御霊に満たされ

■聖書:エペソ人への手紙515節〜20    ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18

 

1.はじめに

 前回の箇所では「光の子どもらしく歩む」ということが言われていました。光があれと言って世界を創造された神様。そのひとり子であるイエス様は、闇に打ち勝たれるまことの光として世に来られ、人々を照らされたお方でした。そして、そのお方を信じ受け入れた私たちもまた神の子とされ、光の子どもとされるのだと教えられているのでした。そしてそれにふさわしく歩むようにと言われる。イエス様の強く優しい光に照らされならが、私たちもまた世の光として、与えられた光を遮ることなく生きるようにと言われているのでした。5章は1節から、愛されている子どもらしく愛のうちを歩めとか、神のものとされた聖徒にふさわしくとか言われてきました。そして光の子どもらしく歩みなさいと続いてきたのです。それに続く本日の箇所、この箇所は「礼拝について」の教えであると説明されます。実はこの礼拝についての本日の箇所がこの位置に置かれているということがとても大切であるのです。これまでエペソの人々、そして私たちがどのような存在であるかを思い出させ、それにふさわしく歩みなさいと言われてきました。それは先ほど簡単に振り返った通りです。いわばクリスチャンとしての模範的・理想的な歩みが、ある意味でとても抽象的に描かれていました。しかし21節以降を見てみますと、夫婦の関係に始まり、親子、主従関係と、私たちの生活における具体的・実際的な人間関係についての教えが連なっているのです。理想的な教えから実際生活へと話を進める前に、どうして伝えなければならないことがパウロにはあった、ということができるでしょう。それこそが本日の箇所、礼拝についての教えであるのです。

2. 本論①「賢い人のように歩む」

 早速本日の箇所を見て参りましょう。15-17節をお読みします。そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころはなんであるかを、よく悟りなさい。最初に言われていることは、歩き方に注意しなさいということのようです。これまでにさまざまな「歩み」について語られてきたのは先ほどから見ているとおりですが、その歩みの一つ一つに注意深くあれ、自分自身を点検しなさいというのです。それこそが、賢い人の歩みであると言えるのだとパウロは説くのでした。愚かな人の歩みは盲目的、暗闇の中を歩むようであると言えるでしょう。それに対して賢い人は、神様に照らされた光の中を歩んでいるのだから、しっかりと道を見、自分の歩みを点検できるのでした。

 さて、この賢さがどのような種類のものであるかということが大切になってきます。単なる学力ではないということはもうお気づきになっているでしょう。この賢さ、ギリシャ語ではソフィアと呼ばれ「知恵、知識」を意味しています。文脈から見ていきますと、この賢さは暗闇の中を歩んでいない、神様の光の中を進んでいる、照らされていることのようです。そのような光に照らされた者だからこそ、「機会を十分に生かして用いる」ことができると言えるでしょう。この箇所は直訳では「時を買い戻す、買い取る」となります。この時、私たちの聖書では機会と訳されていますが、それは神様の時、神様の計画の中での「時」に他ならないのです。神様の光に照らされ、神様の時を知っている者は、この時の分別を持つというのです。悪い時代、つまり神様の光から離れ、暗闇の世界の中にあって、光に照らされた者が神の時の中を生きるということが求められているのです。神様の時、神様の計画について、聖書はたくさんのことを教えています。その中でも特に覚えたいことは、「神は言われます。「わたしは、めぐみの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」との言葉です。私たちがこの神様の時をいつも意識して生きなければなりません。そして「今」と言われている間にしなければならないことがある。「時の流れ」と言う言葉もあるように、刻一刻と時間は流れていき、ぼんやりしていると何もしないままに毎日がすぎてしまう。ましてや、悪い時代と呼ばれる暗闇の中で多く私たちは盲目になってしまい、見るべきところ、向かうべきところがわからずに自分一人で突っ走ってしまうことがあります。神様を知らなければ神様の計画、神様の時なんて知りようがなく、その時を取りこぼしてしまうのです。神様が「今」望んでおられることはなんでしょうか。「今」と呼ばれる時の中で、神様の子どもとされた私たちは何を求められているのでしょうか。これを注意深く探っていく。このことが求められているのです。

