光の子ども

■聖書:エペソ人への手紙5:8-14    ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ5:8


1.   はじめに  

■新しい年度が始まり、新しい生活が始まったという方も多くいらっしゃいます。教会の子ども達もそれぞれに一学年大きくなり、新しい学校での生活がスタートしたという子たちもいます。学校や会社ということを考えますと、元旦よりもむしろこの4月の方が新しいスタートというイメージが多いのではないでしょうか。北陸の長い冬もいよいよ終わりが見えてきて、すべてのものがキラキラと輝いている、そのような季節であります。ピカピカの一年生という歌い文句もありますが、まさにそのような輝きに溢れた日々を過ごしています。その明るさをより一層美しく、そして力強く輝かせるものが、イエス様の復活であることを私たちは知っています。先週私たちはともにイースター、イエス様が死に勝利された、復活されたこの喜びの日を祝いました。イースター子ども集会では高校生たちがバンドで「いのちの光」という賛美を演奏してくださいましたが、そこには、「闇を消し去る「いのちの光」、全てを捨てた愛」という歌詞があります。闇を消し去るいのちの光。まさしくイエス様の復活、イースターとは、私たちすべてのものが行き着くところである死という「闇」に勝利された、打ち勝たれたいのちの「光」、希望が溢れる出来事であったのです。

 しかし、ふと思わされました。私たちはあの1日だけの喜びの日として終わらせてはいないでしょうか。世の中でもイースターが祝われ出しましたが、それらはすべて先週の日曜日で終わってしまいました。けれども、イエス様の勝利によって私たちに新しいいのちが与えられたということを覚えるならば、これは日々、胸に刻みつつ歩まなければならない。それは新しいいのちに生きることが始まった日であると言えるでしょう。日々新しいいのちを自覚しながら歩みを続けるのだ。そのように思わされています。本日与えられております箇所、特に8節を中心に見ていきたいと思いますが、ここでも、まさにその光が溢れる中を生きて行きなさいというみことばであります。8節「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

2.「闇と光」「死といのち」 

■本日の聖書の箇所では、「光の子どもらしく歩みなさい」と教えられています。今朝与えられています箇所の前にも、あなたがたは「〜であるから、〜しなさい」というような勧めをしていました。5章の1節には「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。愛のうちに歩みなさい。」、また3節には「聖徒のふさわしく、(少し飛んで4節)感謝しなさい」とありました。神とは父なる神、お父さんでありますから、子供がお父さんの背中を見てお父さんに似ていくことは自然であります。また愛されている子どもですので、その注がれている愛の中を進むようにと言っている。さらに聖徒とは、区別されたもの、神の宝と呼ばれる存在なので、いくらこの社会がドロドロしていようと、行先が見えなかろうと、そこからは区別されている。神さまと一緒に、神様の近くにいる。だからたとえ私たちの周りで何が起ころうと、それが私たちを攻撃してこようと、変わることなく感謝できるのだと、これまで見てきました。/この手紙をはじめ、様々な教会に手紙を書き送ったパウロという人は、その時その教会が直面していた問題について、時に戒め、時に励まし、そして慰めの言葉を送っています。この手紙もまたエペソの教会にあてて書かれたものであり、パウロはどうしても伝えなければならないことがあったために、書かないではいられなかった。問題がなんであったのか、確かなことはわかっていません。けれども、問題にどのように向き合っていくべきかを伝えたのかはわかります。それは具体的な解決策、いわば対処療法の処方箋を出すのではなく、自分たちがどのような存在であるのかを思い出させるということにあったのです。これはとても大切なことであるように思います。というのも、私たちの歩みはだいたいいつも問題ばかりで、一つの問題が解決すればまた別のこと、また別のことと、いつまでたっても問題が何もない、不安なことが何もないということがほとんどないからです。見ないようにすること、後回しにすること、つまり現実逃避はできますけれども、もちろん解決ではありません。誤解を恐れずに言うのならば、教会に来たからといって、神様を信じたからといって、問題がなくなるわけではない。そんな中、直面している問題の解決策が言われ、その場は切り抜けたとしても、また別の問題が起こってきたときには再び同じように悩んでしまう。その繰り返しなのではないでしょうか。もちろん、苦しみ悩みの渦中にいるときには、具体的な解決が欲しいと私たちは求めます。それがいけないわけではありません。そのときその時に必要な助けは確かにあるのです。けれども、私たちが根本的にどのような存在であるのかということを知ることが、この苦しみの連続から抜け出すために何よりも大切なのです。愛のうちを歩み、絶えず感謝するためにはどうしても、私たちがどのようなものかを知らなければならない。今風の言葉で言うならば、自分のアイデンティティをどこにおくのかということです。だからこそパウロは、あなた方は愛された子どもである、聖徒であると伝えるのです。そのような自分がどのような存在なのかを知り、それにふさわしく自覚的に生きる時に、私たちの歩みは自然と変わるのです。それまで私たちを苦しめていた問題は未だに目の前に立ちふさがるかもしれませんが、しかしもはや問題ではなくなるのです。そして本日の箇所では、「光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と言われているのでした。

