しようとするこころを持つこと、己の矮小さを知るがゆえに他者への愛を忘れない人間となることである。」このように説明されていました。主を恐れることから、人がどのような存在かを知り、謙遜を学び、そしてそこから他者を愛するということが自然に結びついていくようにとの願いが、そのような理念が掲げられているのでしょう。知恵の「初め」と言われていますから、これこそがすべての土台になっていると言えるのです。これは本日の箇所にも通ずることであります。

 本日私たちに与えられております箇所は、結婚式の際、夫妻への教えとして読まれているものであります。しかし、そのはじめに21節「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」とあります。私たちが普段読んでおります新改訳聖書では段落が違っているのですが、原典のギリシャ語や他の翻訳聖書を読んでいますと、どうやら前段落の終わりではなく、今日から始まっていきます箇所の最初に据えるべきものであることがわかるのであります。本日の箇所は夫婦についてですが、さらに6:1から親子関係について、5節からは主人と奴隷についてと、様々な人間関係について話が展開されていきます。その初めに「キリストを恐れ敬い」ということが置かれている。いわばこの「キリストを恐れ尊ぶ」ということが「要」となり、あらゆる人間関係が広がっていく、もう少しいうならば神の民の共同体は始まっていくのでした。

2. キリストを恐れ尊んで、従いなさい

 もう一度21節をお読みします。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。「知恵の始まり」と言われていた主を恐れるとはどういうことでしょうか。旧約聖書で恐れよと言われる「主」は、この世界の全てを造られた創造の主であり、この歴史を統治しておられるお方であります。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」という詩篇にも見られるような圧倒的な力を持って私たちに臨む神様であります。注意しておきたいのは、ここで詩人は恐れよと言われたから恐れたわけではありません。万物を造られたお方を正しく知る時、自然と恐れは生まれ、ただひれ伏し、礼拝する心が生まれるのであります。さて、本日の箇所では「キリストを恐れ尊んで」と言われています。イエス様はもちろん旧約で言われているような力ある神様であります。けれども、ここで恐れよと言われているのは、むしろ十字架にかかられるほどへりくだり、徹底的に仕える者の姿をとられたお方としてイエスキリストであると考えるのが良いでしょう。このイエスキリストに出会い、十字架に示される本当の愛を知り、それにふさわしく「恐れよ」、「礼拝せよ」と言われているのです。まことの主イエスキリストを知り、その愛を知るとき、私たちはその驚くべき愛に打ちのめされるのです。イエス様の十字架を間近で目撃した百人隊長は非常な恐れを感じ「この方はまことに神の子であった」とつぶやいたと聖書は記しています(マタイ27:54)。本日の夫婦についての教えは、この聖書を貫く大切な教えから始まっているのでした。単にこのようにするといいですよ、夫婦はうまくいきますよというハウトゥーではなく、神が喜ばれる夫婦の関係、神の国での夫婦の祝福された姿が描かれていると言えるのです。その土台、要に「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」が置かれているのでした。

 

3.「妻たちよ。夫に従いなさい」 

 22-24節には妻たちへの教えが書かれています。お読みします。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫の従うべきです。先ほどもお話ししましように、本日の箇所は22節「妻たちよ」の呼びかけで始まるのではなく、21節の全てのクリスチャンへの言葉から始まっています。そこでは「互いに従いなさい」と言われていました。別の翻訳で言うならば「互いに仕え合いなさい」。これを忘れて22節以下を読むとき、妻は盲目的に、理不尽な夫であっても半歩引いて従わなければならない、となってしまいます。実際ある人々は、これは古い時代の考え方だとして聖書の読み方を無理やり捻じ曲げてしまっているのです。しかし、パウロはそもそもそのようなことを言おうとしていたのでしょうか。

