心の直ぐな人の幸い

■聖書:詩篇32篇     ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。(詩篇16:2

 

1. はじめに

 喜びの朝を迎えております。ずっと祈ってまいりましたY兄の洗礼式です。もうすでに洗礼を受けているお方も、洗礼のことを思いながらまだためらいの中にある方も、ともにこの朝、この素晴らしい恵みの時を喜びましょう。それは私たちだけ、この地上の日本、金沢の、金沢中央教会だけの限られた喜びではなく、天での大きな喜びとなっています。たった一人の罪人がイエス様を信じ、自分の罪を告白して救われるとき、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」とイエス様ご自身が教えておられます。Y兄と洗礼の準備をしてきて、彼がとても素直な心を持っているということに何度も気づかされてきました。彼が罪に対してどのように向き合ってきたのか、その罪を悲しんでいるのか、その罪から救われたいと願っているのか。それが心の素直さ、本日の説教題に合わせて言うならば「心が直ぐ」、まっすぐであるということと言えるのです。実はこれが私たちの救いには必要不可欠であるのです。天の喜びは先ほどお読みしたイエス様の言葉によりますと、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」。正しいこと、良い行いをすることは大切です。けれども天での喜びはそこにはありません。一人の罪人が悔い改める。それこそが天の喜びを生むのです。すべての人が罪人であると教える聖書では、何よりもまず神様の前で自分の罪に気付くかどうか、自分の罪に向き合うかどうか、それを心から悲しみ、そこからの解決を願うかどうか。神様はそれを見ておられる。このことが本日の詩篇からもわかります。そしてその罪が赦されることにこそ、何にもまさる大きな喜び、「幸いである」と呼ばれる人生がある。みことばに聞いて参りましょう。

2.「さいわいな人」の喜びと「さいわいでない人」  


 本日の箇所は、さいわいである人について語るところから始まっています。1,2節。幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。お集まりのみなさんにとって、「さいわい」、つまり「幸せ」だと感じるのはどのようなときでしょうか。なんらかの成功を収めたときでしょうか、念願かなって何かを成し遂げたときでしょうか。不自由ない暮らしをし、家内安全でいることでしょうか。それらは確かに素晴らしいことです。しかしそこに満ち足りている、満足している人は、もしかしたら少ないのではないでしょうか。もっとお金があったら、もっと自由があったら、もっと高い地位を持っていたら、もっと良い学校を出ていたら。様々なものを手に入れたとしても、それでは足りないのが私たちなのです。持っているものではなく、持たないもの、足りないところにばかり目を止めてしまうのは、多くの人が経験しているところではないでしょう。満足できないということを言い換えれば、安心することができないということです。今が良かったとしても、いつそれが終わるのかを思って不安になる。絶えず何かが足りないとやきもきし誰かと比べては一喜一憂する。それは幸せな生き方でしょうか。

 

 本日の詩篇を歌ったダビデはイスラエルという国の王様でした。しかもただの王様ではなく、百戦錬磨の強さを誇り、国民からも愛され慕われていた良い王様でした。あらゆる力や名誉をもっていた人物です。しかしそんなダビデの幸せは溢れる力や権力や財産や名誉によるのではありません。「そむきを赦され、罪おおわれ、咎を認められない」ということ、一言で言うなら、罪が赦されること、それこそが最大の幸せだと、声高らかに歌い出しているのです。ここで登場する背き、罪、咎とはそれぞれ違う言葉ですが、そのどれもが神様から離れて生きる「罪」の状態を表す言葉です。アダムとエバの時、エデンの園を追い出されたところから始まる、すべての人がうちに持つ罪です。神様の言いつけに背き、自らが神となろうとする姿です。どんな立派な人生を生きている人でも、この神様から離れて生きているという罪があり、それゆえに満たされない、何かがあれば揺らいでしまういっときの幸せしか味わうことができないのです。そんな罪を「赦され、おおわれ、お認めにならない」。どの言葉も主語は神様です。神様が私の背きを赦してくださる。神様が私の罪を覆い隠してくださる。私の咎を神様はお認めにならない。罪がないわけではありません。私たちは罪人です。怒られるべき、死の報いを受けるべき者です。けれども、神様がそれを罪としない、あなたを赦すと言ってくださるのでした。