■説教題にもしました「光の子ども」という名前を聞くだけで、今朝与えられていますエペソ5章が浮かぶ方もおられるでしょう。聖書の中で3箇所にしか出てこない特別な言葉です。この、クリスチャンが生きていく上で覚えているべき姿、「光の子ども」とはどのような存在なのでしょうか。もう一度8節をお読みします。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。先ほどから申し上げていますように、本日の箇所では「光」というものが一つの大きなテーマになっております。「光の子どもらしく歩みなさい」。いや、その前には、もっとストレートに「あなたがたは光となりました」と言われているのです。私たちが「光」であるとは、どういうことでしょうか。この短い箇所に「光」や「明るみ」といった言葉が集中して出てきますが、私たちがそのような存在であると知ることに、どのような益があるのでしょうか。教えられて参りましょう。

 

■しかし、私たちが光であるということを見るその前に、「以前は暗やみでしたが」という言葉があるのに気づきます。「暗闇の中に生きていた、暗闇のような存在だった」どころの話ではありません。「暗闇そのものだった」と言われています。つまり、自分自身ではなんの光を生み出すこともできない。暗闇そのものである私たちは、暗闇の中に埋もれてしまっていたのでした。なんども思い出す箇所ですが、エペソ書2章でかつての私たちは「罪過と罪の中に死んでいた者であった」「この世にあって望みもなく、神もない人たち」であると言われています。死んでいた者であった私たちは、暗闇そのもの、自分たちからなんの良いものも生み出せませんし、どこまでいってもその暗やみから逃げ出すことができなかった。そんな中にあって、私たちが正しい道、進むべき場所へと進むことなんてできなかったのです。もちろん、多くの人はきちんと生きていると思っています。自分で進むべき道を決め、その道を自分の力で生きていると思っている。しかし、どうでしょう。光がないまま、闇雲に生きる先にあるのは、結局は闇であり、そんな中で急に壁にぶつかってもどうしようもなく、ただただ苦しみ、痛み、傷つき、悲しむばかり。それがどこまでも続いていくのです。終わりも見えず、まさしく一筋の光さえも見えない中、あるいは世界に自分一人しかいない、信頼できるのは自分の力だけだという孤独の中で生きていた。「神のない人たち」であったと先ほど申しました。実はこれこそ、私たちが暗闇であると言われる理由なのです。聖書の別の箇所には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」(1ヨハネ1:5と言われています。つまり、暗いところが少しもないと言われている神様を持たない、神様と一緒にいないのですから、暗闇そのものであった。神から離れるということが罪であることは、何度も繰り返し聖書が教えているところです。さらに、罪から来る報酬は死ですと言われていますから、まさに暗闇である私たちは死んだ者であったとなる。ここに、暗闇とは罪であり、そして死という滅びの中に置かれていたということがわかるのです。

 

