主の復活は力、希望

❖聖書個所 ヨハネの福音書20章19節~23節   ❖説教者:川口昌英 牧師


❖説教の構成

◆(序)キリスト教と復活

①聖書が伝える復活

 繰り返し言っているが、聖書が伝える復活は一旦死んだ者が生き返ったということではない。よく知られているラザロや他の主によって生き返った人の場合も復活と言われることがあるが、それは聖書の言う復活ではない。その人々は時が来たならば再び死んでいる。

 聖書が言う復活、手と足に太い釘を打たれ、十字架につけられ最後には脇腹を槍でさされ、完全に死に、遺体を墓に納められた主の復活は、誤解する人がいるが、死んだ者が再び生き返ったということではない。

   初代教会時代、復活を巡って混乱があったことから、パウロは主の復活について、それは信仰の本質に関わる事柄であることを強調し、その姿、実態について詳細に説明し、復活について正しく知るように書き送っている。(第Ⅰコリント15章) 次のように言う。

 まず死者の復活などありえないから、主イエスについても復活しなかったと主張する者がいるが、もしキリストの復活が事実でないならば、福音宣教も、信仰そのものも実質のない、空虚なものにすぎなく、信じている者はすべての人の中で一番哀れな者であると断言する。(Ⅰコリント15章12節~19節) 主が復活されたことは信ずる私たちにとって本質、中心点だと言う。

   続けて大切なのは、聖書が言う復活の意味を正しく知ることであると言う。復活とは、死んだ者が生き返ることではなく、新たな姿「朽ちないもの、栄光あるもの、強いもの、御霊に属するからだ、天から出たもの」になることだと言う。(35節~49節) 罪と死に対する完全な勝利者としての姿であることを強調する。

 主の復活はこのように栄光の姿であり、ご自身が神であり、人の罪と死にたいする勝利が実現したことを明らかにする。そしてそれゆえ、主の十字架の死が自分のためと信ずる者に復活の希望を約束するものである。十字架の死を受けた主イエス様がおことば通り、三日目に死より甦られたということは、罪と死に対して勝利が実現したということに合わせて信ずる者も終わりの時に復活するという保証を与えられたという二重の意味がある。

 このようにパウロは、主の十字架の死と復活を信ずる者は生きていた時の行いに応じて裁かれる個人の死においても、又神が全てを裁く終末の大審判(黙示録20章)においても希望があると言い、それゆえ「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と言う。(58節)



②この個所の背景

 本日の個所は、十字架につけられ、完全に死なれ、墓に納められた主がお約束通り復活し、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちのところに現れている場面である。

 復活は本来、先に見たように朽ちない、栄光のからだであり、従って傷跡もないはずであるが、ここにおいて主は、十字架の真実を示すために、敢えて手足や脇腹に傷の痕が残っている姿で、絶望し、閉じこもっていた弟子たちのところに来られたのであった。そして恐れていた彼らに人の根本問題である罪と死に対する勝利が実現したと伝えている。


◆(本論)主の復活と信ずる一人ひとりの関係

①今年のイースターは、このところにおいて、甦られた主が弟子たちに対して言った最初のことば「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20章19節)に注目したい。

これは単なる挨拶ではない。非常に重要な意味を持つ言葉である。ここで言う平安について思い起こすみことばがある。十字架におかかりになる晩、弟子たちに語った「私は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしが、あなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14章27節)というみことばである。これから分かるように「平安があるように。」ということばは、ご自分の十字架の死と復活によって約束した真の平安が人のために実現した、これからは、その平安によって生きるようにと言う意味である。

 聖書で言う平安は、単に心が安らかな穏やかな状態のこととは違う。全ての人のうちにある根本的不安、どれだけ経済的に又社会的立場、或いは知恵や知識の面において恵まれていたとしても決して埋められない不安が取り除かれ、新しい喜びと力で思いが満たされている状態である。

 詳しく言うならば、すべての人が生まれつき持っている不安、過去に犯して来た罪がゆるされていない不安、自分には生きる意味があるのだろうか、必要とされているのだろうかという孤独から来る不安、さらに死についての恐れ、死とは一体何なのか、死後はどうなっているのか、裁きはあるのだろうかという不安である。誰もが心の深くに持っており、何をしても、すばらしい精神医学的療法を受けたとしても取り除くことができない根本的不安が除かれることである。


②気づいた人もいると思うが、これらの不安はある状態から出ている。本来いるべきところにいない状態から湧いてくるものである。それを聖書は罪、的はずれと言っている。先程から見ている不安は、この罪の現れ、現実的現れにすぎない。この罪が人を苦しめ、生きる喜びを失わせ、孤立させ、永遠を恐れさせるのである。

 元々は神のかたちを持つものと創造されていながら、人は神に敵対する存在に誘惑されて自分を中心として生きて行きたいと神に背き、生きるうえにおいて大切な神との関係、他の人との関係、自分自身の生きる目的、被造物との関係を見失い、すべてについて歪んだしまった。けれども神は、なおもそんな人を愛して、旧約時代からさまざまな救いのわざを行われた。信仰の父祖、アブラハムを義と認め、子孫であるイスラエルを神の民とし、律法を与え、預言者など神に仕える者たちを送られた。そして時が満ちて遂にご自分の一人子、主イエスを根本問題である罪よりの救い主、贖い主としてこの地上にお送り下さり、最後、十字架に渡されたのである。主はおことば通り、三日目に死より甦られ、罪と死に対する勝利を実現され、これまで全ての人を覆っていた不安に代わって、真の平安、過去の罪の赦し、神がともにおられる人生、死に対する勝利の人生の道を開かれたのである。


◆(訴え)復活を知る恵み

 今日、信仰者を名乗りながら主の復活は信仰の中心ではない、又復活は事実ではなく、初代教会の弟子たちがつくったものであると言う者がいる。しかし、もし、主の復活が事実でなかったなら、パウロが言うようにクリスチャンは世界の中で一番哀れな者たちである。主の復活は、聖書の最も重要な出来事の一つであり、信仰の土台である。事実としての復活なくして私たちの信仰は成り立たない。

 今年のイースター、主の復活が自分の人生に意味することを共にじっくり考えよう。それを深く知る時、私たちは世界の中で一番幸いな者であることに気づくだろう。神の御子が私の罪のために本来、私が受けねばならない罪の刑罰を一方的に、又完全に受けてくださり、そしてそればかりでなく死より甦られ、私のための十字架は真実であると証明してくださり、また終わりのときの復活を約束してくださっている。

 主の復活を知ることは心のうちが燃えるものだと聖書は告げる。(ルカ24章32節) それは真の平安と希望に包まれることである。復活の希望に生きよう。先人たちもこの復活の信仰に立ち、決して消えない希望を持ち続けたのである。