 確かにこの「従う」という言葉は強い言葉で、しかもあまり気持ちのいい言葉とは言えないでしょう。直訳するなら「下に置く」。宗教改革者のカルヴァンもまた、「他の人に服従するということほど、人間の精神と相いれないことはない」ときっぱり言っています。ではここでの妻たちへの教えは、そんな妻の感情を無視して押し付けられた、男性主体の世界の古くさい命令なのかというとそうではないのです。カルヴァンは続けて言います。「だからこそパウロは我々を「キリストに対する恐れ」に連れ戻すのである。」さきほど見ました21節がなくてはならないのです。このように見てきますと、恐れ尊べと言われていたイエス様ご自身が、だれよりも仕える者の姿を見せられたということを思い出すのではないでしょうか。イエス様が十字架につけられる直前、最後の晩餐でのことです。イエス様は食事する弟子たちの足元にひざをつき、弟子たちのその足を洗われるのでした。本来は召使、奴隷がすることです。しかしイエス様はそのようにして仕える者の姿をお示しになったのでした。そして言われたのです。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)。他ならないイエス様がこれをされているということを忘れてはなりません。さらにイエス様は、十字架の死にまでも従われたと書かれています。このようなイエス様を恐れ尊ぶという言葉を重視するならば、自然と私たちに言われている「従いなさい」の意味も変わってくるのではないでしょうか。

 もう少しこの「従う」ということに、特に夫婦において妻が夫に従うとはどういうことかを見てみたいと思いますが、1ペテ3:1以下にも「妻たちよ。自分の夫に服従しなさいと言われています。本日のエペソ書と同じ言葉が使われています。そしてこれに続いて「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」ただ言うことをなんでも聞いて、理不尽なことにも従い、自分を殺して夫のために尽くせと言われているわけではないのです。ここで勧められている「服従」は、「無言のふるまい」ではあるが、しかしそれは「神を恐れかしこむ清い生き方」であるのだ。さらにそのような妻の行いを夫が見るときに、神を知らない夫、神を知りながらも誤った道を進もうとしている夫は「神のもの」とされる、それほどの力を持っているのだと言っているのです。やはり「キリストを恐れ尊んで」ということが鍵になっていることに気づきます。ここまで見てきましても、夫に従いなさいと言われていることは、ただ夫のいいなりになりなさいというのではなく、あくまでも「キリストを恐れ尊ぶ」という土台に基づいた行動であるということがわかるのではないでしょうか。パウロは、夫婦関係において妻が夫に従う理由を、キリストと教会の関係の中で説明していますが、これについては後ほど触れたいと思います。以上が、妻に対する勧め、「夫に従いなさい」というものです。

 

4.「夫たちよ、妻を愛しなさい。」

 続いて、夫たちへの戒めが25節から28節まで続いています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛するものは自分を愛しているのです。」妻たちに対しては「夫に従いなさい。」と言われていたのに対し、夫たちに対しては「妻を愛しなさい」と言われています。ここでの愛しなさいという言葉には、アガパオー、まだ罪人であった私たちを愛してくださった神様の愛の言葉が使われています。さきほど、「従う、仕える」ということについて、イエス様が弟子たちの足を洗われ仕える者の姿を示されたということを見ましたが、この最後の晩餐を描き出すにあたり、ヨハネはこのように書いていました。「さて、過越の祭の前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」つまり、先ほどイエス様が示された仕える者の姿は、イエス様の愛を残るところなく示されたところの一つであると言えるのです。当然、夫たちに語られる「愛しなさい」という言葉には、ここでの「仕える者」の姿が含まれてくる。互いに従いなさいと言われていたことはここでも要となっているのです。いや、従うだけでなく、イエス様が愛を残るところなく示されたその頂点は十字架であります。愛する者のためにいのちを捨てるほどの愛、それが夫たちにも求められている。教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。夫が妻に注ぐべき「愛」の深みを教えるために、パウロはキリストが教会を愛したその愛を引き合いに出しているのです。