■そんな中にあった私たちが、しかし、「今は、主にあって、光となりました。」と言われているのですから、驚きです。「光」とはなんでしょうか。先ほど神様が光であるとみましたが、その輝きを放つであるというのです。忘れてはいけないのが「主にあって」という言葉であり、これこそ、私たちが光であると呼ばれることの大切なキーワードになっています。というのも、私たちは決して自分自身で光となるわけではないからです。自分を磨いて輝こうとする人は多くいます。それは決して悪いわけではないのです。けれども、先ほど見ましたように、死んでいる私たちには、自分を輝かすことなんてできないのです。この主にあってという言葉、主の中でとも訳すことのできる言葉です。光である神様から離れることが罪であったのですから、それとは真逆、主と共にいる、いやそれどころか、主の中で、主とともに生きているのです。この主とはイエス様であります。冒頭でお話ししました、復活によって死に勝利されたお方、闇を消し去るいのちの光でした。イエス様とはどのようなお方かを考えるならば、あるみことばが思い出されます。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9

 

■光とはなんでしょうか。よくお話しすることですが、光には二つの役割があるかと思います。一つは照らすものだということ、もう一つは暖めるものだということなのです。私たちを照らす光としてのイエスキリストは、暗やみの中を手探りで歩んでいる私たちが今いる所を照らし、その場所にいる意味、生きている意味を教えてくださる光であります。光として来られるお方は、私たちの苦しみや悲しみを明るみに出し、知ってくださる方であります。だれにも分かるはずないと思っている傷に手を伸ばし、だれも理解できないと思っている苦しみに癒しを与えてくださるお方です。イエス様の地上での生涯が聖書に記されていますが、それは弱い人、社会から捨てられ、多くの人々から見放された小さな存在に寄り添われた生涯でありました。いわば隅へ隅へと、暗いほうへ暗いほうへと追いやられ、だれにも知られずに死にゆく人々に手を差し伸ばされたのであります。すべての人を照らすまことの光、イエスキリストは、闇の中に輝く光であります。私の闇にも光を与え、支えてくださるのであります。それは機械的な冷たい光ではありません。

 

■光の特徴としての二点目、それは暖める光、温もりをもった光であると言うことです。さきほども申し上げましたが、イエス様の生涯は弱い人のそばに立ち、寄り添うというものでした。そこには確かな温もりがあった。先ほどお読みしましたヨハネの福音書、少し先には、やはりイエス様のことを伝える箇所で、このような言葉が記されています。1:18いまだかつて神を見たものはいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。「父のふところにおられるひとり子の神」世に来られたまことの光、神の子イエスキリストは、父のふところの温もりを知っていた唯一のお方です。それは愛のぬくもりといえるでしょう。その温もりを、そのままに私たちに伝えてくださった。父が子を愛するように、私たちを愛してくださった。抱きしめて、暖めてくださったのです。父が子を愛するのに理由はいりません。格好が良いから、成績が良いから、良い学校にはいったから、良い就職先が決まったから。良い行いをしたから。そのような理由による愛ではないのです。あなたのありのままが、愛されている。そのような父の愛、父のふところの温もりを、まことの光として世に来られたイエス様は、私たちに与えてくださっている。誰かとともにいるとき、寄り添うとき、そこには温もりが生まれます。ひとりではない。孤独ではない。かつての闇の中にはいないのだと言うことに気づくのです。私たちを照らし、温もりを与える光。イエスキリストはそのようなお方として世に来られた。生まれられたのでした。

 

■光は世界の始まりからありました。神様が輝かせてくださったのです。聖書の一番初めに響いた神様の言葉は「光があれ。」初めに神は天と地を創造されました。天地創造は、この「光」が闇を切り裂くところから始まります。絶えず神様は世界を照らそうとしてくださっている。それは罪に堕落した後の世界、すべてのものが神を知らずに死んでいる世界でも同じで、私たちが神様から離れまことの光を失った世界にはイエス様を送ってくださり、復活によるいのちの光を輝かせてくださった。

 

