ひとりごをお与えになったほどに

■聖書:ヨハネの福音書3:16       ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16


1. はじめに

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。先程お読みいただいた聖書の言葉は、「聖書の中の聖書」とも呼ばれる、聖書のメッセージをぎゅっと要約した言葉であります。多くの方が暗唱している箇所ではないでしょうか。「聖書のメッセージ」と言いましたが、それは言い換えれば、神様から私たち一人ひとりへのメッセージです。聖書にはたくさんのことが書かれていますし、それらはひとつひとつがたいせつなことばですけれども、神様が私たちに届けたいことは、この「それほどまでの愛が注がれている」ということ、だから、その愛に応えて御子、神様のひとりであるイエスキリストを信じなさい、ということなのです。なぜかと言いますと、それは、滅びることを望まれない神様がおられました。ここで、この箇所を初めて開く多くの方が「おや」と思うのではないでしょうか。御子を信じる者が、一人として滅びることなく… 言葉を変えれば、御子を信じない限り、ひとりとして滅びから逃れることはできない。そのように言っているのです。いわば、もう私達は滅びへのコースを走らされている。そこから自力で逃げることはできないのだ、と。聖書を読んでいますと、「滅びの束縛」という言葉がありますが、文字通り、滅びでがんじがらめにされているのだというのです。

■これは、聖書の教えるすべての人が持つ「罪」の姿です。いや、私はそんなコースにいない、それは聖書が勝手に言っているだけだと思われるでしょうか。もしそうであるならば、私たちの歩みの先にあるものを考えていただきたいと思います。人はそれぞれですが、昨日よりも今日、今日よりも明日と、一歩一歩死に近づくものであります。原始仏教の経典には「あらゆる人は、ひたすらに、死に向かって進んでいる」という言葉がありますが、とどの時代にもそれは正しいと言えるでしょう。それがいつなのかは誰にもわかりません。けれども、すべての人に平等に訪れるものが、この「死」というものなのです。    

■生活の中で、悲しみや苦しみ、痛みがないわけではない。もちろんクリスチャンになったからといって、この肉体の死がなくなるわけではないのです。しかし、それでもなお、私たちには、決してなくならない喜びがある。滅びに向かう中で、苦しみや悲しみが襲いかかってくる困難な状況の中に時に傷つき倒れてしまう私たちですが、しかしそんな私たちでも、「御子を信じるものがひとりとして滅びること」のないようにと神様は望んでおられました。そして、「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された」のでした。「ひとり子をお与えになった」。さらりと描かれており、さらりと覚えている方もいるかもしれません。この言葉に込められている重みを、あるいはひとり子であるイエス様の痛み、苦しみ、悲しみを、みことばから教えられて参りましょう。それがすべて私たちのため、私たちに注がれている神様の愛であるということを、今朝、恵みのうちに教えられたいと願っています。 


2.  「神がひとり子をお与えになる」ということの意味 

■その愛の大きさは、「ひとり子をお与えになったほど」であるといいます。ここで「与える」という言葉が使われていますが、神がそのひとり子、すなわちイエスキリストを世に与えるというのは、実際に何を意味していたのでしょうか。その意味を知りますと、この短い一言からは想像もできないほどの、痛みと苦しみを含めた「与える」であることに気づかされます。それはずばりイエスキリストの十字架のできごとでありました。 

■今日から始まる一週間は教会では受難週と呼ばれる特別な週であります。45日、来週はイースターです。最近では、日本でもイースターが一つのお祭りのようにして取り上げられていますし、それは教会最寄りのスーパーのサービスカウンターでも見ることができるものであります。しかし、このイースターの本当の意味を知るためには、イースターに至るまでの受難週を経なければならない。いわばこの暗闇を通して、その痛みを感じて初めて、その先にあるイースターのまばゆい光を見るのであります。2000年前、受難週の文字通りにイエス様が十字架に向けて一歩一歩進まれる、苦難を受けられた週であります。教会の一番高いところに置かれている十字架ですが、多くの人にアクセサリーとしてしか知られていないこの十字架は、ローマ時代の死刑の道具でした。今ではその残虐性のゆえに廃止されていますが、当時は見せしめの意味もあったことがわかっています。死刑の中でも最も非道なものが、このイエスが受けた十字架であった。それゆえに、これは忌み嫌われるべきものの象徴のような意味を持っていたのです。このように考えるなら、当時の人々からしたら今日のアクセサリーとして十字架を着飾っている姿は、異常な光景でしょう。血のイメージを身にまとっている、罪の象徴でもって身を飾っている。ある意味で、人間の様子を表しているのかもしれません。人が皆向かっていく死のイメージを身にまとっているのだからです。

