旧約聖書に親しむ

❖聖書個所 出エジプト記19章3節~6節          ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 あなたがたは、以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 第一ペテロ2章10節


◆(序)

 殆どの人が初めて聖書にふれるのは新約聖書、それもキリストの十字架についてではないかと思う。その愛に感動して、また勧められて聖書を読み始めるのであるが、多くの場合、旧約聖書についてつまづくようである。本来は旧約聖書を経て、新約聖書があり、その中心であるキリストの十字架があるのだが、まだ神の救いの計画全体について理解していないから、イスラエルの民が中心となっている旧約聖書が身近に感じられないのである。いうまでもなく、旧約聖書を視野に入れず、新約聖書のみに関心を持つ信仰は、神が人に対して示している慈しみ、恵みを半減させる。聖書の中心であるキリストの十字架のすばらしさを知るためには、ただその出来事だけでなく、それに至るまでの過程、背景、すなわち旧約聖書をも知る必要がある。


◆(本論)イスラエルが選民とされた理由

①本日の個所は、その旧約聖書を理解するうえにおいて、とても大切なところである。というのは、このところには旧約聖書において大きな役割を果たしたイスラエルの民がどのような存在であったのかはっきり言われている。

 以前に、月の神を拝む町であったカルデヤのウル(今のイラクにあった)において偶像を信じることの虚しさに気づき、内面からの促しによって故郷を出たテラとその息子であるアブラハムのことについて見たことがある。(創世記11章27節以下) 偶像の町、ウルから出たものの故郷を捨てきれなかった父テラが死んだ後、アブラハムに主の御声があった。主はアブラハムにこのように言われた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに出ているアブラハムはイスラエル民族の父祖となった人物である。この語りかけの中で、アブラハムを大いなる国民としようということだけでなく、地上のすべての民族は、あなたによって祝福されると言われていることに注意すべきである。主は、アブラハムの子孫であるイスラエル民族によって、他の国民、民族をも祝福すると言われたのだった。

 けれども周知のように、イスラエルの民たちは、この主の語りかけの意味を正しく捉えなかった。自分たちが神によって特別な民となる、大いなる祝福を与えられることを受けとめたが、他の民族、国民もまた、自分たちを通して祝福されることを重視しなかった。これは大きな過ちであった。歴史にもしということはあり得ないが、もし、旧約時代のイスラエルの民たちが自分たちによって他の民族、国民も祝福されるということを真摯に受けとめているならば、イスラエル自体は勿論、世界の歴史も変わっていたことだろう。

 本日の出エジプト記19章は、そのアブラハムの召命の時より優に五百年を超えるはるか後であるが、ここにおいて主はもう一度、イスラエルが選ばれた民であること、そしてその意味について明確に語っている。アブラハムに語られた「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」ことの意味をより鮮明にしている。では内容を見て行く。

②まず気づくのは、この出来事は、長いエジプトでの奴隷としての隷属生活から解放され、自由になり、約束の地に向かう旅に出た直後であったことである。「……わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。……あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(4節~6節)と言われているのが厳しく

つらい状態から解放され、自由になったすぐ後であったことに注意すべきと思う。何百年経とうともイスラエルが選ばれた目的を正しく的確に捉えていることがいかに大切かを示している。

 ここに多くの人が理解するのに困難を感じている旧約聖書を理解する鍵がある。このところで言われている意味を正しく捉えることによって、旧約聖書に記されているさまざまな出来事に振り回されずにその使信を理解できるようになる。イスラエルが中心となっているが、この民の歴史に焦点があてられているのではなく、彼らは神の救いの御わざのために用いられたのである。この視点、全世界、すべての国民の救いのために、イスラエルが選ばれ、用いられたという視点を持って旧約聖書を読むならば、旧約聖書はあまりにもいろいろなことが言われていて中心が分からないとか、旧約聖書と新約聖書のつながりが分からないと混乱することはなくなる。

③本日の個所からも、イスラエルが選ばれたのは彼ら自身の祝福だけでなく、彼らを通してすべての国民が祝福を受けるためであったことをより鮮明に知ることが出来る。

 まず「全世界はわたしのものであるから」(5節)と言われていることから分かるが、イスラエル自身が主の契約を守るならなると言われている「宝の民」「祭司の王国」「聖なる国民」という表現から明らかである。いづれも他の国民を念頭において言われている言葉である。「宝の民」とは、まだ宝になっていない、神を知らない他の国民が意識されている。「祭司の王国」とは、全世界を代表して神に仕えるという意味である。未だ神を知らない他の国民もイスラエルによって神に仕え、また律法を中心として神のことを教えられるというのである。「聖なる国民」とは、神の側に取り分けられた、人間的価値観ではなく、神の価値観によって生きる民とされているという意味である。律法によって、神を基準として生きるものとされた民である。まだ神の側に取り分けられていない、救われていない他の民族、国民が意識されている。

 こうしてこの個所を見ると、イスラエルが選ばれたのは特権的な意味でなく、父祖アブラハムに言われていたごとく、彼らによって地上のすべての国民が祝福されるためであったことがよく分かる。そしてその役割が与えられたことにおいてもう一つ忘れてはならないことがある。それは、彼らにそのような使命、役割が与えられたのは彼ら自身の力や行いのゆえではなく、4節に言うごとく、一方的な主の恵み、慈しみであったことである。しかし、この点においてもイスラエルは大きな過ちをおかした。自力で神の民として生ようとした。


◆(終わりに)神の民としての意識

 以上から分かるように、旧約聖書はイスラエル民族の歴史や思想についての書ではない。神に背き、罪と死に支配され、罪の性質を受け継ぐようになった全世界の人々を救うために、神がまずアブラハムを選び、その子孫であるイスラエル民族によって、ご自分の救いのわざを行った救済史の前半である。内容として歴史の他に、律法、聖文書、預言書などもあるが、すべて救いの御わざとの関連の中で記されている。

 その一貫した目的は、そのまま新約聖書に引き継がれ、旧約の完成として新約が実現している。聖書を人間の理性や経験によって分析しようとしている神学者たちが言うような旧約聖書と新約聖書の断絶などない。 

 硬い内容になったが、本日伝えたかったのは、旧約聖書は、新約聖書の道備えであること、特にイエス・キリストの十字架の死と復活による救いの備えであったということである。旧約があって新約がある。一見難しそうに見える旧約聖書に親しむことによって、神の愛の深さが分かる。人を罪と死の支配の状態から救いだし、本来の神にある生き方に導くためにどれだけ忍耐をし、変わらぬ愛を注いでいるか、時が満ちて実現した主の十字架は始めから備えられたものであり、真に神の愛の現れであるかを知ることができる。難しいと敬遠しないで旧約聖書に親しもう。どの書にも罪人に対する神の真実な愛、十字架に通じている愛を見出すことができるのである。