 さきほど妻に対する教えの時には飛ばしましたが、本日の箇所では夫婦への教えと入り混ざる形で、キリストと教会の関係が教えられています。一見すると夫婦への教えの理解を深めるために取り上げられているようでもありますが、よくよく読んでいますと、教会に注がれるイエス様の愛を知ったパウロが、その愛に打ちのめされた感動のあまり、そちらの関係に重きをおいているのではないかと思うほどであります。イエス様は教会をどのように愛してくださったのか。26,27節では「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」と言われています。26節は洗礼によって古い人が死に新しい人が新しいいのちを生きるということを表しています。イエス様の十字架の血によって私たちの罪は洗い流され、聖なるもの、神のものとされたということです。しかしもう一つ、特に27節には結婚式のイメージがあるといわれています。パウロは教会を美しい花嫁姿としてここで登場させているのです。外見にも内面においても美しく清らかな花嫁に花婿であるイエス様自身が飾られたというイメージです。これはとても大切なことです。教会は自分自身で清くなれるわけではありません。そのようにしてできたわけではない。キリストが教会を作られたのです。ご自身をささげることによって、十字架の死によって教会をお造りになった。同じように夫も、イエス様がその身をお渡しになるほどに愛してくださった愛を実践する時、妻は美しく、光り輝いていくのであります。

 もちろん私たちはキリストが教会に注がれた愛をそのまま実践することなんてできません。妻にしましても、イエス様が仕える者となられたように従うということはできるものではないでしょう。けれども、私たちにはイエス様の愛が注がれているということ、これだけは決して忘れてはならないのです。キリストを恐れ尊んでと言われる時、私たちはそのように言われるから恐れるのではないのです。このお方の愛を知り、それがこんなちっぽけなものにまで注がれているんだと知るからこそ、百人隊長のように、このお方こそ本物だと信じ、ペテロのようにこのお方の前でひれ伏すのであります。そしてその主からの愛を注がれたものとして、妻を愛し、夫に従っていく。これこそが、パウロの伝えたかったことであります。

 

5.「夫と妻は一体である」  

 さらに、なぜ夫婦がこのような関係になっているのかをパウロは続く29-33節で教えています。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。先の部分でも言われていたことでありますが、夫は自分の妻を自分のからだのように愛さなければならない、と言われています。これは自分のために相手を愛する、まわりまわって利益が自分にくるからと、打算的に愛しなさいと言っているわけではありません。それほど緊密な関係があるのだということを教えているのです。ある日本語訳の聖書では、31節、これは創世記の引用ですけれども、これをふたりは一心同体となると訳しました。一つ心に一つからだ。だからこそ、喜ぶ時には共に喜び、泣くときには共に涙するということができるのです。そして、ここにこそペンテコステに生みおとされた教会のあるべき姿がある。交読文でお読みしましたヨハネの福音書15章は、イエス様というぶどうの木につながって、私たちは枝として生きるのだということが書かれています。これもまた最後の晩餐でのイエス様の言葉です。枝は枝だけで生きていくことができず、イエス様のいのちにつながって初めて生きることができる。教会は、まさにそのイエス様のいのちによって生み落とされた存在であります。そしてイエス様はその教会を美しく、ご自身にふさわしい形に整え飾ってくださる。結婚式はスタートであります。教会がキリストのいのちにあっていき始めるように、夫と妻はもはや一心同体、一つのからだとなって主を恐れ尊び、互いに従い、仕え合い愛し合っていくのであります。これは決して当たり前ではない、緊密な関係です。人間の努力によって一つになるのではないのです。神様によって一つとされる。愛は結びの帯として完全ですというみことばもありますが、夫婦は神様によってこの愛の帯によって結び合わされた者、ひとつとされたものであるのです。

 

6. まとめ     

これまで愛についてお話ししてきましたけれども、これは何か冷たい、形式だけの愛ではありません。このあと共に捧げる賛美はシャロンの花という賛美です。旧約聖書の雅歌と呼ばれる書をもとに作られた賛美でありますが、ここでは神様と神様を信じる者たちが愛し合う恋人のように描かれています。英語ではsong of songsという名前ですけれども、その中の一節に、この神様からの愛は「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」というものがあります。とても温かい愛が私たちには注がれており、夫婦には求められているのです。愛された者として愛していく。主を恐れ、互いに敬い、仕え、愛し合っていく。そのような交わりを求めて歩んでまいりましょう。