 これまでお話ししてきたことはすべて「主のみこころはなんであるかを、よく悟りなさい」という言葉に要約できるでしょう。よく悟る、言い換えれば「分別をつける、見分ける」ことこそが知恵であり、賢さであり、神様から放たれる光の中の歩みなのです。「主のみこころはなんであるかをよく悟る」。この言葉を聞いてピンと来られるでしょうか。10節をご覧ください。ここでもまた光の子どもらしく歩むために必要なものは「主に喜ばれることがなんであるかを見分ける」と言われているのです。クリスチャンの生きる基準は「主の御心」にあるのです。善い悪いの物差しは御心にかなうか否かであり、その御心は聖書によって示されるのであります。「今」すべきことを、「今」というときのうちにしなければならない。第一のことを第一にするとも言えるでしょう。物事の優先順位を、神様の光の中で選び取っていくことが求められています。

 イエス様のたとえ話を思い出します。一人の金持ちの話です。この金持ちの畑が豊作であった年、彼はそれを独り占めしようと大きな蔵を建てて財産を蓄えます。そしてそれが完成した時、彼は自分に語りかけ「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言うのでした。ああもうこれで大丈夫だ。自分はこれから困ることがない。これは確かにこの世の成功者の姿かもしれません。溢れるものがあってようやく安心を見出すのです。しかし、この金持ちのこの行動に対して神様は喜ばれたわけではありませんでした。「愚か者」と呼び、その命が今夜取り去られると言われ、そこには虚しさしかないことを教えているのでした。もちろん財産を持つことが悪いわけではありません。神様が愚かだと言われるのは、それをどのように使うのかということです。「自分のために蓄えても、神の前に富まないものはこの通りである」と言われてしまうのでした。このたとえ話に続けて一つの結論をイエス様は教えられています。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。…そして、「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」私たちが求めるべきもの、第一にすべきことは神様の光の中で生きること、神様の時の中で生かされていくことです。そうした時にすべてのものは与えられると教えられているのです。一方でそれを見失う生き方は、結局は何もかも無くなる虚しいものです。いやそれに固執するあまり、失うことを恐れる苦しい生き方とさえ言えるでしょう。

 

3. 本論②「御霊に満たされる」

 さて、このように「主のみこころがなんであるかを悟れ」と言われた後の言葉、18節をお読みします。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」賢い人の歩み、神様の光に照らされた者の歩みでは「酒によってはならない」のです。ここで言われているのは、感覚や分別を麻痺させ、何よりも見るべきものを見なくさせる、第一にすべきものをわからなくさせる泥酔に対する禁止であります。古くから人々は様々なアルコールによって不安を解消し、興奮や快楽を得ていました。酒に酔うという理由には様々あるでしょう。心に穴があり、あるいは生活の苦しさや悲しさ、虚しさを埋めようと、麻痺させようとしてお酒を飲むということがあるのではないでしょうか。あるいは日頃のストレスを意識から追い出すためにお酒を飲む。孤独を感じているから、お酒を飲んで楽しい気分になる、そのような人たちと一緒にいたくなる。裏返して言えば、お酒を飲まざるを得ない心の空洞が世の中には多くあるのだと思うのです。ここではお酒について語られていますが、私たちの心を麻痺させてなんとか虚しさを忘れさせようとするものは多くあるのではないでしょうか。先ほどの金持ちの蔵もまさにそのようなものであり、人々はそこに安心を求めるのであります。単に酒に酔わなければいいという問題ではないのです。そこには放蕩がある。文字を見るだけで「放蕩息子」のたとえ話を思い出します。放蕩息子の人生を思うならば、これがどのような生き方なのか、見えてくるのではないでしょうか。彼は本来いるべきところから、第一にすべきことから飛び出しました。フラフラとして自分の思いのままに振舞っていたのです。しかしその結果はどうであったのか。それは虚しさです。お金を湯水のように使い切った彼は、やがて食べるものさえなくなり、友人たちも離れていき、一人っきりで途方にくれました。彼はお金があるときには楽しかったけれども、それが尽きてしまうとどうしようもない虚しさに襲われたのでした。先ほども金持ちの例えを見ましたけれども、彼もまた、たくさんの貯えをしながらもいのちを失い、結局は何も残らない。そこに本当の安心はないのです。お酒も同じであるとパウロは教えるのです。酒に酔うということは、確かにとても楽しいものかもしれません。しかしそれはいつまでも残るものではない。あくまで麻痺させる、強く言えば、逃避や一時の楽しみに過ぎない。多くの人がそれを知りながら、しかしそこに頼るより他ないのです。そうせざるを得ない悪い時代なのです。パウロもそれをよく知っていました。だからこそ、「酒によってはいけない」という禁止命令だけで終わらずに、「御霊に満たされなさい」と、さらに素晴らしい人生の処方箋を教えているのです。いや単なる比較、「よりよい」程度のものとして勧めているのではなく、全く別の喜びや楽しさを伝えているのです。

