私たちの希望

■聖書:ヘブル人への手紙10:19-25             ■説教者:山口契 伝道師

■中心聖句:約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 (ヘブル10:23


11日で震災から四年が経とうとしています。死者、行方不明者は18,483名。

この朝、私たちにはお読みいただいたヘブル人への手紙10:19-25が与えられています。この手紙は相次ぐ試練に直面していた1世紀後半のクリスチャンに送られたものであると説明されます。もう少し詳しく年代を特定していきますと、これには諸説あるのですが、どうやらローマ皇帝ネロの治世であったのではないかと考えられているのです。ネロ、世界史でも登場しますこの人物は紀元64年のキリスト教徒への大迫害でその名を轟かせた人物なのです。彼による残虐な迫害は有名ですが、実はその治世の前半は良いものであったという記録が残されています。しかし、少しずつその政治把握へと傾き、あの大虐殺にいたった。そのような、何かきな臭くなってきた頃、おかしいと感じ少しずつ迫害が始まってきた時代にこの手紙が書かれたのではないかとされているのです。これはクリスチャンに対してだけでなく、そのような為政者が良い政治をできるはずがありません。ローマ帝国の国民全てが、いわば先の見えない「閉塞感」の中を、ビクビクしながら生きていたのであります。

このように考えますならば、1世紀のローマと今日の私たち、そこにはもちろん大きな違いがありますし、今では当時とは比べ物にならないくらい発展、進歩した生活を営むことができています。しかし、共通して、希望を見出しづらい「閉塞感」といいますか、暗闇が私たちを覆っているのではないかと思うのです。「お先真っ暗」という言葉がありますが、まさに先の見通せない状況、明日にはどうなるかわからずに不安を抱えることを余儀なくされている毎日がある。しかしそんな心配ばかりもしていられませんので、毎日の忙しさの中で不安を紛らわせ、ごまかしながら、それでも問題を抱えて生きているのです。それはいつの時代でもそうであるという方が適切でしょう。政権によって変わるようなものではなく、人類全体が抱えるものであります。全体の自殺者が減っている一方で、何より若者の自殺者が増えているということが、何よりの今の私たちを飲み込んでいる闇を表しているように思うのです。

 

そのような、今日にも通ずる混沌とした背景、望みなんてものを持ちたくても持てないような毎日の薄暗がりの中、手紙の著者は本日の言葉を送るのです。辛い現実、先の見えない暗闇の中にありながら、なお「しっかりと希望を告白しようではありませんか」と。本日はこの「希望」、「私たちの希望」についてみことばから教えられたいと願っています。この希望について、どれくらい意識して日々を過ごされているでしょうか。私自身はこの説教準備をしている中で「希望」についてあまり考えていなかったことに気づかされました。有名な言葉ですが、パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」と教えています。愛が強調されることが多い箇所ですが、いつまでも残ると言われているこの「希望」も、しっかりと覚えておくことが求められています。聖書はこの希望についてたくさんのことを教えていますが、しかしそれは平常の、平和な生活の中での希望ではなく、多くの場合試練や患難の真っ只中での「希望」を教えているのです。例えばローマ書では「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」として、希望が患難の中で生み出されるものであることを教えています。さらに「望みを抱いて喜び、患難に耐え」など、患難という暗闇の中で生きてゆく力がこの「希望」であるというように聖書は教えられているのです。特に今の、本当に目の覆いたくなるようなことが多い暗闇が徐々に深くなっている時代です。大きな災害を経験し、形あるものが一瞬のうちに崩れ落ちていくことを大きな痛みとして経験した国に生きる者として、この聖書が教える希望の大きさと力強さを、もう一度確かめたい。そのように願って備えてまいりました。ある神学者は、「神の民」であるクリスチャンは「希望の民」でもあると呼んでいます。まさにこの「私たちに与えられている希望」を重視するからなのです。私たちはどうでしょう。私たちの目を向けている先には、果たしてこの希望があるでしょうか。希望の民として、この与えられている希望を告白することができているでしょうか。御言葉から教えられていきましょう。

 

1.     希望の礎 〜1ペテロ1:3,4〜 

 「私たちに与えられている希望」。望みを持ち得ない状況の中にあっても、なお「告白しようではありませんか」と私たちを奮い立たせる「希望」とはなんでしょうか。本日の箇所を読んでいきますと、この「希望」とは明らかにイエス様の十字架によって与えられた「救い」に関わっているということがわかります。「こういうわけですから」という言葉から始まる本日の箇所ですが、ここに至るまでにどのようなことが書かれていたのでしょうか。簡潔にまとめますならば、「罪にいきていた汚れた私たち」と「いのちの源である神様」との間をとりなす、大祭司としてのイエス様の姿が描かれていました。この箇所でもそれを引き継いで一つの勧めに結びついているのです。19-21 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

