生きている教会

❖聖書個所 第一テサロニケ1章1節~10節    ❖説教者:川口昌英 牧師

❖中心聖句 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、

私たちと主にならうものになりました。    第一テサロニケ1章6節


❖説教の構成

◆(序)標語と実態

 日本社会は標語社会である。何かの標語を掲げていると、それに関するすべてを分かっているように思うのである。実際は複雑な内容があり、丁寧に考えなければならないのであるが、すべてをまとめるような言葉を作り、それによって問題が片付いたと考えてしまう。

 このように問題を単純化してしまう日本社会の特徴は、本来は神のことばを中心とするキリスト教会の中にも入り込みやすい。教会やクリスチャン生活についての何かの標語、例えば「聖書信仰」というと、それが具体的に何を意味するのか、科学や歴史との関係はどうなのか、又その現実社会での生き方はどのようなものか、さらにはその聖書の意味を誰がどのように決定するのか等さまざまに考えなければならないことがあるが「聖書信仰」と言うとすべて分かっていると思ってしまう。信仰によって生きる我々は単純な言葉によって思考停止してはならない。



◆(本論)宣教の教会という意味

①その中の一つに「宣教の教会」「宣教に生きる教会」という言葉がある。特に福音派は主イエスが残した大宣教命令(マタイ28章18節~20節)でもあることからよく口にする。時には、教会の生命線と言われることもある。確かに、救いの恵みをいただいている者、教会の一員であるなら、無視できない大事な言葉である。しかし、問題はその中身である。それにふさわしい教会となっているか。

 この場合、中身とはトラクト配布をしている、伝道集会を行っているなどの教会のブログラムのことではない。それらも大切なものであるが、宣教の教会の中心ではない。中心はその教会の一人ひとりの信仰である。一人ひとりが真に救いを知り、主の恵み、愛、希望に生かされているかである。我々は「宣教の教会」とか「宣教に生きる教会」という看板を掲げて、あるいはトラクト配布などを行っているからといって、自分たちは宣教の教会であると考えてはならない。大切なのは標語や看板ではない、中身である。

②宣教の教会ということを考えるにあたって、テサロニケの教会への書簡を取り上げているのは、宣教に生きるというビジョンと中身が一致している教会だと思うゆえである。パウロはテサロニケの教会について、8節「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニヤとアカヤ全土に響き渡った。」と言う。あなたがたによって、主のことば、中でも福音が自分たちの州だけでなく、隣の州の人々にまで非常に印象的に伝わったという。教会の規模とかどんな教師がいてどんな人々が集まっているとか、どんな会堂であるかではなく、主のことば、あなたがたが主のことばによって神の民として生きている姿が隣の州まで響き渡り、人々に深い印象を与えたという。書簡の後半を見ると、この教会の人々は、天に召された者のことや再臨のことについてしっかりとした理解を持っていないことが指摘されている。そのように足りないところもあった教会であったが、こと宣教に生きるということに関しては注目すべき姿を持っていたのである。

③何故、このテサロニケ教会が真に宣教の教会であったのか。まず彼らが置かれていた状況が良かったからではないかと思いやすいが、実際は反対だった。

 使徒の働き17章に、テサロニケに福音が伝えられた時のことが記されている。それによると、自分たちが信じているものとは違う、十字架の死と復活が自分の罪のためであったと受け入れるだけで救われると信じる者たちが増えていることに対して、怒りと妬みにかられたユダヤ人たちによって激しく迫害され、また元々の街の住民たちからも不安がられたとある。テサロニケの教会を取り巻く状況は良いどころか、むしろ厳しいものであった。

 彼らから「主の言葉が出てマケドニヤとアカヤに響き渡った」のは、決して周りがキリスト教に理解を持っていたからではない。この点は我々、キリスト教に厳しい日本に生きる者として覚えておきたい。我々は、しばしば自分たちの宣教が進まないのは、取り巻いている状況のゆえだ、人々の心の深いところにある考え方のせいだと思うが、(なくなった日本の知性と言われた故加藤周一は、日本人の考え方の根底に現世主義、現実主義、集団主義があると言った。)本当はそうではないことをテサロニケのクリスチャンたちの例が示している。彼らは、激しい憎悪と妬みを持ったユダヤ人と警戒の目を向けていた街の者たちの中で福音に生き、福音を証しする宣教の教会として成長したのである。

④では、この教会から隣の州まで主のことばが出たと言われた真の理由、信じた者たちがまことの神を信じ、偶像を拝む生活から離れ、主イエスの福音を喜び、キリスト者として忠実に歩むようになった理由は何か。2章13節にこうある。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けた時、それを人間のことばとしてではなく、事実通りに、神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」使徒パウロによって書かれた書簡の中で例がないほど褒められているのは、彼らのはっきりとした信仰であった。主のことばが信じる者一人ひとりの心の奥底に宿り、生きるエネルギーとなっていたというのである。

 具体的に言うならば、彼らはまず自分たちの罪を正しく認識した。人との比較ではなく、また自分が生きている社会の文化によってでもなく、すべてを造られ、治めておられる神に背いて生きているという認識を持った、本来いるべきところから外れて生きていること、使徒たちが伝える罪人であることに気がついた。それゆえ福音について、神ご自身であり、神の御子である方が、律法を学び守るといった人間の力ではどうにもならない罪や死のために、十字架の死まで受けてくださり、復活し、新しいいのちを与えてくださった、その主によって自分たちも本当に義と認められ、神の子とされていることを堅く信じた。また、信じる者に聖霊がともにいてくださること、そして今は主のみからだである教会に属し、神の国の住民とされていることを知った。

 例を用いて言うならばルカ19章の取税人ザアカイのように自分の人生の中でこれらのことを深く経験したのだった。これまでは当たり前、これ以外の生き方はないと思っていたが、使徒たちが語る主のことばを聞いたときに、我に返ったのである。見えることばかり求めていたことから、自分を覆い、自分の人生をリードしている見えないものに気がついた。そしてこれからはその罪と支配の中で生きるのではなく、本来の、神によって創造され、愛されている者として、神との深い交わりの中で生きることを心に決断したのだった。


◆(終わりに)大切なのは組織ではなく、個人の姿勢

 私は日本のような土壌において、組織がしっかりして、互いの交わりが充実することは教会が成長するうえにおいて重要だと思っている。しかし、何よりも大切なのは一人ひとりの主との関係である。人との比較ではなく、本当に自分が罪人であることに気づいているか、そしてそんな者であるにもかかわらず、御子が十字架によって罪と死の支配から救いだしてくださったことを知り、心から喜び、感謝し、これからはその神によって生きようとしているか。それこそが宣教に生きる教会である。謙遜と卑下は違う。謙遜には喜びと感謝がある。しかし、卑下には疑いと不安がある。私たちには言葉にならないほどの恵みが与えられている。ただ素直に神の愛を受けとめ、そして信頼して生きよう。その姿勢にキリストの香りが伴い、周りの人々に届くのである。それはこの世に流されない歩みである。神は私たちに既にそのような人生を与えてくださっている。