 御霊に満たされる時にのみ、本当の安心、喜び、そして満足があります。孤独で、満たされない渇いた私を満たしてくださる御霊、聖霊とはどなたでしょうか。それは、やはりイエスさまの十字架直前の言葉で示されていました。ヨハネの福音書14:16、最後の晩餐の場面でイエス様は弟子たちに言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」これから何が起こるのか、すべてをご存知であったイエス様は、このあと弟子たちがどのような苦境に立たされるかも知っていました。指導者であるイエスを失い、揺り動かされる彼ら。弱く風が吹けば消えてしまいそうな信仰の灯火です。その火の光を消そうとする誘惑はたくさんありました。別の物で安心を得ようとさせる力も大きかったことでしょう。私たちと同じです。目に見えるものに安心を求めようとするのです。けれども、イエス様はあなたを決して一人にはさせないとしてもうひとりの助け主、すなわち聖霊を約束されたのでした。ここで助け主という言葉には注意書きが付けられていて、別訳では「援助のためにそばに呼ばれたもの。とりなしてくれる人」とあります。援助のために、つまり私が一人では立てなくなって倒れてしまいそうな時、しかし私を助け支え立たせてくださるお方です。さらに聖書を読んでいきますと、このお方が私の涙をぬぐいとって下さる慰め主であり、私たちの進むべき道、第一に選ぶべきものへと導いてくださる導き手であることが書かれています。その全てを含めて助け主と呼ばれているのです。このお方に満たされる。つま先から頭の先まで、このお方に頼りなさいと言われているのです。そこに本当の安心がある。満たしがある。喜びがある。お酒はやがて醒めます。その時には何が残るのでしょうか。お酒を飲むということを責めているわけではありません。繰り返しになりますが、今は悪い時代です。お酒を飲まなければやっていけないような現実が確かにあります。そんな中で、多くの人は本当の慰め、本当の安心を知らずに、悲しみや苦しみをまぎらすことしか知らない、闇の中を歩んでいます。けれども、知っていただきたいのです。一時だけ心を楽しませ安心させる世の物とはまったく違う、この御霊の存在を、そこに満たされることの喜びを、知っていただきたいのです。

 

4. 本論③「御霊に満たされた」人の礼拝の礼拝

 御霊に満たされた人の歩みがどのようなものであるのか。私たちを導いてくださる御霊によって、私たちは主の御心がなんであり、何が主に喜ばれることであるのかを見分けて生きることができるようになります。しかしそれだけではありません。続く、19,20節にはパウロ自身が体験した大きな喜びが溢れています。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」御霊に満たされることによって、「互いに語り」、「歌い、賛美し」、「いつでも、すべてのことについて感謝する」ことができるのだと、読めます。お酒を飲まなければやっていけないような、お酒を飲むことでしか悲しみを麻痺させ、自分を慰め、楽しみを見出すことができないような悪い時代の中で、しかし本当の安心に満たされた者に与えられた素晴らしい喜びがここにあります。詩と賛美と霊の歌、これがそれぞれ何を意味しているか、多くの学者たちによっていろいろ説明されています。しかし肝心なのは、それらが御霊満たされて初めて湧き上がってくるものであるということです。空っぽで暗闇の中を生きていた人間からは出てくるはずもないものでした。私たちを満たしてくださる聖霊によって自然に湧き上がってくるものであります。