■私たちを照らす見せかけだけの光は多くあります。楽しみを与えるもの、安心を与えるもの。ときには信仰の対象として、時には心の拠り所として、おおくのものが溢れている。しかし、それはまことの光ではありません。それは、いつかは終わりになってしまうものにすぎない。しかしまことの光は、いつもともにおられる、いつまでも私を照らし、いつまでも私を暖めてくださる光であります。いや、そのお方にあって、私たちは「光」そのものとされたのです。さきほどすべての人を照らすまことの光として、イエス様が世に来られたと教えられましたが、そのすぐ後には、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。「まことの光」を受け入れたものは、光の子どもとされたのです。イエス様を信じ、自分自身の救い主として受け入れた人は「光の子ども」とされました。これが私たちの存在です。ではその歩みとはどのようなものなのでしょうか。

 

3.     「光の子ども」の生き方 

■続くエペソ5:9-14節前半が光の子どもらしい生き方が教えられています。簡単にまとめるだけにしたいと思います。  光の結ぶ実は、あらゆる善意と誠意と真実なのです  、そのためには、主に喜ばれることがなんであるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」実を結ぶということが一つのキーワードになっています。すなわち、植物のイメージで「光の子どもらしい歩み」は教えられているのです。この言葉からわかることは、何か功績を積みなさい、成功を収めなさいといわれているのではなく、植物が光に当てられる時にすくすくと成長していくように、私たちもこの光の中から外れることなく、光の中を生きなさいということであります。神から離れず、キリストと共に生き続けなさいと言われる。その時に、私たちは自然と実を結ぶのです。そして光の中を歩むとは、主が喜ばれることがなんであるかを見分けるという生き方です。何々についてとは言われていません。私たちの生活の全てにおいて、「何が主に喜ばれることなのか」を考えながら生きるということ。神様を基準とした生き方をすること、それこそが光に生きる、光の子どもの生き方です。

 

■私たちを闇に引き戻そうとする力は依然強いです。いや、光があるところに影が生まれるとも言われますが、私たちの闇は、一層濃くなってくるでしょう。主に喜ばれない、光である神様から引き離し闇へ連れ戻そうとする誘惑は一層強くなる。しかし、もうそこに戻ってはいけないのです。神様はそれを喜ばれません。いやそれどころか、闇を照らし、光をひろげよ。光となったあなたがたが、まだ闇の中にある人々を照らし、光とせよと言われているのです。先ほど、まことの光として世に来られたイエス様の光の特徴を見ました。それは人生の行くべきところを照らす明かりであり、孤独の中で苦しみ悲しむ人々を温める光でありました。そのようなものとして歩みなさいと言われるのです。

 

4.     私たちはどのように「光の子ども」となるのか 

■最後にパウロが引用している詩は、パウロの時代の教会の洗礼式の時に賛美された讃美歌の一節であると考えられています。14節後半「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」このようにして、キリストを受け入れ、光を受け入れ、光の中をキリストと共に歩みだすのです。水から上がり、新しいいのちに生きること、光の中を生き始める喜びを教会がひとつとなって歌った歌です。

■思えば、パウロ自身がこの光に包まれたのでした。パウロという人は、かつてはキリスト教に敵対する人、迫害者であり、クリスチャンにとっては恐怖そのものだったのです。そんな彼が、クリスチャンの迫害のために旅出た時のことが使徒の働きに書かれています。「道を進んでいって、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らした」彼はこの光の中でイエス様の声を聞き、イエス様に出会いました。そしていのちの道、光の中を歩み出したのです。かつての迫害者はいのちの光を伝える者と変えられ、まさに光となって人々を照らし始めたのです。使徒の働きを読んでいきますと、変えられたパウロの説教がなんども登場します。その中で、この光にめぐり照らされたことを彼は教えているのです。

 

5.     まとめ  

■本日の箇所を、問題を抱えるエペソの教会の人々に書き送る時、他ならないパウロ自身がこの、光に包まれ、光の子どもとされた存在であることを噛み締めていたことでしょう。だからこそ、エペソの人々にその光を届けようとしたのです。その光を自分の中だけで光らせるのではなく、高く掲げて辺りを照らしたのです。人々を温めたのでした。この光を知っていただきたいと思うのです。イエスキリストを信じ受け入れた人は、みな、この光を持っています。闇に打ち勝つ力強い光であり、多くの人を照らし温める光です。この光の中を、光であるお方と共に歩んでまいりましょう。お祈りをします。