■罪人(ざいにん)の中でも極悪人がこの十字の木に貼り付けにされるのでした。十字架刑に使われた釘のレプリカを見せていただいたことがあります。大きさ20センチほどでしょうか、手にするとズシリと重い釘というよりは「くい」といった方が良いでしょう。鉄の冷たさもあってか、背筋がぞくりとしたことを覚えています。両手に一本ずつ、そして足を交差させて足の甲に一本の釘をさす。大抵の罪人(ざいにん)はこの痛みで気を失うと言います。しかしそれでもすぐには死ねないところがこの十字架刑の残虐なところです。十字架刑の死因は「窒息死」であるとされます。こんな言い方は変ですが、最も苦しい死に方です。はりつけ状態では、自然と体は下に下がっていきます。しかし、呼吸するために横隔膜を伸縮させるには、体を上へ持ち上げなければいけない。何度も体を持ち上げて息をしますが、徐々に手足の力だけで身体を持ち上げることができなくなり、呼吸困難へと陥り、ついには絶命する刑です。死因は窒息死なので、絶命までは何時間も、ひどい場合には数日かかることさえあったようです。残酷な刑と言われるのはこのためです

 

■さらにユダヤ人にとっては、この十字架という木に架けられるということは神に呪われることであるとされていました。他でもありません、旧約聖書の教えでそのように定められていたのです。つまり、父なる神様によって、子であるキリストは呪われた存在となった。実はここにこそ、十字架の真の意味があり、この点にこそ、イエス様の苦しみと、この受難の道を歩まれたことの本当の意味があるのです。肉体の痛み、多くの人々に嘲られ罵られる精神の苦しみ。確かにそれらも想像を絶するものでありました。しかし、ひとり子であるイエスが、父なる神から呪われる、言い換えるならば、父と子の麗しく暖かい関係が絶たれるところに、まさしく私たちが想像することもできないほどの痛みと苦難の極みがあったのであります。神様と関係が絶たれる。これは「罪」であると聖書は教えます。神様と共に、神様と向き合って生きるべきである本来の姿から離れた生き方です。アダムとエバは神の前から離れました。創世記3章を見ますと、罪を犯したアダムとエバが「神である主のみ顔を避けて」園の木に隠れたと書かれています。交わりを持とうとして彼らを探し歩き回られる神様。そんな神様に対して、その神様の声に答えず、優しい眼差しの中に立つことを嫌い隠れて生きる。神なんてない、自分には関係ない、私は私の勝手に生きる。それが罪人の生き方です。その結果は、冒頭でお話ししました「滅び」であるのです。「死」で終わる、苦しみに溢れた生き方であります。私たち人間は生まれながらにそのような存在でした。しかしながら、神の独り子であられるイエスさまにとってそれは当たり前ではないのです。本日のヨハネの福音書、117節には「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」として、本当に密接な、親密な関係をもっていた父なる神とこなるキリストの姿が描かれていました。そんなイエス様が、暖かいお父さんのふところから引き離され、それとは真逆の冷たく厳しくなんの良いこともない、人間の残虐の限りを尽くした十字架に貼り付けにされたのでした。聖書には「罪の報酬は死です」と教えていますから、神から離れた罪の、行き着くところは「死」であるということがわかる。十字架にかかり、神に呪われ、死なれるというのは、神から最も遠く離れたところであるということができるのでした。

 

■神の子が十字架刑を受けるということについて

神の子であるイエスキリストは、神なのだから苦しみなんて受けるはずがないという人がいます。苦しむなんておかしいじゃないかと罵るのです。しかし、この父との親しい交わりを持っていたからこそ、ここでの神からの呪いの象徴である十字架に架けられたということの重みがお分りいただけたでしょうか。いや、そもそも神から離れて生きていた私たちにとって、そのイエスが経験された痛みの全てを知ることは不可能です。「ひとり子を世に与えられた」。それは自分の手元から離すということです。それも「完全に」手放すということ。完全に世にお与えになった。神ご自身との関係を完全に絶つことに他ならなかったのです。そしてそれこそが、私が過ごしている今の季節、受難節と呼ばれる時期ですけれども、イエス様の十字架に進まれた、十字架にかかり、人々の嘲り罵り怒号の中で、死へと進まれたその最後の場面をあらわしています。

 