 

 なぜすべてのものを持つ偉大な王ダビデは、その最大の幸せをこの「罪の赦し」に見ていたのでしょうか。それは、罪を抱えながら生きることの辛さを知っていたからに他なりません。3,4節「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨骨は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」「黙っていた」これは続く5節の関係から、罪を持ちながらもそれを黙っていた、罪を隠していた時と読むことができます。解決されなければならないことはわかっている。自分が悪いことはわかっている。しかしそれをどうすることもできない。そんな時、私たちの心と体は燃える火をうちに抱えるように焼けただれていく。いつも後ろめたく生きていかなければならない。ここには1,2節との対比があります。先ほどの箇所には「主が私の罪を覆ってくださった」ことが幸いであると書かれていました。一方でこの3,4節での苦しみは「私が私の罪を覆う、隠す」というニュアンスです。その時には大きな苦しみがあったのです。それは本来神様の前にいるべき私たちが、そこから離れて罪の中で生きることによる不自然さ。それらのものが私たちを傷つけ、悩ませ、弱めるのです。綺麗な水を飲んで生きていた生き物が、汚れた水を飲むときに私たちの体は弱っていくのです。私たちもまさにそのような存在です。神様の元で生きているべきなのに、罪に汚され、心と体は傷つき、静かに血を流していく。そんなとき、自分自身の悪は自分自身がよくわかっていますから、正義の神がとても怖い存在になります。聖書の神様は親が子を優しく抱きしめるように私たちを抱きしめ、羊飼いが傷つき迷う羊を助け出し導こうと伸ばすように、手を伸ばしてくださるお方です。そのお方の優しい手が、まるで押さえつける怖い手のように感じてしまう。それは「さいわい」とは程遠いことなのです。

 

3. 罪の悔い改めとそれを喜ばれる神様 

 この詩の背景には何があったのでしょうか。ダビデは偉大な王であり、イスラエルの国の素晴らしい王でしたが、しかしなんの欠点もなかった、正しい道を常に選び、まっすぐに歩んだというようには書かれていません。これもよく考えると不思議なことで、為政者や権力者は往々にして歴史を捻じ曲げ、自分たちに都合のいいところばかりを残そうとします。自分の汚いところ、失敗をあたかもなかったかのように、美しいところだけを後世に伝える。しかし聖書はそうではありません。イスラエルという神の選びの民の国の王でさえ、大きな罪を犯したことを赤裸々に聖書は教えます。この価値観こそ本日の詩篇に通ずるものだと言えるでしょう。すなわち、罪を正直に認めることが、自身を美しく飾ることよりもはるかに素晴らしいことをもたらすことを教えているのです。見せかけだけの「美しさ」をかざったとしても、それは苦しいだけなのです。

 ここでダビデが犯した罪、黙っていたときに彼の骨骨を疲れさせ、心身を疲弊させていた問題とは、バテ・シェバという女性をめぐってのことでした。繰り返していますように、ダビデは一国の王です。多くのものに満ち溢れていた。けれども満ち足りてはいなかったのです。一人の女性、しかも既婚で夫ある女性バテ・シェバに心を奪われてしまいます。その夫を激戦の地に押しやって殺し、無理やりにバテ・シェバを自分のものとしたのでした。しかもダビデはそれを口外しません。できはずがないと言った方が良いでしょうか。あたかも何事もなかったかのように振る舞うのです。卑怯この上ないダビデ。しかし、自らの犯した罪を隠すということは、私たちにも多くあることです。小さな子供にさえそれは見られます。親に叱られるのがわかっているから、知らんぷりをする子供のように。あるいは自分と関係のないだれかの責任をなすりつけていることはないでしょうか。責任転嫁です。そうやって罪を隠し自分を守ろうとするのです。アダムとエバもそうでした。彼らは神様の言いつけに背いて木の実に手を伸ばしました。しかし言いつけに背いたアダムはそれを妻エバのせいにし、エバは蛇のせいにし、最後には神様のせいにする。そのようにして罪を見ないようにし、神様から隠れようとする。その罪が私たちにもあります。ダビデと同じなのです。