 

 これは原文のギリシャ語では一つの長い文章になっていて、その最も重要な動詞は、最後にあります「神に近づこうではありませんか」という言葉です。この言葉に向かって19節から述べていくのです。お気づきになった方もいるかと思いますが、ここでは、この「神に近づく」ということをもって救いを表しているのです。神に近づく舞台は「聖所」です。「聖所」は旧約聖書から示されていますが、神様がおられ、神様を礼拝する場所、神殿などとも呼ばれる幕屋でありました。「聖所」に続けて20節では「幕」という言葉が登場していますが、これもまた聖所に関係している言葉で、そしてこれこそが旧約聖書の時代、神と人との隔てを表すものでした。神殿や聖所には一番奥に普通の人は入ることのできない至聖所と呼ばれる、幕で仕切られた部屋があったのです。それは神様の神聖を表すのにこれ以上ないほどの意味を持っていた一枚の幕です。神のきよさの前に、罪に汚れた人は出ることができなかった。特別な召しを受けた大祭司でさえ、一年に一度、決められた時にしか入ることができなかったのです。この隔ての幕は決定的でした。勘違いしてはいけないのですが、神様が人を拒絶したのではなく、神から離れようとする人の罪ゆえにできた隔たりであります。繰り返しになりますが、私たちは罪にまみれた汚れた存在であり、本来神の御顔の前に立ち得ないものだったのです。しかし、そんな汚れた私たちが、イエスの血によって洗い流され、大胆に、まことの聖所に入ることができるようになった。それがこの箇所の簡単な要約です。「大胆に」とは「確信をもって」と訳される言葉です。救いは目に見えるものではありません。だから時々不安になる。揺り動かされることがあります。本当に自分は救われているのだろうか。神様は自分とともにいてくださっているのだろうか。またある人は、「救われた気持ちがする」などという、気持ちに限った小さな救い程度にしか捉えられないのです。色濃くなっていく暗闇の中で、不安に押しつぶされそうになっていく。しかし、そうではないのです。大胆に、ためらいなく、はばかることなく、一切の疑いを持たずに、確信を持って神のみ前に出ることができる。それが、イエス様によって与えられた私たちの救いなのです。

 

 言い換えて、「新しい生ける道を設ける」とあります。まさしく、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしをとおしてでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われているとおりなのでした。十字架の出来事を思い出します。罪のしみも一点の咎もないお方、イエス様は、罪にまみれた私たちの身代わりとなって十字架にはりつけられました。恨み言ひとつ言わず、ほふり場へ引かれていく羊のように十字架へと向かわれたのです。そこで何が起きたのか。イエスが息を引き取られる時、すなわち、私たちの身代わりとなって死を受けられた時、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。神と人とを隔てるその幕はなくなり、まさにイエスを通して祭壇の最も深く神聖なところ、神のみもとへと行くことができる道が整えられたのでした。私たちの罪がなくなったから近づけるわけではありません。あくまでイエス様の十字架、そこで私たち代わりに流された血と私たちの代わりに裂かれた肉を通して、私たちは神様に近づくことができるようになったのです。それが「新しい生ける道」を設けるということなのです。

 

 神様との隔てであった幕を打ち破って神様への「道」を用意してくださっただけではありません。祭司として、私たちとともに神様の前に出て、とりなしをしてくださる。私たち自身を整えてくださるのでした。22節の言葉は明らかに洗礼をイメージしている表現であるとされています。V22また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。十字架の前夜、最後の晩餐の時に、弟子たちの汚れた足を自らお洗いになるイエス様の姿を思い浮かべることは難しくありません。それを受けなければ私となんの関係もありませんと言われるほどの愛が注がれているのです。旧約時代、幕屋で仕えていた祭司は、贖いの儀式として動物の血を罪人にふりかけ、赦しを宣告しました。この時、血をふりかける道具としてヒソプという植物を使用していましたが、詩人ダビデは歌います。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51:7ダビデは祭司による贖いの儀式によって罪が赦されることを心から願い、そしてそれがどうしても必要であると切望していたのです。自らの罪の重さに気づいた者、その罪を悲しみ、痛み、憎む者は、この赦しにすがるより他ないのです。ましてや、です。その人自身も罪を持つ祭司よりも、さらに優れたお方が、動物の血ではなくご自身の血をもって私たちをきよめてくださる。だからこそ「確信を持って」、飾ったり強がったりせずに素直な心、真心から神に近づこうではありませんかと言われるのです。幕を引き裂き、道を作られた方が、その血をもって私たちをきよめてくださる。道を整え、私たちを整え、神に近づくようにしてくださったのでした。