 そのような御霊によって互いに語ることができる。お酒を飲むことで、本音の話しができる文化があります。言い換えれば、お酒を飲まなければ本音の話はできないというのです。しかしどうでしょうか。いろいろなことを麻痺させ、心のフィルターを外して話すということはできるでしょうが、それは極めて一方的な発散に過ぎないのです。話して楽になる、という程度のことでしょう。しかし御霊に満たされる時には、それを超えた素晴らしいものが与えられます。もうお気づきになっている方もいらっしゃると思いますが、イエス様によってもうひとりの助け主、聖霊が約束されました。それが実現したのがペンテコステの日です。教会のカレンダーを見ますと、今年は524日となっています。聖霊が降った日、人々は様々な国の言葉で、しかし一つのこと、神の大きなみわざを語り始めます。ここに教会は始まるのでした。教会とはまさにそのような存在であります。周りを見渡してください。ここでなければ会うことがなかった人ばかりではないでしょうか。それぞれ年齢も立場も、あるいは文化も歴史も違うひとり一人です。しかしひとりの助け主によって教会は一つとされている。それぞれが抱える問題も違いますし、考え方も違うでしょう。けれども、同じひとりのお方によって私たちは結び合わされているのです。私たちの好き嫌いではなく、聖霊の働きであります。そして、このひとりのお方が私たちのうちで働かれるからこそ、私たちは本当の意味で「喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣く」事ができるのです。あの人の喜びを自分の喜びとし、あの人の痛みを自分の痛みとしてともに涙することができる。私たちはそれぞれ神から離れ自分勝手に生きる放蕩息子でした。それぞれがそれぞれの好きなように生きていた。そんな私たちが、しかし聖霊に満たされる時に一つにされ、互いに語り合うことができる。ともに喜び、ともに涙する素晴らしい交わりが与えられているのです。そして、喜びの賛美があふれ出し、感謝の生活が始まるのです。「感謝」と申しましたが、「いつでも、すべてのことについて」の感謝ができるのです。事実、パウロは牢獄の中でこの手紙を書き送っています。足に枷をつけられながら、これから先にどうなるのかわからない暗闇の不安の中にありながら、しかし夜通し賛美をささげたということも使徒の働きの中で描かれているのです。そのような「互いに語り、歌い賛美し、そして感謝する」ということ。これは御霊に満たされる時に与えられる、大きな喜びなのであります。

 

5. おわりに     

 ある説教者は、この19,20節がエペソ書で最も美しい箇所であるといいます。それは御霊に満たされた歩みの素晴らしさを伝えているからでした。そして、これこそが私たちの礼拝であるのです。冒頭でお話ししましたように、次回21節以降は現実の人間関係、実際の歩みについての教えを見ていきます。その間に置かれています本日の箇所。それは、この礼拝こそが私たちの日常生活の力の源だということを教えているのです。これまでの箇所が単なる理想で終わらないために、これからの箇所が単なる処世術として読まれないために。御霊に満たされる礼拝をもってこの二つを結びつけている。賢い者として、神のみこころを知り神が喜ばれる光の道を生きていくために、礼拝があります。この世の楽しみでは得ることのできない本当の平安、慰め、導きを得るために、礼拝があります。私たちは今朝、この礼拝に招かれている。愛する兄弟姉妹との豊かな交わりと神様への賛美、そしていつでも、すべてのことについて感謝をささげることのできる礼拝が、ここにあるのです。この礼拝から、新しい週の歩みを始めて参りましょう。