 しかし、神様はダビデのその罪を隠したままにはされませんでした。お前は罪を犯したのだ、お前はもうだめだ、と言っていわば自然に朽ちるままにはされなかった。一人の預言者をダビデの元に送り、その罪を指摘するのです。「どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で斬り殺したのだ。」これ以上言い逃れできないほど、きっぱりと罪状を突きつけた神様。これはダビデを苦しめるためでしょうか。確かに罪を隠し、言い逃れをするものはこの罪の現実を見なければなりません。それはとても苦しいことで、できれば避けたいものです。けれども、ただ苦しめるためだけに罪を明らかにされたのではなかったのです。この預言者のことばを聞いた時、ダビデは言います。「私は主に対して罪を犯した。」もちろん、当事者であるバテ・シェバ、ウリヤ夫妻への罪であることは明らかです。しかしそれだけでなく主に対しても罪を犯したのだと彼は知ったのです。いや、見ないようにと自分をごまかし隠していたものに、光が当てられた。そのとき彼はすぐに罪を告白します。「私は主に対して罪を犯した」短い言葉です。言い訳などは一切なく、ヘブル語にしてわずか二つの単語だけ。そして、この短い告白を深い悔い改めの中でつぶやくやいなや、神様はすぐさまその答えを与えられました。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」「私は赦す」と言われたのです。本日の箇所に戻り、5節をお読みします。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私はもうしました。「私のそむきの罪を主に告白しよう」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。「隠しませんでした」とありますが、先ほどの3節では黙っていた時と認めていますから、預言者ナタンに罪を突きつけられたときには、「隠さなかった」ということでしょう。ああもう言い逃れはできないと悟った。自分の中の罪を抱えながら生きていく苦しみがあったのでしょう。もう我慢できない。もうこの罪を隠しては置けない。そのようにして溢れてきた告白です。その先に赦しがあることがわかっていたから言えた、という訳ではないでしょう。いえば楽になるからとか言うものでもなかったはずです。ただ、神様の前に立つ時、光に照らされて闇が押し出されていくかのように、真実な告白へと導かれたのです。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。真実な罪の告白には、速やかな赦しの宣言が与えられます。言い換えれば、罪の告白がなければ赦しの宣言はありません。罪を抱えながら生きていかなければならないのです。神様がダビデの罪を示された時、確かにそれはダビデにとって大きな痛みとなったことでしょう。罪を見るというのは嫌なもので、できれば避けたいものです。けれども、それがなければ救いには至らない。神様は本当の解放を与えるために、ダビデに罪を示されたのです。罪は何か良い行いをしたからなくなるわけではありません。ただ神様によって赦されなければならない。そのためには自らの罪を告白し、悔い改めることが必要なのです。いや、ダビデのことを考えるならば、その罪の告白さえも神様によって与えられたものであると言えるでしょう。一方的に赦しをいただいたのです。罪を告白し、その罪が赦されたものは、6節、それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。祈りとは、神様との対話、暖かで親密な交わりです。罪を内に秘めたまま後ろめたく生きているものには味わうことのできない恵みです。しかし、その罪を一度神様の前に告白すれば、すぐさま赦しが与えられ、祈りの素晴らしい交わりに迎え入れられるのです。そして私たちを四方八方から囲む大水の濁流という大きな困難も、もう私を苦しめることはない。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」神様が私たちを隠し守ってくださるのです。私たちが自分自身で自分自身の罪を隠し、自分自身を守ろうとしていた時、それはとても苦しいものでした。頼るべきお方に頼ることもできず、ひとりでいきていかなければならない。うちにある罪の苦しみにさいなまれつつ、心も体も傷つきながら生きていく。しかし一度(ひとたび)主に罪を告白すれば、そのようなものから解放され、今度は神様が私たちを優しく隠して、守ってくださるのだと歌うのです。救いの歓声で、私を取り囲まれます。一人の罪人が罪を悔い改める時、他の九十九人の正しい人にもまさる喜びが天にあるとイエス様は語られました。天においても大きな喜びをもたらすのです。なぜそんなにも大きな喜びが、一人の罪人の悔い改めにはあるのでしょうか。