 

この19-22節のどこを見ても私たちの行いはありません。ただ受けるのみ、ただただ注がれ続ける恵みです。救いの根拠が自分の行いにないからこそ、私たちは大胆に確信を持って神に近づくことができるのです。自分の行いによる救いであるなら、自分を見たときにふさわしくない、神に近づけないと時に不安になったり、恐れを覚えたりすることがあるでしょう。自分は本当に救われているのだろうかとビクビクしたりすることがあるかもしれません。しかし、イエス様のみわざであるということが絶対の保証として与えられているのですから、大胆に、喜びを抑えることなく賛美しながら近づけるのです。「全き信仰をもって」という短い言葉が添えられています。これは、「信頼しきって」「信頼に満ち満ちて」と訳されてきた言葉です。何一つためらうことなく、一切の引け目なしにそのふところへと飛び込んでいけるのだと言うのです。

 

2.     わたしたちの告白する希望 

さて、このような救い、しかもイエス様によって一方的に与えられた恵みとしての救いがあり、その大きな喜びの固い土台に立って初めて、私たちは希望の光を見出し、そしてそれを自らの口で告白することができるのです。23節、約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。その理由は、先ほどまでに見てきました「救い」という土台を約束してくださっているお方が、他ならない神様であるというところにあるのでした。1ペテロ1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」このように、「救い」に基づく「希望」というのは聖書のいたるところで語られているところなのです。

 

少しこの「約束」という言葉に注目してみましょう。この約束の中身が何かということです。まず考えられることは、先に示されています19-22節の内容であるでしょう。イエス様の十字架による救い、大胆に神のみもとに近づけるという救いです。これらは実際に目で見えるものではなく、神様の言葉、聖書が教えているところです。それゆえに、これが真実であるということの保証が必要なのであります。すなわち「あなたはもう救われているのだ」という約束の保証、確証です。しかしながらそれと同時に、これから先に用意されているものが確かに与えられるのだという約束もここにはあることを忘れてはならないのです。これらは別々のことではありません。今すでに救われているのだという約束があるからこそ、これから先、やがての日に与えられるものの約束があるのです。今すでに救われている。それはやがての日の約束と直結しているのです。同じく大迫害の中で書かれた書があります。ヨハネの黙示録21:4

 

救われているといっても、私たちの周りから困難がなくなったわけではありません。冒頭でお話ししましたように、手紙を受け取ったヘブル人たちを取り巻く世界も、震災後の瓦礫に覆われいまなお目に見えない放射線が飛び回っている今日の私たちを取り巻く世界も、変わらずに暗雲立ち込める厳しいものです。傷つき倒れる人は今なお多く、ますます深刻・複雑化していますし、強いものが弱いものを虐げ、隅へ隅へと追いやられる構造は何一つ変わっていません。人の罪、自己中心の罪があるからです。まことの神を知る以前の、罪人の様子を鋭く言い表した言葉が、エペソ書2章に見られます。12節、その頃のあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

 

先に何か打開されるという光があればそれでも期待を持って頑張れるのですが、どうもそれさえ見られずに、何か諦めの中でなんとなく生きているという人が多いのではないかと思うのです。神なく望みのないものの生き方はそのように空しいものなのです。しかしそんな中で、いや、そんな中だからこそ、もう一度、私たちに与えられている希望を覚え、希望を告白しようと励まされているのです。

 

救われているものはなお襲い来る試練の中にあっても、先の見えない暗闇の中にあっても、確かにやがての日の天国に向けて歩んでいる。神の子だけが受けることができる素晴らしい相続財産が用意されている。これこそが、私たちの希望なのです。死で終わるのではない、その死の暗闇を突き抜けて用意されている希望の光です。そしてその光が決して消えることがなく、揺るがされることないのです。救いという土台が、イエス様によって与えられた一方的な恵みであるために揺るがない、確信を持てるということをお話ししました。同時に希望もまた揺るがないのです。それは神様が約束してくださっているから。昨日も今日も永久に変わることがないお方が約束してくださっていることほど確かな保証はありません。救いのゴールである天国はすでに与えられたのも同じ、確実な約束として与えられているのでした。先週の祈祷会に出席された方はピンとこられたかもしれませんが、1コリント10章にはあの有名な言葉が残されています。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。「神は真実な方ですから」。ここでも、神が真実であることが語られ、その「神様が真実である」ということを理由に、試練の時の力となっていることに気づくのです。

 