■なぜ、キリストが、この十字架の苦しみを受けなければならなかったのか。それはキリストにとって不幸なことだったのでしょうか。不本意の死だったのでしょうか。そうではありません。いやそれどころか、この十字架にかかり、全ての苦しみを受けられるためにこそ、イエス様は私たちのところへと来られたのであります。やはり同じヨハネの福音書19章を見たいと思います。ここにはイエスさまの十字架の最期の場面が描かれています。言い換えるならば、その苦しみが最も高まった瞬間であります。19:28からお読みします。「こののち、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこにはすいぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、すいぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、すいぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」本当でしたら、この苦しみの最初から丁寧に読んでいかなければならないのですが、今朝はその十字架の最期の場面、イエス様の残された最期の言葉に耳を傾けることに止めたいと思います。しかし、これを聞くだけで、私たちは気づくのです。イエス様はユダの裏切りによって十字架にかかったのでも、ユダヤ人たちの策略にはまったわけでも、不本意な、無念の死を遂げられたのでもない。この十字架にかかって苦しみを受け、死なれるために、まさにそのために、世に来られたのだということを知るのであります。最期の言葉はこうあります。「完了した」。先ほどお読みしました28節にある、「すべてのことが完了した」また、「聖書が成就する」と同じ言葉が使われています。その意味は、全ての計画が満ちた。すなわち、すべての目的が達せられたという言葉なのです。マタイとマルコの福音書では「大声で叫んだ」としか書かれていませんが、その叫びがこの「完了した、成し遂げた」であるのです。大声で、とあります。虫の息で、「すべてが終わった」と言っているのではない。力強く、ある人は宣言したとさえ言います。

 

■このように、イエス様がこの苦しみの最大級の象徴である十字架に向かわれたことは、神様の御心であり、イエス様はそれに従ったのでした。繰り返しになりますが、ここに苦しみがなかったわけではありません。イエス様は十字架にかかられる直前に、「苦しみもだえ」「汗が血のしずくのように」たれることも気にせずに切に祈られました。「父よ。みこころならば、この杯を私から取りのけてください」痛切な叫びです。まさに身が引き裂けんばかりの痛みと苦しみを覚えておられる。それは父なる神様から引き離されることの苦痛の叫びなのです。その叫びは、いよいよ十字架の最期、「完了した」と変わるのです。苦しみを、悲しみを、味わい尽くされた。神の御心はここに果たされたのです。これが「神は、実に、そのひとり子をお与えになった」ということの意味です。

 

■それほどまでに、世を愛されたのでありました。この「世」とは、言葉を補うならば「世の人々」。冒頭から申し上げておりますように、滅びへと向かう罪人である私たちです。神様から離れよう離れようとする私たちです。しかしなぜこの我が子を、最愛の子を十字架につけ、むごたらしく死なせることが、私たちへの愛となったのでしょうか。

 

3.        「そのひとり子をお与えになる」愛の深さ 

ここに愛が示されていると言われているのです。二つのことを覚えたいと思います。

一つ目は、イエス様が私たちの苦しみを知らない方ではないということです。痛みや苦しみを味わい尽くされたイエス様は、私たちの痛みを無下に弱いからだと言って切り捨てることなく、むやみにがんばれと励ますのでもなく、この弱い私の、傷つきやすく折れやすい心に寄り添ってくださるお方であるのです。ただ共にいて、その痛みを知り、その暖かい手で抱きしめてくださる。いわゆる、強く、他者を排除しながら勝ち上がっていくような存在には到底分かり得ない私たちの心の全てを知っていてくださる。このように生きたいと理想を抱いていても、そのように生きられない私がいます。強い気持ちを持って歩んでいきたいと願っていますけれども、さまざまな壁にぶつかってくじけそうになることがあります。そんな時、苦しみの人であるイエス様は、そのような私たちの弱さを知っていてくださるのです。「私たちの大祭司は、(これはイエス様のことです)、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」これが1点目の愛であります。いうなれば、寄り添ってくださるための十字架であった。

■しかしそれ以上に、あの十字架は身代わりの十字架であったということを覚えたいのであります。すなわち、罪の重荷を背負いつつ一歩一歩滅びへと向かう私たちの身代わりとなってくださった。ここに愛が表されているのです。先ほど、「完了した」というイエス様の最期の言葉から、イエス様はこのためにこの世に来られたのだ、このためにひとり子は世に与えられたのだということを確認しました。

 

4.  「永遠のいのち」を得るという意味 

イエス様は父なる神様への祈りの中で言われます。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」聖書に出てくる「知る」とは、単に知識として知るというだけの限られた意味ではなく、極めて近く親密な関係を持つことを表しています。まさしくその体温が伝わってくるくらいの近くへ、父なる神様のふところに抱かれていたひとり子イエス様。その父と子の本当に暖かな交わりの中へ、入ることなのです。「御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とは、神様とイエス様との関係の中に入れられるということだというのです。それほどまでの愛を受けている私たちです。十字架の死を受け入れ、この愛を受け止めていただきたいのです。