 それは、罪の悔い改めとそれによる赦しこそが、神様が願われていることだからです。先ほども、なぜ神様はダビデをそのままにされなかったのか、なぜ預言者を送り、罪を突きつけたのかということを少しお話ししました。それは、罪が明らかにされ悔い改めるということを神様が求めておられるからに他なりません。生きる方向を変えること、それまでは神様を避けて自分の好きなようにあっちへ行きこっちへ行き曲がり曲がっていた道を、神様に向けてまっすぐにすること、それこそが神様の願われていることなのです。そのためには愛するひとり子イエスキリストを私たちの身代わりとして十字架におかけになるほどの愛を注いで下さったのです。だからこそ、たった一人の人でも罪を悔い改めれば、割れんばかりの歓声が、溢れんばかりの喜びが私たちを包むのであります。

 

4. 悔い改めたものに対する神様の導き

 罪が赦されて、めでたしめでたし、終わりではありません。悔い改め、向きを変えた人を神様は導いてくださいます。8-9節。わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。この詩が7節天地の喜びの歌で終わらず続けられるのは、私たちの人生はまだ続くということを表しています。それは罪赦されたものとしての神様と共に生きる人生です。私たちは依然として弱く罪を犯しやすいものですから、この救いの喜びを知ったからといってもう間違えない、もう隠れないわけではありません。罪を犯すこともある、道を誤ることもある。だからこそ、神様が私たちに悟りを与え、行くべき道を教えてくださるのです。お気づきになったでしょうか。この二節だけ、主語はひらがなで「わたし」となっています。新改訳聖書ではこれが、神様がお語りになっていることを表すためにそのように使い分けをしているのです。ダビデの罪の告白があり、神様の赦しと赦されたものへの導きが表されています。まるで神様とダビデの、神様と救われた私達との、豊かな語らいが描かれているかのようであります。その優しい声を聞く私たちは、悟りのない馬やラバのようであってはならない、くつわや手綱によって強制的に、自分の感情を無視して連れていかれるようであってはならない。「わたしの声に耳を傾け、喜びをもってわたしの道を歩みなさい」と言われるのです。

 しかしどうでしょうか。その声に反発したくなることがあります、その道が見えなくなることがあります。従いたいと思いながらも従えないときだってある。時には、神様の手がうっとうしく感じることだってあるかもしれません。私達は変わりやすいのです。弱いのです。でもそんな時は思い出して欲しいと思います。神様はダビデの罪の告白を待っておられ、それが告白されるやいなや赦しを与えてくださるお方であるということです。私達は変わりやすいものです。感動はやがて薄れ、神様と共に生きることに苦痛を感じることがあるかもしれません。でも神様は変わらずに、私たちが何度でも立ち返ることを待っていてくださるのです。冒頭から述べていますイエス様の言葉、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」という言葉は、放蕩息子のたとえ話へと続いていきます。自分勝手に親元を飛び出していった息子に対して、お父さんはいつまでその帰りを待っているのでした。嫌々ながら、不満を言いながらお父さんの元にいた兄息子に対しても、優しく諭してくださるお方である。そんなお方が、私たちを待っていてくださる。たとえ神様を見失い、その道を外れ流ことがあったとしても、私たちが神様にごめんなさいという時、必ずそれを受け止めてくださる。このお方が変わらずにおられることを、この喜びの朝、ともに覚え、感謝しましょう。

 

5.まとめ 主に信頼する者、心の直ぐな人は喜びの人生を歩む

 最後の節をお読みします。悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。心の直ぐな人たち。心がまっすぐな人たちよ。喜びの声をあげよと言われています。これこそ、幸いな人の生き方です。私たちはごまかしたりせず、いつも神様に向けて心をまっすぐに向けていきたいと願います。素直に生きるということ。目に見える、幸いと思えることは多くありますし、神様から目を離させようとする力は強い。罪は誰も見たくないものですし、できるならば光の当たらない影の部分においておきたいと思うものです。けれども、私たちは本当の幸い、平安に満ち溢れた生き方は、神様の赦しがなければあり得ないということを知っています。罪を告白するときに、それを受け止め赦しを与えてくださる方であることを知っています。そのお方に心をまっすぐに向け、新しい週を、新しいいのちの道を、歩んでまいりましょう。最後に、同じダビデが書き残した詩編の一節をお読みし、お祈りをもって終わりにします。詩篇162節「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」