今回の説教の備えの中、「希望」について考えるときにずっと頭にあったのは、先の震災のことであります。来月、311日で4年目を迎える、東日本大震災です。地のものが文字通り揺れ動くとき、その多くは崩れ落ちました。そして多くの方が望みを失い、絶望の暗闇の中に放り込まれたのです。震災のあった2011年、神学生だった私は被災地へ向かいました。2週間ほど経った3月の終わりです。まだまだ寒さが厳しい中、余震に怯えながらの復興作業はとても大きな暗闇に立ち向かうような気持ちがしていました。目の前にある瓦礫の山がなくなり、数週間前の人々が行き交っていた町に戻るということが想像できなかったのです。言葉を失うという経験を初めてしました。ましてや、その地に住み、それまで守ってきたもの、愛する家族や積み上げてきたものを一瞬で失われた方々の気持ちを思うと、何を語ればいいのかもわからなくなってしまったのです。この地上のものに希望を置いている限り、その希望は、そのものがなくなってしまえば同時に無くなってしまうのです。 

 しかし、神様が与えてくださっている希望は、この地上のものではなく、天にあるものです。揺れ動く地に根拠があるのではなく、永久に変わることなく全てを統べ収められる方に根拠を置いているのです。だからこそ、この希望は決して失われることがない。いや、私たち自身は弱いので、この約束されている希望を見失うことがあります。けれども、望みがなくなったわけではない。望みが絶たれたわけではないのです。だからこそ、一時的に失望することはあっても、決して絶望はしないのです。これは迫害の中にあって弱い存在と見られがちな私たちの本当の強さであります。私たちがたとえ一時見失ったとしても、神様が変わらずに希望を輝かせてくださっているからです。先ほど、語る言葉をなくしたとお話ししました。突然の出来事でした。これまでコツコツ積み上げてきたものが、大切な命が一瞬にして奪われてしまった。そのような悲しみの中にある人に私たちは何を届けることができるのでしょうか。もちろん、悲しみの真っ只中にいる人に対して、いきなり希望を語り押し付けても、それは多くの場合で私たちの自己満足の宣教にすぎません。その意味では、あるいは言葉をなくしたということは正しかったのかもしれませんし、言葉ではなく「寄り添う」ということができたことは幸いなことだったのでしょう。しかし忘れてはならないのが、寄り添う私たちが希望を失ってはならないということです。救いの恵みを知っており、救われた私たちに用意されている素晴らしい御国を知っている私たちが、希望を仰ぎ見続け、存在を持って告白していく、証ししていくということが何よりも必要なのです。そうでなかったら、私たちが希望を失い、絶望の中にいては、誰が望みを持ちうるでしょう?だれが慰めの言葉を、希望のことばを、確信を持って語れるでしょう。

 

3.     共に、一つの希望を告白する共同体 

 一人きりの歩みではありません。この希望を共に目指して歩む兄弟姉妹が与えられているのです。ヘブル10:24,25節また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 いくら約束してくださっている神様が真実な方であったとしても、私たちは弱いので簡単にこの望みが見えなくなってしまいます。望みがなくなることはないのですが、望みを見失うのです。しかしそんな中でも、この交わりが与えられているということは私たちの希望への歩みを助け、ますます力強くするものであると言えるでしょう。一人でいることがいけないわけではなく、そうしなければ見えてこないこともあるでしょう。けれども、それでもなお、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。本日の説教題を「私の希望」としないで、「私たちの希望」とさせていただいた理由はここにあります。一人では弱くて従い続けることが困難な私達でも、何度もつまずき、自分の足元ばかり見てしまう私でも、同じ希望を見上げ励まし合い、慰めあっていくことができる神の家族がいるのだ。

 私たちは一つの希望を抱き、それを告白する民です。先ほどエペソ書から、かつての私達、神なく望みなき罪人であった姿を見ました。そのあとでパウロはこのように教えているのです。体は一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。私たちはそれぞれに名前を呼ばれ、イエスキリストが十字架によって用意してくださった新しい生ける道を通って神様の元で生きる存在であります。その私たちが、かつての望みを持たなかった私たちが、しかし今や一つの望みを抱いているのです。一人がくじけそうな時には、同じ希望を見上げる神の家族が励まし合う。そのようにして、キリストの教会は立て上げられていくのです。

 

Goodbye

 

4.     まとめ 〜終末を生きる希望の民〜 

このような力強い励ましの言葉を思い巡らす時に、そのように患難をくぐり抜けた一人の人物を思い出すのです。苦難のしもべであったヨブは、様々な苦難を通り抜けた先に告白しています。「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」わたしたちもまた、この確信に立ち、しっかりと希望を告白し続けるものでありたいと願います。口にすれば笑われてしまうような気恥ずかしい言葉かもしれませんが、この希望をしっかりと目指し、イエス様と一緒に、そしてイエス様によって救われた兄弟姉妹と励まし合い、慰め合いつつ、歩みを続けていきましょう。