心を奮いたたせるもの

❖聖書の個所 ネヘミヤ4章1節~6節      ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 「ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。…」   第二コリント7章10節

 

◆(序)この個所について

①この個所を開く理由

 実はこの個所は、この教会に赴任した時に、働きを開始するにあたってまず教会の原点を大切にしたいと願い、最初に開いた聖書個所でした。主の憐れみにより、その時から25年経ち、当時懸案だった会堂がこの地に与えられ、また伝道所も生まれましたが、日本の社会、また教会を取り巻く状況が地殻変動、大きく揺れ動いているように思える現在、いよいよ教会の原点が大切になっていると考えることから再度開いているものです。

②ネヘミヤとその時代背景 

・ネヘミヤは遠く離れた捕囚の地 、元のバビロンにおいて、バビロンを征服したペルシャの第5代目王の献酌官として、王に仕えていたユダヤ人でした。時代的には、ネヘミヤがエルサレムに帰還したのは、B・Cの445年であり、捕囚の時(B・C587年頃)から約140年経っていました。

・バビロンを破り、新たな支配者となったペルシャ初代の王クロスは、各民族に対する寛容な方針をとり、ユダヤ人たちも既に一部の者たちは帰国し、80年ほど前、B・Cの520年には既に神殿が再建されていましたが、エルサレムは荒れ果てたままでした。人々はエルサレムが再建され、回復すると自分たちの権益が阻害されることを恐れたその地を支配するサマリヤの総督、サヌバラテたちによって町の整備を阻止され、町を囲む城壁は崩されたまま、無防備な状態に置かれていたのです。

・エルサレムからもたらされたその報告を聞き、ネヘミヤは四ヶ月、じっと祈っていましたが、内側から湧いてくる思いを押しとどめられず、王に帰国を願い出て、ネヘミヤを非常に信頼していた王アルタシャスタ王の特別の計らいにより、その地の総督たちへの王の手紙と護衛の兵士たちを与えられ、はるばる帰還の旅(約1.760km)をし、エルサレムにやって来たのです。

・彼は着いてすぐに調査を行い、そして同胞である町の代表者に「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」(2章17節)と呼びかけ、神の恵みと、王が自分に話したことばを証ししました。そのネヘミヤのことばを聞いて、人々は心を動かされ「さあ、再建にとりかかろう」と言って、この仕事に着手したのです。 (2章17節~18節) この計画に対し総督サヌバラテたちからあざけり、さげすみと共に強力な反対行動が起こりましたが、それぞれの地域ごとのリーダーを中心として各部分において門や城壁の再建工事が進み、ついに必要な個所が完成したのです。


◆(本論)困難な状況下、困難な事業を速やかに行うことができた理由

 ①民たちのうちに、この事業は主の働きであるとの確信があった

  聖書は、強力な又執拗な反対があった中、間もなく半分まで出来上がったことについて「民のうちに働く気があった」と記します。この意味は重要です。というのは、これは単にこの事業について働く気があったというのではなく、これを行うことの意味を深く理解し、それゆえに、強力な反対にさらされても懸命に取り組んだということです。その彼らの思いの中心にあったのが、神の民としての悔い改めの思いと新たな神の民としての出発の思いでありました。民たちは城壁がくずれたままになっていることを、ただ、反対者たちの存在や自分たちの力不足の問題と捉えませんでした。      

 もっと根本の問題として、拠点である神殿は上記のように、どうにか再建できたもののエルサレムの町が今も悲惨な状況にあるのは、選びの民、契約の民 (出エジプト19章1節~6節)と

されながら、神に背き、偶像礼拝に走り、生活も堕落し、不品行や不道徳なことで満ちていた状態に対し、神からの裁きとして 国が実質的に崩壊したということを深く受けとめました。

 エルサレムの惨状は、主に対する背きのゆえに、主が自分たちに対して下された裁きと受けとめ、その神に対する悔い改めの思いに満たされたのです。

    それゆえ、彼らは、主の民、主の器として、御名のために一日も早く、城壁を再建しようという思いが与えられたのです。このように彼らの働く気とは、前の世代が犯した罪を、自分たちの問題として捉えた悔い改めの思いであり、それゆえに神の民として新しく歩み出そうとする内側から湧いてくるものであったのです。第二コリント7章10節~11節に真の悔い改めの姿が記されています。(朗読) それは自分たちの使命をもう一度心に深く覚えることでありました。


  ②勇気と熟慮した計画、行動

 この事業が積極的に推進されたのは他の理由があります。神のビジョンに立ったすぐれた指揮があったことです。民たちはその指揮によって、これまでの恐れを克服し、勇気を持って事業に立ち向かったのです。執拗な反対に対してネヘミヤが民たちに「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(4章14節)と語ったことを受けて、彼らは立ち上がったのです。彼らは、主と愛する者たちのために恐れを克服して、自分たちの姿勢を明確にしたのです。

 三つ目は、明確な役割分担です。各自が責任を持って自分たちの場所を担ったのです。そして同時に互いを思い、全体の調和を大事にしたのです。それぞれの部分を担う各自の思いと、全ての者の心が一つになる全体の調和が取れていたのです。彼らは、無計画にやみくもに働いたのではないのです。すぐれた指揮のもと、はっきりした目的を持ち、互いに自分に出来ることを責任を持って行い、又仲間を配慮しながら取り組んだのでした。(15節から23節)


◆(終わりにあたって)

 土台に石を置き、丈夫な木のやぐらを組み石や土で押し固め、そして表面は石垣で覆う、しかも高さ約10メートル程のビルの三階程にもなる、幅も厚く、敵の襲撃にも簡単に打ち破られない城壁を、エルサレムの周りじゅうに築くことは容易ではありません。まして、強力に反対する敵が襲いかかろうとしている中です。しかし、民たちはこの困難な事業を短い期間に成し遂げたのです。(ネヘミヤ6章15節) 驚くべきことですが、事実でした。  

 弱さ、足りなさ、未熟のために失敗、過ち、主の信頼を裏切るような行動をしない人や家庭、教会はありません。大事なことは、そんな姿を素直に認めて、主を見上げて悔い改め、新しく踏み出すことです。心砕かれて共に主の前に静まり、新たに歩み始めることです。私たちがそんな姿勢を持って、主の前に思いと心を一つにする時、主は今まで考えられなかった勇気とそれを行う実際の力を与えて下さるのです。個人、家庭、教会全てについて言うことができると思います。この出来事は今も、主を信じている者が心を一つにして神の愛と赦しを受け、ただ神にあって立つ時に、今まで経験したことがないような大きな力が与えられることを示しています。そしてその力によって、人の側でもできる限り最善の準備をして果敢な行動をする時、以前は考えられなかったことができるのです。頑張りはやがて疲れに変わります。しかし、主が与えて下さる愛と力は絶えることがないのです。日本の教会、私たちの教会にもさまざまな課題があります。信仰が個人の内面のことばかりになっていたり、教会が自分たちの現実の問題ばかりにとらわれ、主が教会を立てている真の理由、神の国の広がりという目的に関心を持たないことです。確かに困難な土壌です。しかしこの方以外に救いはないのです。現状に対する犯人探しばかりするのではなく、この時の民たちのように主の前に深く悔い改める者となりましょう。そうする時に主は想像もできなかった上からの知恵と力を与えてくださるのです。我々の国のような全体主義的になりやすい所こそ、真の主の教会が必要なのです。